ピーターズバーグ包囲2011/10/31 22:13

 1864年6月上旬、コールドハーバーで凄まじい惨敗を演じたあと、グラントが取った行動は、それまでのポトマック軍司令官の誰とも違っていた。いや、まず違ったのは、北部連邦大統領リンカーンの態度だった。それまでのどの司令官も、リーに対してこれほどの負けは演じなかったが、ポトマック軍司令官としては不適格とされ、そのたびにいちいち人事異動が行われた。
 一方、グラントに対し、あまりの損害の多さに痛烈な非難があがったが、リンカーンはグラントを擁護し、彼を司令官として信頼し続けた。
 この大統領の支持を得て、グラントは次の作戦を開始した。ウィルダネス(荒野の戦い)からずっと、グラントはリーに挑みかかっては負け、南東、南東へと移動し続けた。その最終目標は南部連合の首都、リッチモンドだった。

 コールドハーバー後、北軍がまたも南東に移動したのを知って、リーは今度こそグラントがリッチモンドを直接攻撃する手に出たと判断した。当然、リーは主力をリッチモンドの守備につぎ込み、特に南東方面の守りを固めた。
 しかし、グラントはリーの予想よりも用心深かった。6月15日、グラントはおよそ75000の軍勢で、リッチモンドの40kmほど南の町、ピーターズバーグを攻撃しにかかったのである。
 ピーターズバーグに注目するか否かは、南北それぞれのおかれた現状の違いが影響した。
 リーにしてみれば、南北戦争は長引きすぎた。南部連合は人口的にも、物資的にも行き詰まっている。戦闘で局地的な勝利を得ることは出来ても、それらの大きな環境の違いをひっくり返せるはずもない。リーの北軍に対する強さは、ぎりぎりの所で戦争をもちこたえさせているのであって、先が知れている。最後の砦であるリッチモンドを重点と考えるのは、無理もなかった。
 一方、グラントと北軍のおかれた状況は、リーと南軍とは逆だった。政治的には ― つまり国際情勢的には、北軍は圧倒的に有利だった。ヨーロッパのどの国も、南部独立を実現させるような仲介には手を出さなかったのだ。
 そして、人口と工業力で資金も物資も豊富に供給される。西部戦線も優秀な部下によって着々と成果をあげつつあった。グラントには、性急に最重要拠点リッチモンドを衝いて、リーの凄まじい反撃を喰らう必要などなかった。
 ピーターズバーグはアポマトックス川沿いの町で、物資の集まる地点だった。街道や鉄道も多くここを経由し、まさにリッチモンドの補給基地の役割を担っていたのだ。グラントはこのピーターズバーグを包囲することにより、大きな意味でリッチモンドも包囲網の中に閉じ込める作戦に出た。日本の戦国時代の城攻めの如き、局地的なガチガチの包囲網ではなく、いかにもアメリカ的と言うべきか、実に雄大な作戦だった。

 当初、リーにはそのグラントの真意が分からなかった。あくまでも、グラントはリッチモンドを衝くとしばらく信じていたのである。従って、当初ピーターズバーグの守備にはボーレガードの15000ほどしか配置されていなかった。
 ボーレガードがピーターズバーグの守備についたということは、バミューダ・ハンドレッドの北軍バトラー軍10000が、やっと瓶の中から脱出し、戦闘参加可能になったということだった。
 グラントがもともとピーターズバーグの南東側に差し向けた75000に、バトラーの10000が北側から迫る。さすがに15000のボーレガードには防ぎきれない。しかし、ここで北軍内で情報伝達に齟齬が起こり、協調作戦が失敗に終わった。ピーターズバーグ北側の戦線を北軍が早々に放棄し、6月19日ごろまでにはリーが差し向けた本隊が到着して、ピーターズバーグは陥落から免れた。

 これ以降、約10ヶ月、長いピーターズバーグ(大きくとらえればリッチモンドも含めた)包囲戦が始まった。南北両軍は強固な塹壕を構築してにらみ合う。北軍はその兵力と資材の豊富さを活かして、その塹壕による包囲をじりじりと広げる作戦に出た。
 こうなると、まさに南軍は籠城状態で、さすがのリーも打つ手なしとなった。迅速で派手な展開こそ期待できないが、グラントはこの作戦でこの長い戦争の最終的な勝利者になろうとしていた。しかし、それは夏、秋、冬と三つの季節を見送る時間の向こうのことだった。

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