武侯祀2018/04/07 20:31

 中国四川省、成都と聞いて、パンダを思い浮かべるか、三国志を思い浮かべるか。私は両方だった。

 成都は、三国時代に劉備がその帝国,蜀の都とし、蜀の丞相であった諸葛孔明の根拠地となった。  三国時代は二世紀から三世紀のことであり、その時代をしのぶ遺構というものは成都にほとんど無いが、ただ諸葛孔明を祀った、「武侯祠」がある。武侯とは孔明の諡だ。
 木曜日の午前中で会議が終わり、午後が空いたので、一人で武侯祠に行くことにした。昔は成都の城外にあったことが杜甫の詩でも分かるが、いまとなっては、街のど真ん中。私が宿泊していたホテルからは、徒歩で50分ほどかかる。地下鉄もあるが、あまり効率の良い移動手段でもないし、タクシーはちょっとおっかないので、歩いて行くことにした。
 トコトコ中華人民をかき分け、成都の街中を歩くこと50分。武侯大通りに面して、このいわゆる「諸葛孔明神社」のようなものがある。司馬遼太郎が「街道を行く」でも訪れているが、べつに人で賑わっているとは書いていなかった ― が、これが今やもの凄い量の観光客で、大賑わいであった。



 武侯祠はすでに四世紀には作られていたらしい。孔明や劉備が物語の登場人物として世間の人気者になる遙か以前のことであり、彼らが同時代に、既に尊崇を集めていたことが分かる。今の武侯祠は、明朝から清朝時代に整備され、「三国志演義」の世界観で作られている。
 まずは大きな門と、入場口。有料だ。音声ガイドもある。もちろん有料で、外国人には多めのデポジットがかかるので、いくら現金が必要だ。この音声ガイドの日本語はあまり上手くないが、あった方が楽しめる。
 境内(?)は木々に囲まれ、まず劉備を祀る社殿(?)となる。中央に劉備、両脇に関羽,張飛の巨大な像が祀られ、その左右の回廊に超雲や黄忠などの有名な武官,文官の塑像が並んでいる。
 あらためて私にとっての「三国志」は何かと言えば、子どもの頃に見た人形劇が最初だった。ビジュアル的には、これがほぼ決定的になっている。しかしあれらの顔は、江戸時代の文楽人形を基礎とした、細面で上品な、和風の容姿。武候祠にならぶ塑像はもっと大陸的でぼってりとした、極彩色の、そして人によっては異形を持つ、造形として出迎えてくる。
 私にとっての三国志は、岩波少年文庫と、吉川英治を読んで終わりで、その知識もすっかり薄れており、居並ぶ人形たちの名前を見て「この人誰だろう」も多かった。

 回廊の壁には、「出師の表」も掲げられている。孔明が北征にあたって書いた上奏文として有名。



「臣、亮、もうす。 先帝(劉備)、創業いまだ半ばならずして、中道に崩殂せり。 今 天下三分して、益州疲弊す。 此れ誠に危急存亡の秋なり」

 劉備の社殿の先が、孔明を祀る「武侯祠」であり、ここにまた巨大な孔明像がでんと構えている。その奥にはさらに劉備,関羽,張飛が義兄弟の契りを結んだ事を記念したお堂などがあり、こうなると成都とは直接関係ない、「三国志演義」テーマパークの様相を呈してきた。三国志ファンとしてはたまらなく楽しいだろう。

 そもそも、どうしてここに「武侯祠」が作られたかというと、劉備の墓があるからだ。「恵陵」という円墳で、かなりの大きさがある。



 本当にこの丸い山に劉備玄徳が葬られているのかどうかは、よく分からない。とにかく昔の話だ。ともあれ、三顧の礼をもって孔明を迎えた主君劉備の墓があり、それを護るかのように、孔明をまつる祀堂ができたということらしい。

 境内には三国志資料館のような建物もあるが、その周りの橋に彫刻があって、三国志の名場面が刻まれているのが面白かった。これは、曹操と食事をしていた最中に、思わず箸を落としそうになる劉備。



 三国志が好きなら、まず行って良い所が「武侯祀」だろう。町中なのでアクセスも良いし、隣りには賑やかな商店街が整備されている。
 司馬遼太郎が来た時は「門前町はない」とあるが、その後観光名所として整備され、中国の伝統的な様式の小路になっている。その両側が飲食店や、お土産物屋になっていて、ここだけでも十分楽しめる。伊勢の「おかげ横町」のようなものだろう。私もお茶などのお土産を購入。中国語と英語で通じているような、全く通じていないような会話で、楽しかった。



 さすがに現代で、三国志に登場する面々 ― もちろん劉備とその配下のものばかりだが ― も、いわゆる「キャラ」になっている。

 

 甥のために買った「孔明くん人形」は500円ほどだった。

 後になって、同僚にこの「諸葛孔明神社」を歩いて往復したことを言ったら、仰天された。初めて来た中国で、一人でそこまでトコトコ出かけて、帰ってきたというのが驚きだったらしい。昼間だし、天気も良かったので、良い運動だ。
 成都に来たら、パンダと武侯祠。この二つはおさえておきたい。

Wheat before the Sickle2017/12/17 15:51

 自分で翻訳した「カントム」― Conversatins with Tom Petty を読みながら、我ながら良くできていると思っている。
 ところどころ、苦労している感じも見受けられる。英語や翻訳の専門家ではないのだから仕方がない。苦笑している。
 だいたいは、頑張ってなんとか翻訳しているのだが、一箇所、完全に翻訳を諦めている箇所があった。後半,part two, songs の [The Last DJ] のところだ。昨今の、大量生産された、芸能人の存在に苦言を呈して、このように続けている。

 TP:だから、大きな変化が起きるか、もっとすてきな何かが出現するかして、この停滞を打ち壊してくれることを望むしかないんだ。

Q:それはあり得るでしょうか?

TP:いつだって、起こり得るだろう。つまりさ、60年代にビートルズが現れて、停滞を打ち壊しただろう。
 あんなことは他に、ニルヴァーナが突然あらわれて、偽物のヘアスプレー・バンドを失業せしめた時だけだったな。(???次の日は、小麦は刈り取られる前の日だった???翻訳不能)
 The only other time I've seen that happen is when Nirvana came and suddenly all those fake hairspray bands were completedly out of work. The next day. It was wheat before the sickle.




 もういちど、この箇所に挑戦してみた。
 当時、このわからないフレーズをそままググるということを、しなかったのだろうか。
 分かったのは、"wheat before the sickle" という表現は、南北戦争,ゲティスバーグの戦いに関連するフレーズだということだ。

 ゲティスバーグの3日目 ― 1863年7月3日 ― 南軍ロングストリート麾下のピケットが北軍に対して一斉攻撃を仕掛けた、いわゆる「ピケッツ・チャージ」。ジョージ・ピケット少将の名を取ってその名が付けられたが、実際にはロングストリート麾下のトリンブル少将と、ペティグルー准将の師団もこれに加わっている。そのため、「ピケット=ペティグルー=トリンブル・チャージ」とする方が正確だという人もいる。
 ペティグルーの師団に、セオドア・フッドという23歳の若い軍曹がいた。有名なジョン・ベル・フッドとは遠い親戚にあたるそうだ。彼はこの戦闘で負傷し、捕虜になった。後年、自分の南北戦争での体験を語っており、「ピケッツ・チャージ」が失敗に終わった時のことを、このように表現している。

 “and volleys of deadly missiles were sent into our ranks which mowed us down like wheat before the sickle.”
 北軍の猛烈な砲撃は、私たちの隊をなぎ倒した。まるで刈り取られるがままの麦の穂のようだった。


 「カントム」を翻訳したとき、before を時間的に「前に」だと思い込んでいたために、混乱してしまったらしい。刈り取り鎌を「目の前にした」,麦の穂という表現だったのだ。
 「ニルヴァーナが登場した翌日には、偽物の作りあげられたスプレー・バンド ― 大量生産品としてのアーチスト達 ― は、もう全滅状態だった。刈り取られるままの麦の穂というわけさ。」となるだろう。

 この「全滅せしめられる」という意味での、「刈り取られるがままの麦の穂 like wheat before the sickle」という言葉は、アメリカではよく知られている表現なのだろうか。とにかく、トム・ペティはこの表現を知っていたことになる。
 南北戦争に由来する言葉としては、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズの3枚目のアルバム [Damn the Torpedoes] がある。これは、1864年8月のアラバマ州モービル湾攻撃において、北軍のデイヴィッド・ファラガットが放った一言、"Damn the torpedoes! Go ahead!"「機雷なんて糞くらえだ!前進せよ!」に由来している。 どんな障害にも目をくれず、前進するこの頃のハートブレイカーズの状況に合っていたのだろう。

 2008年8月14日 機雷なんて糞くらえだ!

 一般的なアメリカ人が、この手の言葉を普通に知っているのか、否か。トムさんが実は詳しい方なのか。歴史に興味があるようには見えないのだが。ファンの私たちは知らない、トムさんの一面なのかも知れない。

Heartberakers ハイドパークに見参!2017/07/08 22:48

 さていよいよ、9日日曜日は、ロンドンのハイドパークで行われる、"Barclaycard presents British Summer" の最終日、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズが登場する。



 ところで、ハイドパークのことである。
 私はこれまでに4回ロンドンに行っているが、実はハイドパークには行っていない。厳密に言えば、ロイヤル・アルバート・ホールの写真を撮るためにアルバート記念碑のところには行ったが、ハイドパークには用が無いので、入っていないのだ。
 私は旅行ガイドによくある「のんびりお散歩」というものには全く興味がなく、目的地を決めると、まっしぐら、脇目もふらずに最短距離,最短交通手段を取る。そうなるとニューヨークのセントラル・パークやハイドパークを、のんびりお散歩という選択肢は生まれてこない。

 ハイドパークの歴史をWikipediaで見てみると、11世紀のノルマン・コンクェスト後の検地ですでに "Eia"卿の土地として記録されているとのこと。この "Eia" 卿だが、その後イーバリー Ebury と呼び方が代わり、ベルグレーヴィアの通りにその名が残っているそうだ。ついでに言えば、モーツァルトは8歳のとき、ここに滞在し、彼にとって最初の交響曲を作ったと言うことになっている。
 ともあれ、今のハイドパークの原型は、その後ウェストミンスター・アビーの荘園となった。
 16世紀にはヘンリー8世がアビーから荘園を買い上げ、その後王室所有の森,もしくは猟場になった。
 この公園が広く市民に開放されたのは1851年の万国博覧会以降のようだ。

 ハイドパークで大規模なロックコンサートが行われるようになったのは、1968年以降で、ピンク・フロイド、ブラインド・フェイス、そしてザ・ローリング・ストーンズがその始まりを飾った。
 1990年代のプリンス・トラストではボブ・ディランが登場して、その映像は私のお気に入りだ。こういうロックなディランが格好良い。さりげなくゲストのロニー・ウッドが楽しそうにしているのが、また良い。



 さて、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ。前座をつとめるスティーヴィー・ニックスと共演することは予想の範囲内だが、それ以上の何かサプライズがあるのか、そしてトムさんは屋外限定らしき、謎のターバン(ワイト島のディラン様のまねだと思う)で登場するのか?楽しみだ。

Leicester City2016/05/05 21:28

 サッカーには全く興味が無いが、イングランド・プレミア・リーグで、レスター・シティが1884年の創立以来、初めて優勝したということはニュースで知った。
 何でも、弱小チームのひとつで、ブックメーカーでのレスター優勝の倍率は5000倍とか、そういうダークホースが、優勝してしまったのだから大騒ぎなのだという。

 レスター、レスターといっても、同じ名前の都市はあるだろうなぁ、と思っていたら、本当にあのレスターだった。
 あのレスターとは、2013年に私が友人と一緒に行ったレスターである。15世紀のイングランド国王リチャード3世の遺骨が発掘された、大学町だ。そのときのレポートはこちら。
 リチャード三世をめぐる旅 Looking for Richard in Leicester, Bosworth

 そのリチャードとレスター・シティに関連して、こんな記事があった。

岡崎レスター初優勝 リチャード3世効果 昨年の再埋葬後、勝率は倍の63%に

 なんと!リチャード3世の霊験あらたか?!
 レスターはリチャードの地元ではないし、近くのボズワース・バトルフィールドで戦死した後、葬られた場所なので、レスター・シティに味方してくれるかどうかは疑問なのだが…300年以上も居れば、愛着がわくという物だろうか。
 この記事では、リチャードの埋葬場所をレスターにするか、彼の実家のお膝元であるヨークにするかで、司法判断が下されたとも、書いてある。私がレスターに行ったとき、レスターはリチャードを埋葬する気満々で、墓所の想像図CGなども飾ってあった。
 やはり、リチャードはレスターに眠ることになったのだ。
 記事にはレスター大聖堂に掲げられるレスター・シティの旗の写真が掲載されている。サッカー門外漢としても、ちょっと嬉しい気持ちだ。

 ロック・バンドのカサビアンは、レスター出身なので、サポーターだとのこと。でも!私は!カサビアンを全く知らない!
 そんな訳で、ここではカサビアンではなく、レスター・サポーターの笑える動画をどうぞ。
 対戦相手マンチェスター・シティのホームで、数少ないレスター・サポーターが上げたチャント。負け試合にうんざりして、早々に帰ってしまうマンチェスター・シティ・サポーターに向けられたものだ。傑作。
 これ、レスターに限らず、ほかのチームのサポーターもやるそうだ。

南北戦争その後 / テンチ家の兄弟(その12 最終回)2015/05/24 16:11

 まる4年間の戦闘期間を経て、南北戦争は終わった。  国を二分した、長い戦争は、敗者となった南部の産業に打撃を与え、回復は長く困難な道のりとなった。
 奴隷制は廃止されたが、本当の意味での解放にはほど遠く、課題は20世紀、そして今日にも持ち越されている。

 エイブラハム・リンカーンは、戦争の完全な終結を待つことなく、1865年4月14年、ワシントンのフォード劇場で銃撃され、翌日死亡した。
 アメリカ史上、もっとも偉大な大統領の一人とされるリンカーンだが、この任期はまるまる戦時であり、平時の大統領としての手腕は未知のままとなった。

 戦勝将軍となったユリシーズ・グラントは、リンカーンからフォード劇場に招待されていたが、それを断り、リンカーン遭難の現場にはいなかった。
 その後政治家に転身し、1869年から2期8年間アメリカ合衆国大統領をつとめた。栄光の将軍だったグラントも、汚職やスキャンダルのため、大統領として芳しい評判を得ることはなかった。
 明治5年、日本から来た岩倉使節団を迎えた合衆国大統領がグラントである。大統領退任後、来日もしている。南北戦争終結から20年後の1885年に亡くなり、現在では50ドル紙幣にその姿を見ることが出来る。

 ウィリアム・テクムセ・シャーマンは戦争終結後も陸軍に残り、1869年にはグラントの後任として大将に昇進し、陸軍総司令官をつとめた。陸軍を退いてから8年後1891年に亡くなっている。

 ジョーゼフ・ジョンストンは降伏後、鉄道,保険,運送など実業界に身を置いて活躍した。シャーマンに対しては友情と尊敬の思いを持ち続け、シャーマンの葬儀ではその棺を担いだ。ジョンストンが亡くなったのはその数週間後、84歳。南北戦争終結から26年が経過していた。

 ロバート・E・リーは、戦争終結後、拘束されることはなかったが、市民権は剥奪された。彼は軍を退き、農場へ引退したいと考えていたが、彼のカリスマ性,影響力がそれを許さなかった。
 アポマトックスでの降伏から半年後、ヴァージニア州のワシントン大学の学長に就任した。ザ・バンドの曲 "The Night They Drove Old Divie Down" に登場する、ロバート・E・リーはこの時期の姿だろうか。
 後にワシントン・アンド・リー大学と改めるこの学校構内には、リーの要望で作られた小さなチャペルがあるが、1870年にリーが亡くなったあと、彼はここに葬られることになった。

 テンチ家の兄弟 ― ジョン・ウォルター・テンチ少佐と、弟のルーベン・モンモランシー・テンチは、生まれ故郷ジョージア州ニューナンに戻り、次なる人生へと踏み出した。
 弟のルーベンは医者になり、1910年に亡くなっている。

 一方、兄のジョン・W・テンチ少佐は結婚後妻の伯父が住んでいた、フロリダ州ゲインズヴィルに移住した。同地で教育者,新聞発行者,文筆家として尊敬をあつめ、1926年に亡くなった。息子のベンジャミン・モンモランシー・テンチ ― 通称「ベンモント」以降の子孫達もゲインズヴィルに生まれ育っている。



 少佐の軍服姿の肖像画がいつ描かれたかは分からないが、少佐の孫,ベンモント・テンチ Jr.の家の居間には、これが飾られていた。1974年のある日、少佐のひ孫にあたるベンモント・テンチⅢと、そのバンド仲間が、少佐の肖像の前で録音を行った。彼らはそのテープを携えてLAへと旅立った。
 南北戦争終結から、約110年が経っていた。

南北戦争の終わり / テンチ家の兄弟(その11)2015/04/27 22:18

 テネシー軍と呼ばれる ― 要は西部戦線の残存南部連合群を率いたジョーゼフ・ジョンストンは、どのような手段でリーの降伏を知ったのだろうか。  南軍の電信はまだ機能していたのだろうか。それとも新聞にでも載ったか、伝令が来たか。むしろ、北軍のシャーマンから知らされたかも知れない。

 ともあれ、リーの降伏を知ったジョンストンは、シャーマンに降ることを決意した。
 南部連合国大統領デイヴィスは戦争の継続を指示しており、ジョンストンはそれに逆らうことになったということになっているが、その点の真相はよくわからない。

 最初の会見はリーの降伏の8日後,4月17日。場所はノース・カロライナ州ダーラムの、ベネット氏宅だった。ベネット氏もまた、アポマトックスのマクリーン氏と同じくこの戦争の被害を受けた人で、息子を亡くしていた。
 会見はいきなり緊張から始まったという。シャーマンが持参し、ジョンストンに見せた電報には、リンカーン死亡(4月15日)が記されていたのだ。
 この会見は、アポマトックスにおけるリーとグラントのそれとは異なり、ジョンストンが率いる兵だけではなく、南部連合軍全ての降伏について話し合われた。
 翌日18日には南部連合陸軍長官ブレッキンリッジが同席している。デイヴィスが戦争の継続を望んでいたかどうか分からないのは、この長官の存在のせいだ。閣僚が同席している以上、南部連合政府として降伏を意図していたのではないだろうか。

 24日にはグラントもダーラムに到着し、ジョンストンとの降伏交渉に加わった。そして合意がなされ、ノースカロライナ,サウスカロライナ,ジョージア,フロリダ各州のに残っていた南部連合軍は解散することになった。
 合計すると89271名。南北戦争で再多数の降伏兵士数だった。

 シャーマンは、降伏した南部軍兵士たちに、10日分の食料や、馬の飼料を提供した。さらに、市民への穀物などの提供も申し出ている。海への進軍で徹底的に南部の生活基盤を破壊し、その行為の代名詞ともなったシャーマンだが ― とにかく戦争は終わったのだ。
 ジョンストンは、シャーマンの寛大な措置に感銘を受けたらしい。戦後、二人は親しい友人となったという。

 テンチ家の兄弟 ― 兄のジョン・ウォルター・テンチ少佐と、弟のルービン・モンモランシー・テンチの戦争も終わった。
 彼らが所属していたジョージア州第一騎兵連隊は50人ほど、最後までテネシー軍にとどまっており、ジョンストンの降伏とともに武装解除、解散となった。
 彼らは間もなく故郷 ― ジョージア州ニューナンに帰っただろう。両親や妹たちの待つ故郷へ。ジョンは26歳、ルービンは21歳。大きな戦争と、敵対していたはずの大統領の死、これまでとは違うアメリカ、変わらず愛する故郷、でもこれまでとは、どこか違う故郷南部で、若い二人は改めて人生を歩み出した。

アポマトックス2015/04/09 20:50

 日本経済新聞の夕刊に、月曜日からピーター・バラカンさんのコラムが連載されている。昨日は、「売れなかった好きな音楽」として、トム・ペティに言及している。
 しかもTP&HBのハイレゾが発売になっている。
 しかし、今日は4月9日 ― 150年後の4月9日なので、どうしても南北戦争の記事を書かなければならない。

 1865年3月末から4月初頭にかけて、南軍のロバート・E・リーはピーターズバーグの持久戦から脱すべく行動を起こしたが、北軍の大軍になすすべも無かった。
 4月3日、南部連合軍はアポマトックス川に沿って西へ移動しはじめた。シェナンドア渓谷の地の利を生かして北軍の攻撃をかわし、ジョージア州にいるジョンストンの軍と合流することを意図していた。
 しかし、北軍のグラントはそれを許さなかった。北軍は10倍近い兵力をもって、リーを追撃した。グラントはオードとともに南回りで、ミードは北回りで、リーとの小さな戦闘を繰り返しながら、徐々にリーの進む道を狭めつつあった。
 4月6日にはリッチモンドからのなけなしの物資が破壊され、リーはさらに追い詰められた。そして、ピーターズバーグから西へ約120km、アポマトックス・コートハウス付近で、シェリダン率いる北軍の騎兵がリーを待ち受けるに至った。
 リーは降伏を決断し、それをグラントへ伝えた。
 南軍の将校の多くはリーの降伏の決断を指示していた。しかし、一部にはゲリラ戦をすすめる意見もあったという。それに対する、リーの言葉は有名だ。軍人としての自負、自覚、責任感が滲み出ている。

 I suppose there is nothing for me to do but go and see General Grant. And I would rather die a thousand deaths.
 グラント将軍に会いにいくほかない。1000回死ぬ方がましだが。


 アポマトックス・コートハウスというのは、巡回裁判所の名前であり、その周辺地域を指す名前でもある。その地域にある、マクリーン氏の自宅が、リーとグラントの会見会場となった。
 このマクリーン氏、開戦から間もない頃の戦場だったマナサス(ブルラン)に住んでいたが、戦闘を避けてアポマトックスに引っ越していたのだという。運が悪いと言うべきだが、その悪運のせいで米国史にその名をとどめることになった。

 1865年4月9日午後、リーはマクリーン邸に礼装で到着した。グラントも到着し、降伏文書の取り交わしが行われた。南軍兵士は武器を引き渡し、もはや戦闘に加わらないことを宣誓する。捕虜ではあるが仮釈放という身分になり、身柄は拘束されない。
 南軍の兵士達は故郷から自前で馬をつれてきていたが、馬も武器の一部である。携行は許されていなかったが、リーはこの点について譲歩を希望した。グラントは便宜を図ることを約束した。南軍の兵士達は、馬を連れて故郷へ帰ることができる。

 アポマトックスにおけるリーの降伏によって、南北戦争は終わった。― 厳密にはそうではないのだが、多くの南北戦争の本は、この気高く物静かな老将のアポマトックスでの降伏シーンをもって終わっている。
 グラントもこれで終わったと思った。リンカーンもまた同じ気持ちだっただろう。リンカーンは戦争に勝利し、これから新しい国を指導する気持ちを新たにしたに違いない。
 しかし、それは5日間しか続かなかった。リンカーンがワシントンの劇場で銃撃されたのは、アポマトックスから5日後の4月14日だった。翌4月15日、リンカーンは死んだ。

リッチモンド陥落2015/04/04 20:36

 ロバート・E・リー率いる55000の南部連合軍は、南部連合国の首都リンチモンドの南ピーターズバーグに布陣し、ユリシーズ・グラント率いる125000の北軍がこれを包囲したのが1864年6月。それから半年以上が経過した。
 北軍はこれまでに、守りを固めるリーに攻撃を仕掛けて、恐ろしく酷い目に遭いつづけている。我慢強いグラントは長期包囲戦に持ち込んだ。



 北部連邦リンカーン大統領にすれな戦争も4年、早く決着をつけたいところだが、幸い1864年の大統領選挙には勝利した。政治的問題を一つ乗り越え、グラントの持久戦は1865年に持ち越された。
 ピーターズバーグ包囲中、北軍は南軍の補給路を断つことに力を傾けた。ザ・バンドの楽曲 "The Night They Drove Old Dixie Down" で「ストーンマンの騎兵がダンヴィル鉄道を破壊する」とあるとおりだ。
 ピーターズバーグの補給路が断たれることはイコール、首都リッチモンドもまた干上がることも意味していた。

 西部戦線で南部連合軍は負け続きで、とうとう残存兵がジョンストンのもとに寄り集まっただけになってしまった。しかし、まだ降伏はしていない。
 1865年3月末、リーはジョンストンとの合流を最期の望みとして、行動を起こすことを決断した。これは得意の守りを破ることであり、実のところグラントが待ち望んだ事でもあった。

 3月25日、リーはジョン・ゴードンをして北軍のステッドマン砦を攻撃させた。その方面に北軍が兵力を集中する間に西走して大回りに南を目指す作戦だ。しかしこの攻撃は数にまさる北軍に大した脅威は与えなかった。
 グラントはこの戦闘から、リーの行動を読んだ。すかさず、グラントはリーの本隊に総攻撃を仕掛けた。ピーターズバーグの防衛線は数日耐えたが、とうとう4月2日に突破を許した。
 リーはリッチモンドに対し、撤退を勧告した。そして軍をピーターズバーグから脱出させ、西へと移動させ始めた。北軍はその北側から併走し、時として小規模な衝突を繰り返しつつ、さらに西へと移動した。

 リッチモンドの南部連合国内閣は4月2日、リーからの勧告を受けてリッチモンド退去を決定。かろうじて通じていた鉄道,リッチモンド・ダンヴィル線でデイヴィス大統領以下、脱出した。
 翌4月3日、北軍がリッチモンドに入り、ここに南部連合国首都リッチもモンドは陥落した。せめてもの南部の抵抗として、北軍に物資を与えないために、街の多くが燃やされていた。

 リンカーンは、早くも4月4日 ― 150年前の今日 ― にはリッチモンド入りした。その来訪に歓喜した黒人たちがリンカーンの足下にひざまずいたところ、彼が "Don't kneel to me. You must kneel only to God." 「いけない、ひざまずくべきは神の御前だけです。」と言ったのはこのときだ。
 リンカーンは4月8日にはワシントンへ戻った。彼が大統領としてリッチモンドを訪れたのは、これが最初で最後だった。

Clarence2015/03/26 22:13

 ディラン様ラジオこと [Theme Time Radio Hour] は、最終回に向けて2週連続で集中放送。先週は2時間の拡大版 "Clearance Sale" の放送があった。
 「在庫一掃」の "clearance" と掛けて、クラレンス Clarence という名前の男性の特集でもある。

 クラレンスという名前の起こりは、クラレンス公爵というイングランドの爵位から始まっており、王族の公爵位としては、あまり高くない ― という解説。最初のクラレンス公爵は、「アントワープのライオネルという人」とのこと。
 それで、はたと思った。そうか、クラレンス・ホワイトのクラレンスは、クラレンス公爵のクラレンスであって、あのライオネル・オブ・アントワープなのかと。
 あまり高くないとは言っても、そこは公爵であり、王族にのみ与えられるのだから、かなり高い位だ。

 「あのライオネル・オブ・アントワープ」は、彼自身の事績こそほとんど知られていないが、その子孫の存在がその後のイングランド史に大きな影響を及ぼしたため、それだけの知名度を持っている。
 プランタジニット家のイングランド国王エドワード三世には成人した男子が5人おり、上からエドワード,ライオネル,ジョン,エドマンド,トマスと言う。父親と同名の長男エドワードが「ブラック・プリンス」として有名な人物で、次の国王のはずだったが、父王より先に死んでいる。このため、エドワード三世の次はブラック・プリンスの息子,リチャード二世が即位した。
 次男のクラレンス公爵ライオネルは兄よりさらに早く30歳の時に死んでおり、フィリッパという女子のみを残した。このフィリッパが、第3代マーチ伯爵エドマンド・モーティマーと結婚し、その息子は同じく第4代マーチ伯ロジャー・モーティマー。国王リチャード二世が、自分にとっては従妹の息子にあたるこのロジャー・モーティマーを、王位継承者に指定したのが、混乱の元だった。
 国王リチャード二世がマーチ伯を王位継承者に指定したのは、国王がまだ若い時で、世継ぎが生まれるのはこれからだというのに、「従妹の息子」という、エドワード三世の男系男子たちにとっては、王位からは遠いはずの人物を指名したのだ。混乱は当然だろう。
 その後の展開は割愛するが、とにかくイングランドの王位を巡る薔薇戦争の泥沼は、初代クラレンス公爵ライオネル・オブ・アントワープが残した唯一の歴史的事績 -娘フィリッパの誕生から発している。

 ライオネル・オブ・アントワープに男子がなかったのでクラレンス公爵位はいちど廃され、次にクラレンス公爵になったのが、トマス・オブ・ランカスター。ランカスター朝の初代国王ヘンリー四世の次男だ。ちなみに、エドワード三世の曾孫にあたる。
 兄のヘンリー五世が即位したと同時にクラレンス公爵に叙され、兄の代理としてフランスとの百年戦争の戦闘を指揮したが、33歳の時に戦死してしまった。指揮官である国王の弟が戦死するほどの負け戦というのも驚きだが、とにかくこのクラレンス公爵には子供がいなかったため、再びクラレンス公爵位は空位となった。
 ちなみに、ヘンリー五世は弟の死後、自らフランスに乗り込んで大勝ちしている。

 次にクラレンス公爵になったのが、ジョージ・オブ・ヨーク。エドワード四世の弟で、エドワード三世の四代孫にあたる。
 おそらく、このジョージが一番有名なクラレンス公爵だろう。欲が深く、簡単に人に唆され、行動に説得力がない。なかなかのキャラの持ち主で、せっかく兄が大バトルの末に国王になったのに、裏切ったり、謝ったり、あっちについたり、こっちについたり。しまいには反逆罪で処刑(?)される。イメージでは、ワインの樽に頭からさかさまに突っ込んでいる。
 そんなクラレンス公爵ジョージには男子エドワードがおり、実はこれがプランタジニット家の最後の男子だった。血統からするとかなり有力な国王候補なのだが、時流には逆らえず、チューダー朝の開祖ヘンリー七世によって処刑された。

 ジョージの印象が悪すぎるのか、クラレンス公爵位はその後長い間空位となったままで、次に登場したのは18世紀末だった。ジョージ三世の三男がクラレンス公爵になったのだが、後にウィリアム四世として即位する。
 ウィリアム四世にも嫡男がなかったため、クラレンス公爵位はまたもや空位となり、19世紀末にヴィクトリア女王の孫アルバートがクラレンス公爵になった。しかしまたもや嫡子を残さないまま死んだため、以後クラレンス公爵位は現在まで空位のままとなっている。

 音楽と歴史、とりとめもなく思いを馳せるのは最良の娯楽だ。
 最後は、クラレンス・ホワイトのギター・ソロだと…思う、ザ・バーズの "Ballad of Easy Rider"。

ベントンヴィルの戦い / テンチ家の兄弟(その10)2015/03/11 22:27

 またもや間が開いてしまったが、南北戦争も大詰めである。

 東部戦線では南部連合国首都ヴァージニア州リッチモンドの約30kmのピーターズバーグにロバート・E・リー率いる南軍が布陣し、それに対して北軍のグラントは持久戦に持ち込んでいた。
 一方、西部戦線は、北軍を率いるシャーマンがジョージア州サヴァンナ,即ち大西洋岸に達し、彼らはそこから北上しはじめた。1865年1月、ノースカロライナ州ウィルミントンが陥落。いよいよ、シャーマンはヴァージニア州へと進もうとしている。

 もはや西部戦線(だった)南軍は壊滅状態だった。残った兵たちをまとめる役目が、ジョーゼフ・ジョンストンに回って来た。彼は前年のアトランタ陥落以降その任を解かれていたのだが、この土壇場に来て、また引っ張り出される事になったのだ。
 ジョンストンのもとに集まった南部連合軍は21000。上級将官たちは、P.G.T.ボーレガードに、グラグストン・ブラッグ,ウィリアム・ハーディ,D.H.ヒルなど、これまでの戦いに名を連ねたお歴々である。

 シャーマンが率いる北部連邦軍はノースカロライナ州を北上し、ヴァージニアのグラントとの連携を意図していた。それを阻止するべく、ジョンストン率いる南軍は、3月19日、ベントンヴィルで北軍に攻撃を仕掛けた。
 まず、南軍の騎兵が北軍の左翼への攻撃を行った。当初北軍はそれほど大きな部隊の攻撃とは思っていなかったが、続いて歩兵が攻撃を仕掛け、北軍は退却を余儀なくされた。
左翼が退却したとは言え、シャーマンが率いる北軍は南軍の約3倍の兵力である。すぐに援軍が南軍の攻撃を押し返した。
 3月21日には、シャーマンは逆に南軍の左翼に攻撃を仕掛けた。南軍が北軍の左翼を集中的に攻撃下以上、南軍自身の左翼は当然手薄だったのだろう。シャーマンにとっては、この残存兵の集まりを壊滅させ、降伏に持ち込むチャンスだったが、彼は判断を誤った(自分で認めている)。
 シャーマンは攻撃を停止させ、もう追撃する余力のないジョンストンの南軍を置いて北進を続けることにしたのだ。

 南軍の損失は2000。その兵力は10000を切ってしまった。万事休すだった。

 さて、ここでまた久しぶりの人物が登場する。ジョン・ウォルター・テンチ(ベンモント・テンチの曾祖父)と、ルービン・モンモランシー・テンチ。テンチ家の兄弟である。
 彼らが所属していたジョージア第一騎兵連隊は壊滅状態で、この頃にはウィーラーの騎兵に編入されていたようだ。
 ウィーラーもベントンヴィルの戦いで騎兵を率いているので、おそらくテンチ家の兄弟も参加していただろう。その後も、テンチ兄弟はジョンストンの指揮下に残ることになった。
 テンチ家の兄弟が騎兵として南軍に身を投じたのが1861年開戦当時。その6月には末の弟ジェイムズが戦死している。あれから4年。テンチ兄弟の南軍騎兵生活も最終局面を迎えていた。