ロスト・キング2023/10/14 21:25

 映画「ロスト・キング 500年越しの運命」を見た。  スコットランド,エジンバラに住む仕事も、家庭生活もイマイチイなフィリッパ・ラングレーが、シェイクスピアの「リチャード三世」の舞台を鑑賞したのをきっかけに、リチャードの実像に迫り、その遺体を発見しようと奮闘する物語。2012年にイングランドのレスターで実際に起きた、「リチャード三世の遺骨発見」を題材にした作品だ。
 歴史好きで、とりわけプランタジニット朝(ランカスター朝,ヨーク朝を含む)に関心があり、リチャード三世に関しては「悪人説」否定派、二人の甥殺しについては五分五分という見解、二回レスターを尋ね、リチャードの墓にまで参った身としては、見ないわけには行かない、ドキドキ映画だった。



 結論から言うと、イマイチ!期待値よりも面白くなかった。残念。
 チューダー朝とシェイクスピアが広めた、「容姿醜悪、極悪非道のモンスター」というリチャード像の逆を行く ―― つまり、発掘された骨から再現されたリチャードの容姿に近い、若く美しいリチャードの登場は嬉しかったが、いかんせん出番が多すぎた。物語にロマンを盛るには一つの手段だったかも知れないが、フィリッパが夢とロマンだけでリチャードを発見に至ったみたいで、ちょっと納得がいかなかった。
 実際のフィリッパ・ラングレーはもちろん、あんな短期間にリチャード擁護派(リカーディアン)になってすぐに遺骨を発見したわけではなく、もっと長い期間をかけ、それこそ今回映画で悪役になったレスター大学や、レスター市そして、BBCの力も借りて、いよいよ掘ったら、まさに遺骨が出たのだ。博打ではなく、かなり確信があっての発掘だったことを、当時から知っているだけに、映画はちょっとチープで簡単すぎた。
 しかも、リチャードのDNA鑑定にはそれなりに時間が掛かったし、長い調査期間があり、そして発掘場所のレスターと、ヨーク家のヨークが埋葬場所を巡ってかなり長い間争った。やっと埋葬式がおこなわれ、ベネディクト・カンバーバッチが出席したのは、映画とは違ってかなり後なのだ。

 やはりフィリッパの活躍は彼女自身をBBCが追い、サイモン・ファーナビーが案内役を務めたテレビドキュメンタリー,[Richard III: The King in the Car Park] が一番面白い。DVDも出ている。ちなみに、映画では埋葬式のシーンにフィリッパ自身が出演していた。



 音楽的にもこれといって面白い要素が無くて残念。私が好きな映画はだいたい、音楽も良いものだ。
 やはり、事実は小説よりも奇なり ―― と言ったところだろうか。

The Lost King2023/06/29 20:56

 きたる9月22日、映画「ロスト・キング 500年越しの運命」が日本で公開される。2012年、イングランド, レスターの駐車場から発掘された骨は、本物のリチャード三世のものだったという一大事件を、その発掘プロジェクトの中心人物のひとり、フィリッパ・ラングリーを主人公にして映画化したのが、この「ロスト・キング」だ。
 なんて素晴らしい!この日本で、私が見に行かずに誰が行く?!

『ロスト・キング 500年越しの運命』9月22日公開決定!



 2012年にリチャード三世の骨が発見され、ニュースになったときは、本当に興奮した。BBCはフィリッパと発掘の様子、およびDNA鑑定で骨がリチャードのそれであることを証明した経緯をドキュメンタリー番組にした。それにより、彼の顔も再現されたのだ。
 翌2013年、私はボブ・ディランのロイヤル・アルバート・ホール公演に合わせて渡英し、レスターの現場を見に行った。このとき、日本のリカーディアン(リチャード三世「擁護派」という人々)の代表と言うべき、Akiko.T さんを誘った。彼女はは北国の町に住んでおり、私とはネット上の交流だけで、一度も会ったことがなかったのに、中世イングランド史とボブ・ディラン好きという共通点だけで旅を共にしたのだ。ボズワース古戦場と、レスター大聖堂、タウン・ホールでの展示、そして工事中だったリチャード発見現場を塀越しに拝んだ。
 2018年、私はレスターを再訪し、リチャードの発見現場に建てられた博物館を訪れ、そしてその発掘場所を見学し、彼の墓を訪ねた。このとき、Akiko.T さんはこの世に亡く、私は心の中で彼女へ報告したものだった。

 それにしても、この映画は楽しみすぎる!
 プリデューサーの一人で、出演もしているスティーヴ・クーガンは私がよく見る英国映画,コメディではお馴染みの人物だ。
 そしてなんと言っても魅力的なのは、リチャードの再現だ。美しい!でも、かなり現実的で、「あり」なリチャード像ではないか?骨からの再現像にも近いし、リチャードのちょっと神経質そうな表情の肖像画とも似ている。そもそも彼は生前、美男で有名だった兄(エドワード四世。ただし、「女のこととなると理性を失う」)の「次に美男子だった」と言われているのだ。

 確かに、リチャードは兄王の亡き後、その息子達の王位を否定し、自ら王位に就いた。王位簒奪と言われて当然だろう。しかし、彼に対する容姿醜悪、極悪非道、悪魔そのものという評価は明らかに不当だし、二人の甥の死に関する責任は歴史の謎のままなのだ。彼はヘンリー・チューダーとの戦いに敗れて死に、ヘンリーが王位に就いた。そのヘンリーのチューダー朝においてリチャードは前述のような怪物に仕立てられ、シェイクスピアは素晴らしい戯曲の主役として描いた。かくして悪王リチャード像は広く流布するに至った。
 私自身は、プリンスたちの死に関して、首謀者がリチャードなのか、ヘンリーなのかと言う点について、完全に五分五分だと思っている。
 ともあれ、これからも一般的には甥から王位を奪った悪名はリチャードにつきまとうだろう。しかし、その一方でこの映画のような「素敵なリチャード」があっても良いと思うのだ。

 人には格好良い仕草というものがある。私にとっては、F1 レーサーがバイザーを下げる仕草だが、中世ヨーロッパ騎士のヘルメットのバイザーもしかり。キング・リチャード、格好良し!God save the King !

Queen's Piper2022/09/21 21:39

 UK史、UK文化に興味のある者として、エリザベス女王の国葬は必見であった。がっつりテレビにかじりつき、NHKが中継を終えても、CNNで引き続き追っかけ、結局ウィンザー,セント・ジョージ・チャペルでの礼拝までつきあった。
 ウェストミンスター・アビーも見所だし、紋章官たちや、ビーフィーター達が居並んでいるのも壮観。紋章官といえば、紋章院(College of Arms)の総裁は代々のノーフォーク公爵だが、現公爵の長男(アランデル伯爵。これまた中世以来の由緒あり)ヘンリー・フィッツアラン=ハワードは、2000年代にカー・レーサーをしていて、ライコネンのチームで走ったりもしていた。彼も葬儀の席のどこかに居ただろう。
 女王の棺はウェリントン・アーチで車に乗り換えたのだが、ケンジントン・ロードを西にたどったので、ロイヤル・アルバート・ホールの前(厳密には裏)を通ったときも、おお!と思った。私はここでハートブレイカーズとディラン、計5回コンサートを見ていて、とても思い出深い。

 音楽的にも何か興味深いことがあるのではないかと期待していたが、こちらの方はそれほどサプライズもなかった。お祝い事の時は何でもありだが、さすがに葬儀となると、そうは行かないか。ヘンデルの曲くらいは聴きたかったかも知れない。
 しかし葬儀全体を通しても、もっとも印象深かったのは、"Queen's Piper" という、「女王のためのハイランド・バグパイプ奏者」の演奏だった。物の記事を読むと、女王のお目覚めのために窓の外で演奏する人が居たらしい。本当に日常的にそうしていたのかどうかはともかく、「スコットランド」のパイパーが、UK国王の棺が地下に降ろされようとするときに、別れの一曲を奏で、そして去って行ったのはかなり良かった。



 ところで、「70年ぶりの英国王の国葬」というが、果たしてそうなのだろうか。2015年にレスターでリチャード三世の葬儀が執り行われたではないか!現グロースター公爵(エリザベス女王の従弟)も出席したし、ベネディクト・カンバーバッチも来てくれた(そこか!)。リカーディアンの端くれとしては、一応強調しておかないと。
 厳密に言うと、これは funeral ではなく burial だったので、「埋葬式」とでも言うべきだろう。



 そんなこんなで、色々と動画を見ていたら、プラチナム・ジュビリーの時のオープニング映像,「女王陛下とくまのパディントンのお茶会」を改めて見て、気付いたことがある。
 女王とパディントン、そしてもう一人の登場人物である給仕。この給仕、サイモン・ファーナビーではないか!
 思えば、あの可愛くなくて、やや不気味 ――「そうじゃない感」満載 ―― でもUKカルチャー好きとしては、けっこう楽しめる映画「パディントン」の監督は、ポール・キングだ。「ザ・マイティ・ブーシュ」に、「バニー&ザ・ブル」の監督でもある。そうなると、この辺りのコメディ作品でお馴染みのファーナビーは自然なキャスティングだったわけだ。それこそ、リチャード三世の発掘ドキュメンタリーの案内役も、彼だった。
 ブーシュ・ファンとしては、ジュリアン・バラットだったらもっと面白かったな!

ベートーヴェンをめぐる攻防2020/10/07 19:25

 今年は、ベートーヴェン・イヤーだ。生誕250年。12月生まれなので、たっぷり一年間お祭り騒ぎできるはずだったが、悪い年に当ったものだ。1970年の生誕200年は、それはそれは盛大に祝われたと聞いている。

 学生時代、「ベートーヴェンの手紙」という岩波文庫(上下)を買った記憶があったので、探してみたら ―― 楽譜の間にあった。音大時代も、べつにクラシックにさほど興味があったわけではないのだが。どうして買ったのかは謎。
 拾い読みをしてみたが、ベートーヴェン本人の手紙もさることながら、解説が豊富で面白い。
 ベートーヴェンには複数の恋人(正体不明も含む)の存在が有名だが、初恋の人であろう、エレオノーレ・フォン・ブロイニングが、ぐっと来た。ベートーヴェンの一歳年下で、彼らが故郷ボンにいた13,14歳の頃から、エレオノーレがベートーヴェンの友人でもある医者と結婚し、べートーヴェンがウィーンで亡くなるまで ―― その死の床まで、ふたりの友情は続いた。
 こういうの、いいよね。

 1809年、ライプツィヒのブライトコップ&ヘルテルに宛てた手紙が、なかなか興味深かった。
 ブライトコップ&ヘルテルは、有名な音楽出版社。私も2013年12月15日の記事にしている。
 この手紙によると、ベートーヴェンはウィーンを離れ、ヴェストファーレン国王の宮廷楽長として、赴任することを決心していたのだ。
 解説によると、「ナポレオン・ボナパルトは末弟のまだ二十二歳で海員あがりのジェロームを、1807年7月に結んだティルジット講和条約にもとづいて作りあげたヴェストファーレン国王にすえた。それはプロイセンの西の地域の諸王国領をよせ集めてでっちあげた王国に過ぎなかった。」とある。

 ベートーヴェンと言えば、それまでは教会や宮廷の使用人に過ぎなかった音楽家の地位から脱して、自立した、自由人としての音楽家の先達とされている。そのベートーヴェンが、よりによって、ナポレオンの「でっちあげられた王国」のお抱え宮廷楽人になろうとしていたというのだから、驚きだ。
 それだけ、提示された年俸も高額だったらしい。ナポレオン側としても、ドイツの誇りである ―― 実際、経済的に大成功していたかどうかはともかく、高名な、人気のある作曲家になっていたベートーヴェンを、「招いて箔をつけようというのであった。」
 ベートーヴェンはベートーヴェンで、先進的な自由人音楽家ならではの苦労もあって、高給かつ仕事もそれほど制約されない、宮廷楽人の気楽さに惹かれる。耳の病気のことも、ウィーンで自由人としてたくましく振る舞うのに、厳しい状況だっただろう。
 しかし、そこはドイツ人たちが黙っていなかった。我らがベートーヴェンを、ボナパルトごときにとられてなるものかと、友人であり、パトロンでもあったウィーンの貴族たちが、ベートーヴェンに終身年金を与えることによって、彼をウィーンに引き留めることに成功したのだ。

 この、ベートーヴェンをめぐる政治的、そして芸術的な攻防の結果は、結局彼を終生ウィーンの、自由人音楽家たらしめた。この駆け引きは、今に残されている彼の名曲の数々にも、結果的に影響していただろう。
 ヴェストファーレン王国は、ナポレオンの没落とともに、消滅した。これは、ベートーヴェンを守り抜いた、ドイツ,ウィーン、そして芸術そのものが、得たひとつの勝利だった。

歴史 / KATOKU2019/11/06 21:12

 私は歴史が好きだ。音楽ほどではないが、けっこう好きだ。

 音楽大学の同級生に、T という友人がいる。T の大学生活の初日、緊張しながら教室で待っていると、そこに同じく新入生の私が入ってきた。15人しかいない同学科の仲間である。T と私は、やぁ、よろしくという会話を始めた。
 その流れで、どこに住んでいるのかという話になり、T は「千葉県の流山」と言った。すると私が即座に、
「近藤勇が処刑されたところだね」と応じた。
 T は「えらい所へ来てしまった ――」と思ったという。
(実は T もかなりのもので、私にシェイクスピアの「リチャード三世」を勧めた人だ。)

 私の知識は正確ではなかった。流山は近藤勇が捕らえられた場所(投降?)であり、処刑されたのは板橋だ。

 今でこそ特に新選組好きというわけではないが、中学から高校の頃はかなり好きだった。そんな話をいま持ち出したのは、久しぶりに司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んで、中学生でこんなものを読んでいたのかと、驚くというか、呆れてしまったからだ。
 中学生の私はビートルズを夢中になって聴きつつ、いっぱしの歴史通気取りだった。思えば、ただ土方歳三と沖田総司のキラキラした(?)やりとりが、ティーンエイジャーの琴線に触れただけだったかも知れない。
 「燃えよ剣」はもちろんフィクション小説なのだが、「歴史」そのものだと思わせる筆者の才能はさすがだ。それにしても、話が終盤にきて、会津戦争がすっとばされたのには驚いた。

 話は、飛ぶ。(司馬風)
 テレビで野球を見ていると、ジャーニーの "Separate Ways" を耳にする時期になった。あの史上最もダサいミュージック・ビデオで有名な曲だ。褒め言葉である。
 数年に一度は、あのビデオを見て笑わないとね ―― と思って YouTube を見る。



 この有名なビデオは、そのパロディも多く作られることでも有名。
 そんなパロディの中に、こんなものまであった。
 題して「KATOKU」



 レキシという人が歴史関係の音楽をやっていることは知っていたが、こんな無駄に面白い物も作っているとは、知らなかった。曲も無駄に良い。
 これ、オリジナルのジャーニーを知らなくても笑えるし、知っていたら、さらに笑える。
 べつに世襲制は歌にしなくても知識として持ち得るから、あまり歴史の勉強にはならないだろう。たぶん、「世襲制」と "What do you say" の音が似ていて、そこから発生した曲ではないかと想像する。

Leicester Revisited2018/12/01 20:45

 ロンドンから北へ電車で約一時間。大学町レスターを再訪した。
 レスターは、近年話題になっている町だ。まず2012年、修道院の跡地だった駐車場から、15世紀のイングランド国王リチャード三世の骨が発掘され、ニュースとなった。さらに、レスターシティFCが2016年にプレミア・リーグで初優勝を果たし、日本でもその名が知られた。

 私がレスターを訪れたのは、2013年のことだった。世界でも有数のリチャード三世ウェブサイトを運営していた、友人のATさんとともに、リチャード3世の発掘場所や、ボズワース・バトルフィールドを訪れた。
 そのATさんは、2015年12月上旬に亡くなった。
 実際にお会いしたのはこの一度だけ。不思議な友情だった。

 私はもう一度、レスターに行かなければならなかった。リチャードの発掘場所は、King Richard Ⅲ Visitor Center という博物館として整備され、リチャードはレスター大聖堂に埋葬された。
 友人への報告のために。リチャードに彼女がいたことを報告するために。そして友人との出会いと別れを想いに留めるために、 レスターに行かなければならないのだ。

 2018年11月5日。ロンドンを立ち、レスターに降り立った。まっすぐにRichard Ⅲ Visitor Center へ向かった。
 5年前は騒々しい工事現場だったが、立派な博物館ができて、感無量の観があった。



 リチャード自身や当時の遺物は特にないのだが、薔薇戦争や、リチャードの発掘に関する展示が色々と面白い。そして、展示の最後は、実際にリチャードの遺骨が出た現場のが保全されている部屋だ。
 ガラスで覆われた床の下に、王の骨はあった。リチャードはこの地下にいたのだ。



 嬉しいのは、お土産コーナー。リチャードや中世イングランドをモチーフにしたグッズが沢山売られている。レプリカコインや、アクセサリー、文房具など、ATさんがいたら、大喜びであれこれ買ったことだろう。
 私もセンターのロゴつきのアイテムをたくさん購入した。



 Richard Ⅲ Visitor Center の道を挟んだ向かい側に、レスター大聖堂がある。
 10月に起きた、レスターシティFC会長らのヘリコプター事故死を受けて、大聖堂にはレスターシティFCの半旗が掲げられていた。



 大聖堂の一角に、リチャードの墓所はあった。静かで、小さなその墓所には、乳白色の墓石があり、十字が刻まれている。その礎は黒い石で、リチャードの名とその生没年が刻まれていた。
 この墓石の下に、実際リチャードの遺骨があるのか、大聖堂の職員に尋ねると、埋葬の様子の写真を見せてくれた。
 駐車場で発見されたリチャードは、棺に納められ、王にふさわしい礼をもって葬られたのだ。

 私はレスターをあとにした。
 ATさんが亡くなって三年。やっと私はレスターを再訪した。ともに歴史や音楽の話で盛り上がり、レスター、ロンドン、ボブ・ディランを楽しんだ友人を想った。
 月日は流れ、歴史は重なり、想い出は遠くなった。いつかまた、レスターを訪れる日はくるだろうか。そんな事をおもいながら、ロンドンへ帰る電車で聴くトム・ペティは、一層、心にしみこむのだった。

塩野七生 特別講演会2018/11/26 22:01

 ホテルオークラ東京と文藝春秋の公演企画、塩野七生の特別講演を見に行った。

 以前、好きな作家を三者挙げたことがあるが、そのとき塩野七生を入れていたと思う。普段、作家の講演会など行かないのだが、今回はたまたま人がこの講演会の4200円という料金が高いのか、安いのかという話を耳にしたため、ちょっと行ってみるかと思った次第。
 開演前にはティータイムと称して、お茶とお菓子が振る舞われた。おいしい。



 テーマは「十七歳からの夢を達成して」とのことだったので、青春時代に地中海世界の歴史に憧れ、八十一歳となった今、「ギリシア人の物語」を書き終わったことに関して自身を語るのかと思ったら、そうでもなかった。
 事前に「質問」を募集しており、それに答える形で講演をすすめたのだ。
 本人曰く、講演は得意ではないとのこと。たしかに、講演の名手という感じはしなかったが、話自体は面白かった。
 私は彼女の作品が好きではあるが、深い「質問」をするほどのマニアではないので、何も出していない。ちょっと出せばよかったかなと思う。

 「現代は英雄が育っていないと思いますが?」という質問に対し、「育っていないのではなく、育てていないのだ。それは人は平等だという原則があり、突出した才能を認めないからだ」との答え。なるほど。
 「傑出した才能というものはある」と断言する塩野七生。これには大いに同意する。どうにもならない、「人は平等だ」という概念からは逸脱する「才能」はある。そういうものがあるからこそ、それに接した「凡人」は、時に感動し、心を動かされるのだ。

 「いい男はみんな書き尽くした」という塩野七生。
 駄作が無いとも言えない。ちょっとしたミステリーっぽいシリーズは失敗だったと思う。
 私が好きなのは、「海の都の物語」と、「ローマ人の物語Ⅱハンニバル戦記」。
 「ギリシア人の物語」も相変わらず面白く、分かり易かったが、やや筆がいい加減になり、似たような表現が続いたのは残念だった。
 ともあれ、歴史の面白さをうまく伝えてくれる貴重な存在。これで終わりなどとは言わず、まだ歴史エッセイを書いて欲しい。

武侯祀2018/04/07 20:31

 中国四川省、成都と聞いて、パンダを思い浮かべるか、三国志を思い浮かべるか。私は両方だった。

 成都は、三国時代に劉備がその帝国,蜀の都とし、蜀の丞相であった諸葛孔明の根拠地となった。  三国時代は二世紀から三世紀のことであり、その時代をしのぶ遺構というものは成都にほとんど無いが、ただ諸葛孔明を祀った、「武侯祠」がある。武侯とは孔明の諡だ。
 木曜日の午前中で会議が終わり、午後が空いたので、一人で武侯祠に行くことにした。昔は成都の城外にあったことが杜甫の詩でも分かるが、いまとなっては、街のど真ん中。私が宿泊していたホテルからは、徒歩で50分ほどかかる。地下鉄もあるが、あまり効率の良い移動手段でもないし、タクシーはちょっとおっかないので、歩いて行くことにした。
 トコトコ中華人民をかき分け、成都の街中を歩くこと50分。武侯大通りに面して、このいわゆる「諸葛孔明神社」のようなものがある。司馬遼太郎が「街道を行く」でも訪れているが、べつに人で賑わっているとは書いていなかった ― が、これが今やもの凄い量の観光客で、大賑わいであった。



 武侯祠はすでに四世紀には作られていたらしい。孔明や劉備が物語の登場人物として世間の人気者になる遙か以前のことであり、彼らが同時代に、既に尊崇を集めていたことが分かる。今の武侯祠は、明朝から清朝時代に整備され、「三国志演義」の世界観で作られている。
 まずは大きな門と、入場口。有料だ。音声ガイドもある。もちろん有料で、外国人には多めのデポジットがかかるので、いくら現金が必要だ。この音声ガイドの日本語はあまり上手くないが、あった方が楽しめる。
 境内(?)は木々に囲まれ、まず劉備を祀る社殿(?)となる。中央に劉備、両脇に関羽,張飛の巨大な像が祀られ、その左右の回廊に超雲や黄忠などの有名な武官,文官の塑像が並んでいる。
 あらためて私にとっての「三国志」は何かと言えば、子どもの頃に見た人形劇が最初だった。ビジュアル的には、これがほぼ決定的になっている。しかしあれらの顔は、江戸時代の文楽人形を基礎とした、細面で上品な、和風の容姿。武候祠にならぶ塑像はもっと大陸的でぼってりとした、極彩色の、そして人によっては異形を持つ、造形として出迎えてくる。
 私にとっての三国志は、岩波少年文庫と、吉川英治を読んで終わりで、その知識もすっかり薄れており、居並ぶ人形たちの名前を見て「この人誰だろう」も多かった。

 回廊の壁には、「出師の表」も掲げられている。孔明が北征にあたって書いた上奏文として有名。



「臣、亮、もうす。 先帝(劉備)、創業いまだ半ばならずして、中道に崩殂せり。 今 天下三分して、益州疲弊す。 此れ誠に危急存亡の秋なり」

 劉備の社殿の先が、孔明を祀る「武侯祠」であり、ここにまた巨大な孔明像がでんと構えている。その奥にはさらに劉備,関羽,張飛が義兄弟の契りを結んだ事を記念したお堂などがあり、こうなると成都とは直接関係ない、「三国志演義」テーマパークの様相を呈してきた。三国志ファンとしてはたまらなく楽しいだろう。

 そもそも、どうしてここに「武侯祠」が作られたかというと、劉備の墓があるからだ。「恵陵」という円墳で、かなりの大きさがある。



 本当にこの丸い山に劉備玄徳が葬られているのかどうかは、よく分からない。とにかく昔の話だ。ともあれ、三顧の礼をもって孔明を迎えた主君劉備の墓があり、それを護るかのように、孔明をまつる祀堂ができたということらしい。

 境内には三国志資料館のような建物もあるが、その周りの橋に彫刻があって、三国志の名場面が刻まれているのが面白かった。これは、曹操と食事をしていた最中に、思わず箸を落としそうになる劉備。



 三国志が好きなら、まず行って良い所が「武侯祀」だろう。町中なのでアクセスも良いし、隣りには賑やかな商店街が整備されている。
 司馬遼太郎が来た時は「門前町はない」とあるが、その後観光名所として整備され、中国の伝統的な様式の小路になっている。その両側が飲食店や、お土産物屋になっていて、ここだけでも十分楽しめる。伊勢の「おかげ横町」のようなものだろう。私もお茶などのお土産を購入。中国語と英語で通じているような、全く通じていないような会話で、楽しかった。



 さすがに現代で、三国志に登場する面々 ― もちろん劉備とその配下のものばかりだが ― も、いわゆる「キャラ」になっている。

 

 甥のために買った「孔明くん人形」は500円ほどだった。

 後になって、同僚にこの「諸葛孔明神社」を歩いて往復したことを言ったら、仰天された。初めて来た中国で、一人でそこまでトコトコ出かけて、帰ってきたというのが驚きだったらしい。昼間だし、天気も良かったので、良い運動だ。
 成都に来たら、パンダと武侯祠。この二つはおさえておきたい。

Wheat before the Sickle2017/12/17 15:51

 自分で翻訳した「カントム」― Conversatins with Tom Petty を読みながら、我ながら良くできていると思っている。
 ところどころ、苦労している感じも見受けられる。英語や翻訳の専門家ではないのだから仕方がない。苦笑している。
 だいたいは、頑張ってなんとか翻訳しているのだが、一箇所、完全に翻訳を諦めている箇所があった。後半,part two, songs の [The Last DJ] のところだ。昨今の、大量生産された、芸能人の存在に苦言を呈して、このように続けている。

 TP:だから、大きな変化が起きるか、もっとすてきな何かが出現するかして、この停滞を打ち壊してくれることを望むしかないんだ。

Q:それはあり得るでしょうか?

TP:いつだって、起こり得るだろう。つまりさ、60年代にビートルズが現れて、停滞を打ち壊しただろう。
 あんなことは他に、ニルヴァーナが突然あらわれて、偽物のヘアスプレー・バンドを失業せしめた時だけだったな。(???次の日は、小麦は刈り取られる前の日だった???翻訳不能)
 The only other time I've seen that happen is when Nirvana came and suddenly all those fake hairspray bands were completedly out of work. The next day. It was wheat before the sickle.




 もういちど、この箇所に挑戦してみた。
 当時、このわからないフレーズをそままググるということを、しなかったのだろうか。
 分かったのは、"wheat before the sickle" という表現は、南北戦争,ゲティスバーグの戦いに関連するフレーズだということだ。

 ゲティスバーグの3日目 ― 1863年7月3日 ― 南軍ロングストリート麾下のピケットが北軍に対して一斉攻撃を仕掛けた、いわゆる「ピケッツ・チャージ」。ジョージ・ピケット少将の名を取ってその名が付けられたが、実際にはロングストリート麾下のトリンブル少将と、ペティグルー准将の師団もこれに加わっている。そのため、「ピケット=ペティグルー=トリンブル・チャージ」とする方が正確だという人もいる。
 ペティグルーの師団に、セオドア・フッドという23歳の若い軍曹がいた。有名なジョン・ベル・フッドとは遠い親戚にあたるそうだ。彼はこの戦闘で負傷し、捕虜になった。後年、自分の南北戦争での体験を語っており、「ピケッツ・チャージ」が失敗に終わった時のことを、このように表現している。

 “and volleys of deadly missiles were sent into our ranks which mowed us down like wheat before the sickle.”
 北軍の猛烈な砲撃は、私たちの隊をなぎ倒した。まるで刈り取られるがままの麦の穂のようだった。


 「カントム」を翻訳したとき、before を時間的に「前に」だと思い込んでいたために、混乱してしまったらしい。刈り取り鎌を「目の前にした」,麦の穂という表現だったのだ。
 「ニルヴァーナが登場した翌日には、偽物の作りあげられたスプレー・バンド ― 大量生産品としてのアーチスト達 ― は、もう全滅状態だった。刈り取られるままの麦の穂というわけさ。」となるだろう。

 この「全滅せしめられる」という意味での、「刈り取られるがままの麦の穂 like wheat before the sickle」という言葉は、アメリカではよく知られている表現なのだろうか。とにかく、トム・ペティはこの表現を知っていたことになる。
 南北戦争に由来する言葉としては、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズの3枚目のアルバム [Damn the Torpedoes] がある。これは、1864年8月のアラバマ州モービル湾攻撃において、北軍のデイヴィッド・ファラガットが放った一言、"Damn the torpedoes! Go ahead!"「機雷なんて糞くらえだ!前進せよ!」に由来している。 どんな障害にも目をくれず、前進するこの頃のハートブレイカーズの状況に合っていたのだろう。

 2008年8月14日 機雷なんて糞くらえだ!

 一般的なアメリカ人が、この手の言葉を普通に知っているのか、否か。トムさんが実は詳しい方なのか。歴史に興味があるようには見えないのだが。ファンの私たちは知らない、トムさんの一面なのかも知れない。

Heartberakers ハイドパークに見参!2017/07/08 22:48

 さていよいよ、9日日曜日は、ロンドンのハイドパークで行われる、"Barclaycard presents British Summer" の最終日、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズが登場する。



 ところで、ハイドパークのことである。
 私はこれまでに4回ロンドンに行っているが、実はハイドパークには行っていない。厳密に言えば、ロイヤル・アルバート・ホールの写真を撮るためにアルバート記念碑のところには行ったが、ハイドパークには用が無いので、入っていないのだ。
 私は旅行ガイドによくある「のんびりお散歩」というものには全く興味がなく、目的地を決めると、まっしぐら、脇目もふらずに最短距離,最短交通手段を取る。そうなるとニューヨークのセントラル・パークやハイドパークを、のんびりお散歩という選択肢は生まれてこない。

 ハイドパークの歴史をWikipediaで見てみると、11世紀のノルマン・コンクェスト後の検地ですでに "Eia"卿の土地として記録されているとのこと。この "Eia" 卿だが、その後イーバリー Ebury と呼び方が代わり、ベルグレーヴィアの通りにその名が残っているそうだ。ついでに言えば、モーツァルトは8歳のとき、ここに滞在し、彼にとって最初の交響曲を作ったと言うことになっている。
 ともあれ、今のハイドパークの原型は、その後ウェストミンスター・アビーの荘園となった。
 16世紀にはヘンリー8世がアビーから荘園を買い上げ、その後王室所有の森,もしくは猟場になった。
 この公園が広く市民に開放されたのは1851年の万国博覧会以降のようだ。

 ハイドパークで大規模なロックコンサートが行われるようになったのは、1968年以降で、ピンク・フロイド、ブラインド・フェイス、そしてザ・ローリング・ストーンズがその始まりを飾った。
 1990年代のプリンス・トラストではボブ・ディランが登場して、その映像は私のお気に入りだ。こういうロックなディランが格好良い。さりげなくゲストのロニー・ウッドが楽しそうにしているのが、また良い。



 さて、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ。前座をつとめるスティーヴィー・ニックスと共演することは予想の範囲内だが、それ以上の何かサプライズがあるのか、そしてトムさんは屋外限定らしき、謎のターバン(ワイト島のディラン様のまねだと思う)で登場するのか?楽しみだ。