Heartberakers ハイドパークに見参!2017/07/08 22:48

 さていよいよ、9日日曜日は、ロンドンのハイドパークで行われる、"Barclaycard presents British Summer" の最終日、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズが登場する。



 ところで、ハイドパークのことである。
 私はこれまでに4回ロンドンに行っているが、実はハイドパークには行っていない。厳密に言えば、ロイヤル・アルバート・ホールの写真を撮るためにアルバート記念碑のところには行ったが、ハイドパークには用が無いので、入っていないのだ。
 私は旅行ガイドによくある「のんびりお散歩」というものには全く興味がなく、目的地を決めると、まっしぐら、脇目もふらずに最短距離,最短交通手段を取る。そうなるとニューヨークのセントラル・パークやハイドパークを、のんびりお散歩という選択肢は生まれてこない。

 ハイドパークの歴史をWikipediaで見てみると、11世紀のノルマン・コンクェスト後の検地ですでに "Eia"卿の土地として記録されているとのこと。この "Eia" 卿だが、その後イーバリー Ebury と呼び方が代わり、ベルグレーヴィアの通りにその名が残っているそうだ。ついでに言えば、モーツァルトは8歳のとき、ここに滞在し、彼にとって最初の交響曲を作ったと言うことになっている。
 ともあれ、今のハイドパークの原型は、その後ウェストミンスター・アビーの荘園となった。
 16世紀にはヘンリー8世がアビーから荘園を買い上げ、その後王室所有の森,もしくは猟場になった。
 この公園が広く市民に開放されたのは1851年の万国博覧会以降のようだ。

 ハイドパークで大規模なロックコンサートが行われるようになったのは、1968年以降で、ピンク・フロイド、ブラインド・フェイス、そしてザ・ローリング・ストーンズがその始まりを飾った。
 1990年代のプリンス・トラストではボブ・ディランが登場して、その映像は私のお気に入りだ。こういうロックなディランが格好良い。さりげなくゲストのロニー・ウッドが楽しそうにしているのが、また良い。



 さて、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ。前座をつとめるスティーヴィー・ニックスと共演することは予想の範囲内だが、それ以上の何かサプライズがあるのか、そしてトムさんは屋外限定らしき、謎のターバン(ワイト島のディラン様のまねだと思う)で登場するのか?楽しみだ。

Leicester City2016/05/05 21:28

 サッカーには全く興味が無いが、イングランド・プレミア・リーグで、レスター・シティが1884年の創立以来、初めて優勝したということはニュースで知った。
 何でも、弱小チームのひとつで、ブックメーカーでのレスター優勝の倍率は5000倍とか、そういうダークホースが、優勝してしまったのだから大騒ぎなのだという。

 レスター、レスターといっても、同じ名前の都市はあるだろうなぁ、と思っていたら、本当にあのレスターだった。
 あのレスターとは、2013年に私が友人と一緒に行ったレスターである。15世紀のイングランド国王リチャード3世の遺骨が発掘された、大学町だ。そのときのレポートはこちら。
 リチャード三世をめぐる旅 Looking for Richard in Leicester, Bosworth

 そのリチャードとレスター・シティに関連して、こんな記事があった。

岡崎レスター初優勝 リチャード3世効果 昨年の再埋葬後、勝率は倍の63%に

 なんと!リチャード3世の霊験あらたか?!
 レスターはリチャードの地元ではないし、近くのボズワース・バトルフィールドで戦死した後、葬られた場所なので、レスター・シティに味方してくれるかどうかは疑問なのだが…300年以上も居れば、愛着がわくという物だろうか。
 この記事では、リチャードの埋葬場所をレスターにするか、彼の実家のお膝元であるヨークにするかで、司法判断が下されたとも、書いてある。私がレスターに行ったとき、レスターはリチャードを埋葬する気満々で、墓所の想像図CGなども飾ってあった。
 やはり、リチャードはレスターに眠ることになったのだ。
 記事にはレスター大聖堂に掲げられるレスター・シティの旗の写真が掲載されている。サッカー門外漢としても、ちょっと嬉しい気持ちだ。

 ロック・バンドのカサビアンは、レスター出身なので、サポーターだとのこと。でも!私は!カサビアンを全く知らない!
 そんな訳で、ここではカサビアンではなく、レスター・サポーターの笑える動画をどうぞ。
 対戦相手マンチェスター・シティのホームで、数少ないレスター・サポーターが上げたチャント。負け試合にうんざりして、早々に帰ってしまうマンチェスター・シティ・サポーターに向けられたものだ。傑作。
 これ、レスターに限らず、ほかのチームのサポーターもやるそうだ。

南北戦争その後 / テンチ家の兄弟(その12 最終回)2015/05/24 16:11

 まる4年間の戦闘期間を経て、南北戦争は終わった。  国を二分した、長い戦争は、敗者となった南部の産業に打撃を与え、回復は長く困難な道のりとなった。
 奴隷制は廃止されたが、本当の意味での解放にはほど遠く、課題は20世紀、そして今日にも持ち越されている。

 エイブラハム・リンカーンは、戦争の完全な終結を待つことなく、1865年4月14年、ワシントンのフォード劇場で銃撃され、翌日死亡した。
 アメリカ史上、もっとも偉大な大統領の一人とされるリンカーンだが、この任期はまるまる戦時であり、平時の大統領としての手腕は未知のままとなった。

 戦勝将軍となったユリシーズ・グラントは、リンカーンからフォード劇場に招待されていたが、それを断り、リンカーン遭難の現場にはいなかった。
 その後政治家に転身し、1869年から2期8年間アメリカ合衆国大統領をつとめた。栄光の将軍だったグラントも、汚職やスキャンダルのため、大統領として芳しい評判を得ることはなかった。
 明治5年、日本から来た岩倉使節団を迎えた合衆国大統領がグラントである。大統領退任後、来日もしている。南北戦争終結から20年後の1885年に亡くなり、現在では50ドル紙幣にその姿を見ることが出来る。

 ウィリアム・テクムセ・シャーマンは戦争終結後も陸軍に残り、1869年にはグラントの後任として大将に昇進し、陸軍総司令官をつとめた。陸軍を退いてから8年後1891年に亡くなっている。

 ジョーゼフ・ジョンストンは降伏後、鉄道,保険,運送など実業界に身を置いて活躍した。シャーマンに対しては友情と尊敬の思いを持ち続け、シャーマンの葬儀ではその棺を担いだ。ジョンストンが亡くなったのはその数週間後、84歳。南北戦争終結から26年が経過していた。

 ロバート・E・リーは、戦争終結後、拘束されることはなかったが、市民権は剥奪された。彼は軍を退き、農場へ引退したいと考えていたが、彼のカリスマ性,影響力がそれを許さなかった。
 アポマトックスでの降伏から半年後、ヴァージニア州のワシントン大学の学長に就任した。ザ・バンドの曲 "The Night They Drove Old Divie Down" に登場する、ロバート・E・リーはこの時期の姿だろうか。
 後にワシントン・アンド・リー大学と改めるこの学校構内には、リーの要望で作られた小さなチャペルがあるが、1870年にリーが亡くなったあと、彼はここに葬られることになった。

 テンチ家の兄弟 ― ジョン・ウォルター・テンチ少佐と、弟のルーベン・モンモランシー・テンチは、生まれ故郷ジョージア州ニューナンに戻り、次なる人生へと踏み出した。
 弟のルーベンは医者になり、1910年に亡くなっている。

 一方、兄のジョン・W・テンチ少佐は結婚後妻の伯父が住んでいた、フロリダ州ゲインズヴィルに移住した。同地で教育者,新聞発行者,文筆家として尊敬をあつめ、1926年に亡くなった。息子のベンジャミン・モンモランシー・テンチ ― 通称「ベンモント」以降の子孫達もゲインズヴィルに生まれ育っている。



 少佐の軍服姿の肖像画がいつ描かれたかは分からないが、少佐の孫,ベンモント・テンチ Jr.の家の居間には、これが飾られていた。1974年のある日、少佐のひ孫にあたるベンモント・テンチⅢと、そのバンド仲間が、少佐の肖像の前で録音を行った。彼らはそのテープを携えてLAへと旅立った。
 南北戦争終結から、約110年が経っていた。

南北戦争の終わり / テンチ家の兄弟(その11)2015/04/27 22:18

 テネシー軍と呼ばれる ― 要は西部戦線の残存南部連合群を率いたジョーゼフ・ジョンストンは、どのような手段でリーの降伏を知ったのだろうか。  南軍の電信はまだ機能していたのだろうか。それとも新聞にでも載ったか、伝令が来たか。むしろ、北軍のシャーマンから知らされたかも知れない。

 ともあれ、リーの降伏を知ったジョンストンは、シャーマンに降ることを決意した。
 南部連合国大統領デイヴィスは戦争の継続を指示しており、ジョンストンはそれに逆らうことになったということになっているが、その点の真相はよくわからない。

 最初の会見はリーの降伏の8日後,4月17日。場所はノース・カロライナ州ダーラムの、ベネット氏宅だった。ベネット氏もまた、アポマトックスのマクリーン氏と同じくこの戦争の被害を受けた人で、息子を亡くしていた。
 会見はいきなり緊張から始まったという。シャーマンが持参し、ジョンストンに見せた電報には、リンカーン死亡(4月15日)が記されていたのだ。
 この会見は、アポマトックスにおけるリーとグラントのそれとは異なり、ジョンストンが率いる兵だけではなく、南部連合軍全ての降伏について話し合われた。
 翌日18日には南部連合陸軍長官ブレッキンリッジが同席している。デイヴィスが戦争の継続を望んでいたかどうか分からないのは、この長官の存在のせいだ。閣僚が同席している以上、南部連合政府として降伏を意図していたのではないだろうか。

 24日にはグラントもダーラムに到着し、ジョンストンとの降伏交渉に加わった。そして合意がなされ、ノースカロライナ,サウスカロライナ,ジョージア,フロリダ各州のに残っていた南部連合軍は解散することになった。
 合計すると89271名。南北戦争で再多数の降伏兵士数だった。

 シャーマンは、降伏した南部軍兵士たちに、10日分の食料や、馬の飼料を提供した。さらに、市民への穀物などの提供も申し出ている。海への進軍で徹底的に南部の生活基盤を破壊し、その行為の代名詞ともなったシャーマンだが ― とにかく戦争は終わったのだ。
 ジョンストンは、シャーマンの寛大な措置に感銘を受けたらしい。戦後、二人は親しい友人となったという。

 テンチ家の兄弟 ― 兄のジョン・ウォルター・テンチ少佐と、弟のルービン・モンモランシー・テンチの戦争も終わった。
 彼らが所属していたジョージア州第一騎兵連隊は50人ほど、最後までテネシー軍にとどまっており、ジョンストンの降伏とともに武装解除、解散となった。
 彼らは間もなく故郷 ― ジョージア州ニューナンに帰っただろう。両親や妹たちの待つ故郷へ。ジョンは26歳、ルービンは21歳。大きな戦争と、敵対していたはずの大統領の死、これまでとは違うアメリカ、変わらず愛する故郷、でもこれまでとは、どこか違う故郷南部で、若い二人は改めて人生を歩み出した。

アポマトックス2015/04/09 20:50

 日本経済新聞の夕刊に、月曜日からピーター・バラカンさんのコラムが連載されている。昨日は、「売れなかった好きな音楽」として、トム・ペティに言及している。
 しかもTP&HBのハイレゾが発売になっている。
 しかし、今日は4月9日 ― 150年後の4月9日なので、どうしても南北戦争の記事を書かなければならない。

 1865年3月末から4月初頭にかけて、南軍のロバート・E・リーはピーターズバーグの持久戦から脱すべく行動を起こしたが、北軍の大軍になすすべも無かった。
 4月3日、南部連合軍はアポマトックス川に沿って西へ移動しはじめた。シェナンドア渓谷の地の利を生かして北軍の攻撃をかわし、ジョージア州にいるジョンストンの軍と合流することを意図していた。
 しかし、北軍のグラントはそれを許さなかった。北軍は10倍近い兵力をもって、リーを追撃した。グラントはオードとともに南回りで、ミードは北回りで、リーとの小さな戦闘を繰り返しながら、徐々にリーの進む道を狭めつつあった。
 4月6日にはリッチモンドからのなけなしの物資が破壊され、リーはさらに追い詰められた。そして、ピーターズバーグから西へ約120km、アポマトックス・コートハウス付近で、シェリダン率いる北軍の騎兵がリーを待ち受けるに至った。
 リーは降伏を決断し、それをグラントへ伝えた。
 南軍の将校の多くはリーの降伏の決断を指示していた。しかし、一部にはゲリラ戦をすすめる意見もあったという。それに対する、リーの言葉は有名だ。軍人としての自負、自覚、責任感が滲み出ている。

 I suppose there is nothing for me to do but go and see General Grant. And I would rather die a thousand deaths.
 グラント将軍に会いにいくほかない。1000回死ぬ方がましだが。


 アポマトックス・コートハウスというのは、巡回裁判所の名前であり、その周辺地域を指す名前でもある。その地域にある、マクリーン氏の自宅が、リーとグラントの会見会場となった。
 このマクリーン氏、開戦から間もない頃の戦場だったマナサス(ブルラン)に住んでいたが、戦闘を避けてアポマトックスに引っ越していたのだという。運が悪いと言うべきだが、その悪運のせいで米国史にその名をとどめることになった。

 1865年4月9日午後、リーはマクリーン邸に礼装で到着した。グラントも到着し、降伏文書の取り交わしが行われた。南軍兵士は武器を引き渡し、もはや戦闘に加わらないことを宣誓する。捕虜ではあるが仮釈放という身分になり、身柄は拘束されない。
 南軍の兵士達は故郷から自前で馬をつれてきていたが、馬も武器の一部である。携行は許されていなかったが、リーはこの点について譲歩を希望した。グラントは便宜を図ることを約束した。南軍の兵士達は、馬を連れて故郷へ帰ることができる。

 アポマトックスにおけるリーの降伏によって、南北戦争は終わった。― 厳密にはそうではないのだが、多くの南北戦争の本は、この気高く物静かな老将のアポマトックスでの降伏シーンをもって終わっている。
 グラントもこれで終わったと思った。リンカーンもまた同じ気持ちだっただろう。リンカーンは戦争に勝利し、これから新しい国を指導する気持ちを新たにしたに違いない。
 しかし、それは5日間しか続かなかった。リンカーンがワシントンの劇場で銃撃されたのは、アポマトックスから5日後の4月14日だった。翌4月15日、リンカーンは死んだ。

リッチモンド陥落2015/04/04 20:36

 ロバート・E・リー率いる55000の南部連合軍は、南部連合国の首都リンチモンドの南ピーターズバーグに布陣し、ユリシーズ・グラント率いる125000の北軍がこれを包囲したのが1864年6月。それから半年以上が経過した。
 北軍はこれまでに、守りを固めるリーに攻撃を仕掛けて、恐ろしく酷い目に遭いつづけている。我慢強いグラントは長期包囲戦に持ち込んだ。



 北部連邦リンカーン大統領にすれな戦争も4年、早く決着をつけたいところだが、幸い1864年の大統領選挙には勝利した。政治的問題を一つ乗り越え、グラントの持久戦は1865年に持ち越された。
 ピーターズバーグ包囲中、北軍は南軍の補給路を断つことに力を傾けた。ザ・バンドの楽曲 "The Night They Drove Old Dixie Down" で「ストーンマンの騎兵がダンヴィル鉄道を破壊する」とあるとおりだ。
 ピーターズバーグの補給路が断たれることはイコール、首都リッチモンドもまた干上がることも意味していた。

 西部戦線で南部連合軍は負け続きで、とうとう残存兵がジョンストンのもとに寄り集まっただけになってしまった。しかし、まだ降伏はしていない。
 1865年3月末、リーはジョンストンとの合流を最期の望みとして、行動を起こすことを決断した。これは得意の守りを破ることであり、実のところグラントが待ち望んだ事でもあった。

 3月25日、リーはジョン・ゴードンをして北軍のステッドマン砦を攻撃させた。その方面に北軍が兵力を集中する間に西走して大回りに南を目指す作戦だ。しかしこの攻撃は数にまさる北軍に大した脅威は与えなかった。
 グラントはこの戦闘から、リーの行動を読んだ。すかさず、グラントはリーの本隊に総攻撃を仕掛けた。ピーターズバーグの防衛線は数日耐えたが、とうとう4月2日に突破を許した。
 リーはリッチモンドに対し、撤退を勧告した。そして軍をピーターズバーグから脱出させ、西へと移動させ始めた。北軍はその北側から併走し、時として小規模な衝突を繰り返しつつ、さらに西へと移動した。

 リッチモンドの南部連合国内閣は4月2日、リーからの勧告を受けてリッチモンド退去を決定。かろうじて通じていた鉄道,リッチモンド・ダンヴィル線でデイヴィス大統領以下、脱出した。
 翌4月3日、北軍がリッチモンドに入り、ここに南部連合国首都リッチもモンドは陥落した。せめてもの南部の抵抗として、北軍に物資を与えないために、街の多くが燃やされていた。

 リンカーンは、早くも4月4日 ― 150年前の今日 ― にはリッチモンド入りした。その来訪に歓喜した黒人たちがリンカーンの足下にひざまずいたところ、彼が "Don't kneel to me. You must kneel only to God." 「いけない、ひざまずくべきは神の御前だけです。」と言ったのはこのときだ。
 リンカーンは4月8日にはワシントンへ戻った。彼が大統領としてリッチモンドを訪れたのは、これが最初で最後だった。

Clarence2015/03/26 22:13

 ディラン様ラジオこと [Theme Time Radio Hour] は、最終回に向けて2週連続で集中放送。先週は2時間の拡大版 "Clearance Sale" の放送があった。
 「在庫一掃」の "clearance" と掛けて、クラレンス Clarence という名前の男性の特集でもある。

 クラレンスという名前の起こりは、クラレンス公爵というイングランドの爵位から始まっており、王族の公爵位としては、あまり高くない ― という解説。最初のクラレンス公爵は、「アントワープのライオネルという人」とのこと。
 それで、はたと思った。そうか、クラレンス・ホワイトのクラレンスは、クラレンス公爵のクラレンスであって、あのライオネル・オブ・アントワープなのかと。
 あまり高くないとは言っても、そこは公爵であり、王族にのみ与えられるのだから、かなり高い位だ。

 「あのライオネル・オブ・アントワープ」は、彼自身の事績こそほとんど知られていないが、その子孫の存在がその後のイングランド史に大きな影響を及ぼしたため、それだけの知名度を持っている。
 プランタジニット家のイングランド国王エドワード三世には成人した男子が5人おり、上からエドワード,ライオネル,ジョン,エドマンド,トマスと言う。父親と同名の長男エドワードが「ブラック・プリンス」として有名な人物で、次の国王のはずだったが、父王より先に死んでいる。このため、エドワード三世の次はブラック・プリンスの息子,リチャード二世が即位した。
 次男のクラレンス公爵ライオネルは兄よりさらに早く30歳の時に死んでおり、フィリッパという女子のみを残した。このフィリッパが、第3代マーチ伯爵エドマンド・モーティマーと結婚し、その息子は同じく第4代マーチ伯ロジャー・モーティマー。国王リチャード二世が、自分にとっては従妹の息子にあたるこのロジャー・モーティマーを、王位継承者に指定したのが、混乱の元だった。
 国王リチャード二世がマーチ伯を王位継承者に指定したのは、国王がまだ若い時で、世継ぎが生まれるのはこれからだというのに、「従妹の息子」という、エドワード三世の男系男子たちにとっては、王位からは遠いはずの人物を指名したのだ。混乱は当然だろう。
 その後の展開は割愛するが、とにかくイングランドの王位を巡る薔薇戦争の泥沼は、初代クラレンス公爵ライオネル・オブ・アントワープが残した唯一の歴史的事績 -娘フィリッパの誕生から発している。

 ライオネル・オブ・アントワープに男子がなかったのでクラレンス公爵位はいちど廃され、次にクラレンス公爵になったのが、トマス・オブ・ランカスター。ランカスター朝の初代国王ヘンリー四世の次男だ。ちなみに、エドワード三世の曾孫にあたる。
 兄のヘンリー五世が即位したと同時にクラレンス公爵に叙され、兄の代理としてフランスとの百年戦争の戦闘を指揮したが、33歳の時に戦死してしまった。指揮官である国王の弟が戦死するほどの負け戦というのも驚きだが、とにかくこのクラレンス公爵には子供がいなかったため、再びクラレンス公爵位は空位となった。
 ちなみに、ヘンリー五世は弟の死後、自らフランスに乗り込んで大勝ちしている。

 次にクラレンス公爵になったのが、ジョージ・オブ・ヨーク。エドワード四世の弟で、エドワード三世の四代孫にあたる。
 おそらく、このジョージが一番有名なクラレンス公爵だろう。欲が深く、簡単に人に唆され、行動に説得力がない。なかなかのキャラの持ち主で、せっかく兄が大バトルの末に国王になったのに、裏切ったり、謝ったり、あっちについたり、こっちについたり。しまいには反逆罪で処刑(?)される。イメージでは、ワインの樽に頭からさかさまに突っ込んでいる。
 そんなクラレンス公爵ジョージには男子エドワードがおり、実はこれがプランタジニット家の最後の男子だった。血統からするとかなり有力な国王候補なのだが、時流には逆らえず、チューダー朝の開祖ヘンリー七世によって処刑された。

 ジョージの印象が悪すぎるのか、クラレンス公爵位はその後長い間空位となったままで、次に登場したのは18世紀末だった。ジョージ三世の三男がクラレンス公爵になったのだが、後にウィリアム四世として即位する。
 ウィリアム四世にも嫡男がなかったため、クラレンス公爵位はまたもや空位となり、19世紀末にヴィクトリア女王の孫アルバートがクラレンス公爵になった。しかしまたもや嫡子を残さないまま死んだため、以後クラレンス公爵位は現在まで空位のままとなっている。

 音楽と歴史、とりとめもなく思いを馳せるのは最良の娯楽だ。
 最後は、クラレンス・ホワイトのギター・ソロだと…思う、ザ・バーズの "Ballad of Easy Rider"。

ベントンヴィルの戦い / テンチ家の兄弟(その10)2015/03/11 22:27

 またもや間が開いてしまったが、南北戦争も大詰めである。

 東部戦線では南部連合国首都ヴァージニア州リッチモンドの約30kmのピーターズバーグにロバート・E・リー率いる南軍が布陣し、それに対して北軍のグラントは持久戦に持ち込んでいた。
 一方、西部戦線は、北軍を率いるシャーマンがジョージア州サヴァンナ,即ち大西洋岸に達し、彼らはそこから北上しはじめた。1865年1月、ノースカロライナ州ウィルミントンが陥落。いよいよ、シャーマンはヴァージニア州へと進もうとしている。

 もはや西部戦線(だった)南軍は壊滅状態だった。残った兵たちをまとめる役目が、ジョーゼフ・ジョンストンに回って来た。彼は前年のアトランタ陥落以降その任を解かれていたのだが、この土壇場に来て、また引っ張り出される事になったのだ。
 ジョンストンのもとに集まった南部連合軍は21000。上級将官たちは、P.G.T.ボーレガードに、グラグストン・ブラッグ,ウィリアム・ハーディ,D.H.ヒルなど、これまでの戦いに名を連ねたお歴々である。

 シャーマンが率いる北部連邦軍はノースカロライナ州を北上し、ヴァージニアのグラントとの連携を意図していた。それを阻止するべく、ジョンストン率いる南軍は、3月19日、ベントンヴィルで北軍に攻撃を仕掛けた。
 まず、南軍の騎兵が北軍の左翼への攻撃を行った。当初北軍はそれほど大きな部隊の攻撃とは思っていなかったが、続いて歩兵が攻撃を仕掛け、北軍は退却を余儀なくされた。
左翼が退却したとは言え、シャーマンが率いる北軍は南軍の約3倍の兵力である。すぐに援軍が南軍の攻撃を押し返した。
 3月21日には、シャーマンは逆に南軍の左翼に攻撃を仕掛けた。南軍が北軍の左翼を集中的に攻撃下以上、南軍自身の左翼は当然手薄だったのだろう。シャーマンにとっては、この残存兵の集まりを壊滅させ、降伏に持ち込むチャンスだったが、彼は判断を誤った(自分で認めている)。
 シャーマンは攻撃を停止させ、もう追撃する余力のないジョンストンの南軍を置いて北進を続けることにしたのだ。

 南軍の損失は2000。その兵力は10000を切ってしまった。万事休すだった。

 さて、ここでまた久しぶりの人物が登場する。ジョン・ウォルター・テンチ(ベンモント・テンチの曾祖父)と、ルービン・モンモランシー・テンチ。テンチ家の兄弟である。
 彼らが所属していたジョージア第一騎兵連隊は壊滅状態で、この頃にはウィーラーの騎兵に編入されていたようだ。
 ウィーラーもベントンヴィルの戦いで騎兵を率いているので、おそらくテンチ家の兄弟も参加していただろう。その後も、テンチ兄弟はジョンストンの指揮下に残ることになった。
 テンチ家の兄弟が騎兵として南軍に身を投じたのが1861年開戦当時。その6月には末の弟ジェイムズが戦死している。あれから4年。テンチ兄弟の南軍騎兵生活も最終局面を迎えていた。

Lord Mayor2015/01/16 21:45

 前の記事で、ディック・ウィッティントンの話題を出したので、もう少し引っぱる。

 ディック・ウィッティントン少年は、田舎からロンドンに出てきて大店に奉公し始めた頃、あまりのキツさに、店を飛び出したことになっている。
 店を、シティを飛び出し、ロンドンを見下ろす丘の上に着いたとき、教会の鐘が鳴り響いた。この教会は、シティの古い教会,セント・メアリー・ボウ教会ということになっている。その鐘の音が、「戻れウィッティントン 一度、二度、三度もロンドン市長になる」と歌っていたのだという。
 そこで店に戻ったウィッティントン。その後、ネコでひと儲けする話へとつながる。

 ここで言う「ロンドン市長」とは、現在の名物男ボリス・ジョンソンが務めるそれではない。ジョンソンの方は、「大ロンドン市長 Mayor of London」。いわゆるロンドン塔や、バッキンガム宮殿、ナイツブリッジ、ハイドパークなど、私たちが思い浮かべる大ロンドンの長が「大ロンドン市長」であり、行政権限を実際に有している。
 一方、ウィッティントンがなったという「ロンドン市長 Lord Mayor of the City of London」は、金融街として有名なザ・シティの長と考えれば良い。シティはロンドンの起源というべき城壁内の一地域であり、大ロンドンの成立よりずっと前から街を形勢していた。13世紀には選挙で市長を選出しており、もちろんそれなりの権限を持っていた。
 シティは18世紀まで独自の権限を持つ地域だったが、19世紀末から20世紀には実権をなくしている。市長も名誉職のようなものになったが、今日でもシティはロンドンの中でも特別区であり、警察組織もスコットランド・ヤードとは別だ。
 ロンドン市長は選挙で選ばれ、任期は1年。「再選は認められない」とWikipediaにもあるが、これは連続2期以上は務められないという意味なのか、生涯に1度しかなれないという意味なのかは、よく分からない。ともあれ、長期にわたって一個人に権力が集中することを防止していることは間違いない。
 そのロンドン市長にウィッティントンは鐘の予言どおり、3度就任している。1397年と、1406年、そして1419年。リストを見渡すと、どうやら14世紀頃までは生涯に2回就任する人はけっこう居たようだ。しかし、ウィッティントンの3回というのはさすがに居ない。大物毛織物商だった彼が、いかに有力であり、有能だったということを、この回数が示している。


 さて、せっかく「市長」の話になったので、大ロンドン市長の方にも登場願う。
 そもそも、大ロンドンが行政区として正式に成立したのが1963年というから、まったく新しい話。ビートルズの方が古い。
 現職の大ロンドン市長は前述のボリス・ジョンソン。良くも悪くも話題の多い人物だ。要するに人気者なのだろう。
 彼に関する動画で面白かったのがこれ。
 ロンドン・オリンピックの宣伝のために妙なアトラクションで宙づりになったボリス。その間抜けな姿が、インターネット・ジョークの格好のネタになったのだ。

 

 個人的に好きなのは、ニューヨークの「空中ランチ」。

 市長ついでに、シンプルトン市長にもお出まし願う。



 XTCはアルバム一つとベスト版くらいしか持っていないが、この曲ひとつでその凄さが分かる。むしろ、この曲だけでも良いくらい。
 メンバーはアンディ以外は知らない。三人揃ったときの左のギター君が、ラットルズの人に見えなくもない。
 ミュージック・ビデオかずあれど、このビデオのヒロインはとびきり可愛くて好きだ。

Cats2015/01/13 22:04

 ディラン様ラジオこと、[Theme Time Radio Hour]。前回のテーマは "Cats"。ねこさん。ちなみに、私には動物を飼ったり特に愛でたりする趣味はない。

 ねこさんとジョージ。



 おおお…かわいぃぃぃぃぃ…!!ジョージが…!!!

 今回、ストーンズの "Stray Cat Blues" も流れたのだが、ええと…これです。



 食べるの?それ、食べるの?

 一番面白かったのは、"cat" という言葉を使ったグラマーな女性の話題。ピーター・バラカンさんも解説している。いろいろな女優の名前があがる中、最後にダイアナ・ドースの話になる。
 ディランによると、誰でも、家に彼女の写真があるはずだと言う。
「ウソだと思う?」
 ビートルズの [Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band] のジャケットにその姿がある…と言われるとすぐにピンと来るのが、右端にいる黄色のドレスのグラマーな女性。
 そこで、ディランがひとこと。「おっと、俺がいる。」 ― わぁお。

 もう一つ興味を引かれたのは、ごくごく短い下り。渋いナレーターの声が…
「昔、ディック・ウィッティントンという貧しい少年がおりました。忠実な飼い猫,リップル・ディーディーの他には、何も持ち合わせていませんでした。」と語る。
 どうやら、子供向きのラジオかレコードの冒頭らしい。これについて何も解説はなかったが、どうやらこれは、ポール・ウィングという人によるレコードを一部流したようだ。



 リチャード(ディック)・ウィッティントンというのは、1354年生まれ、1423年に没した実在の人物で、生涯に三度、ロンドン市長を務めた、裕福な商人である。時の国王との結びつき ― 戦争費用の融通など ― を持っており、シティの発展に尽くしている。
 だが、彼が有名なのはその市長としての活躍ではなく、イングランド人なら誰でも知っている童話の主人公だからだ。
 短く説明すると、文無しで大店に丁稚奉公していたウィッティントン少年が、貿易に出かける船に自分のネコを乗せたところ、行き着いた「ネコがいなくてネズミの害に苦しむ国」で、このネコが高額で買い取られ、ウィッティントン少年は大儲けをし、さらにはその大店のお嬢様と結婚して跡取りになりましたとさ…という、英国版わらしべ長者のようなお話。
 ネコで幸運を掴んだ少年として ― しかも大人になってからはシティを代表するロンドン市長に三度も就任するという成功者となるお話のため、ウィッティントンはいつもネコと関連づけられている。
 英国で有名なお話と言ったが、ディランが番組で物語りの冒頭を流した以上、アメリカ人にも知られた話なのだろうか。