ベートーヴェンをめぐる攻防2020/10/07 19:25

 今年は、ベートーヴェン・イヤーだ。生誕250年。12月生まれなので、たっぷり一年間お祭り騒ぎできるはずだったが、悪い年に当ったものだ。1970年の生誕200年は、それはそれは盛大に祝われたと聞いている。

 学生時代、「ベートーヴェンの手紙」という岩波文庫(上下)を買った記憶があったので、探してみたら ―― 楽譜の間にあった。音大時代も、べつにクラシックにさほど興味があったわけではないのだが。どうして買ったのかは謎。
 拾い読みをしてみたが、ベートーヴェン本人の手紙もさることながら、解説が豊富で面白い。
 ベートーヴェンには複数の恋人(正体不明も含む)の存在が有名だが、初恋の人であろう、エレオノーレ・フォン・ブロイニングが、ぐっと来た。ベートーヴェンの一歳年下で、彼らが故郷ボンにいた13,14歳の頃から、エレオノーレがベートーヴェンの友人でもある医者と結婚し、べートーヴェンがウィーンで亡くなるまで ―― その死の床まで、ふたりの友情は続いた。
 こういうの、いいよね。

 1809年、ライプツィヒのブライトコップ&ヘルテルに宛てた手紙が、なかなか興味深かった。
 ブライトコップ&ヘルテルは、有名な音楽出版社。私も2013年12月15日の記事にしている。
 この手紙によると、ベートーヴェンはウィーンを離れ、ヴェストファーレン国王の宮廷楽長として、赴任することを決心していたのだ。
 解説によると、「ナポレオン・ボナパルトは末弟のまだ二十二歳で海員あがりのジェロームを、1807年7月に結んだティルジット講和条約にもとづいて作りあげたヴェストファーレン国王にすえた。それはプロイセンの西の地域の諸王国領をよせ集めてでっちあげた王国に過ぎなかった。」とある。

 ベートーヴェンと言えば、それまでは教会や宮廷の使用人に過ぎなかった音楽家の地位から脱して、自立した、自由人としての音楽家の先達とされている。そのベートーヴェンが、よりによって、ナポレオンの「でっちあげられた王国」のお抱え宮廷楽人になろうとしていたというのだから、驚きだ。
 それだけ、提示された年俸も高額だったらしい。ナポレオン側としても、ドイツの誇りである ―― 実際、経済的に大成功していたかどうかはともかく、高名な、人気のある作曲家になっていたベートーヴェンを、「招いて箔をつけようというのであった。」
 ベートーヴェンはベートーヴェンで、先進的な自由人音楽家ならではの苦労もあって、高給かつ仕事もそれほど制約されない、宮廷楽人の気楽さに惹かれる。耳の病気のことも、ウィーンで自由人としてたくましく振る舞うのに、厳しい状況だっただろう。
 しかし、そこはドイツ人たちが黙っていなかった。我らがベートーヴェンを、ボナパルトごときにとられてなるものかと、友人であり、パトロンでもあったウィーンの貴族たちが、ベートーヴェンに終身年金を与えることによって、彼をウィーンに引き留めることに成功したのだ。

 この、ベートーヴェンをめぐる政治的、そして芸術的な攻防の結果は、結局彼を終生ウィーンの、自由人音楽家たらしめた。この駆け引きは、今に残されている彼の名曲の数々にも、結果的に影響していただろう。
 ヴェストファーレン王国は、ナポレオンの没落とともに、消滅した。これは、ベートーヴェンを守り抜いた、ドイツ,ウィーン、そして芸術そのものが、得たひとつの勝利だった。

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