The Beginning of Folk Rock2025/05/10 21:19

 先週、マイク・キャンベルの自伝 [A Memoir Heartbreaker] が届いたので、まずは面白そうなところから拾い読みしている。
  総じて文章は読みやすい。話がわかりやすいところもトムさんに似ているのか。そしてけっこう表現がロマンチックで胸が熱くなることがある。彼の生涯で重要な人物に出会うシーンなどは特に顕著だ。どうもマイクは一目惚れするタイプらしい。しかも的確に惚れる。トムさんとジョージに出会うシーンは本当に一目で落ちている。
 だれでもその本の締めくくりがどうなっているのかは気になるところで、私もその例外ではない。やっぱりトムさんとのエピソードで締めるのかと思ったら…違った。違うんかい!と思わずツッコミを入れたくなるほど、鮮やかな違い。しかも私がキャーキャー言って喜ぶ人とのエピソードなのだから。マイク先生、最高です。

 先週なんとなくピーター・バラカンさんのラジオを聞いていたら、告知で「1965年ニューポート・フォーク・フェスティバルでボブ・ディランがエレキを持ってステージに立った『出来事』をフォーク・ロックの始まりとして、その後の展開を語る」と言っていた。おお、面白そう。私も聞きたいが、どこか遠方でとっくに予約で埋まっているような話だった。
 それにしても、気になったのは「フォーク・ロック」の始まりである。果たして1965年7月で良いのだろうか。

 そもそもフォーク・ロックとは、ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、そしてボブ・ディランに代表されるモダン・フォークとビートルズに代表されるロックンロール(アメリカで誕生した元祖『ロックンロール』よりもUKで洗練されたそれ)の音楽要素が融合したものだといって間違いはないだろう。
 そもそも、ロックになにか別の音楽ジャンルの要素が加わると安易に「なんとかロック」と名付けすぎである。「カンタータ・ロック」とか、「ラーガ・ロック」とか。特に音大では不評だった。
 ただ、フォーク・ロックだけはそのジャンルが確立され、継承され、今も続いている。ロックのジャンルのなかでも「強い」方だろう。

 Wikipedia を見ると、1965年4月にリリースされたザ・バーズの “Mr. Tambourine Man” をもってフォーク・ロックの始まりとしている。私もこちらの説に同意だ。
 YouTube を検索したら、ザ・ダーティ・ノブズによる “Mr. Tambourine Man” というものがあって、ちょっと怖いけどけっこう良かった。途中でコードが怪しくなるのは御愛嬌。



 マイクの自伝で、ロジャー・マッグインに初めて会うところはまだ読んでいない。そもそもハートブレイカーズが初めてザ・バーズ関連の人に会うのはいつなのだろう?そろそろ拾い読みはやめて最初から読むことにするか。

The Beatles in Netherlands2025/05/17 19:05

 速さは確かだが勝利に繋がらず苦戦するランド・ノリスが、たびたびセバスチャン・ベッテルからアドバイスを受けていると告白。その記事に踊るのは “メンター” の文字。セブはミックのメンタ―だともっぱら言われて「友達だ」と笑っていたが、ランドにとっては本当にメンターだろうなぁ。頑張れランド、助けてセブ…!
 何なんだ、この私しか驚喜しないような話題は…

 オランダといえば?
 F1好きとしてはマックス・フェルスタッペンなのだろうが、いかんせん彼のファンではない。彼以外なら誰がチャンピオンになっても大歓迎。
 チューリップのも風車にも興味はないが、絵画にはとても興味がある。そう、レンブラント、フェルメール、ゴッホ、ついでにブルーナ。
 明日からアムステルダム5泊の旅に出る。目的はただただ、名画である。あとはボリスの夜景とナインチェのミルクメイド。クノールのシュパ―ゲル・スープ。以上!

 クラシック音楽的には、オランダ黄金時代とクラシック音楽の古典派が時代的に合致していないせいか、とくに有名なものはない。ただ、中世〜ルネサンス期にはネーデルランド楽派といって、オランダやベルギーを中心に音楽が栄えたこともある。ともあれ、有名なクラシック音楽ではない。

 ポピュラー・ミュージックでオランダというと、大スターが公演しに行きました!という話程度だろうか。
 ビートルズはリンゴが病欠のときにアムステルダムを訪れており、運河を船で移動し、運河に面した高級ホテルの窓から手を振る様子が印象的だ。



 うーん、やっぱりビートルズはリンゴがいなきゃビートルズじゃないなぁ。リンゴが行けないなら、自分も行かないとジョージが散々ごねたのもわかるというものだ。

名画とホワイト・アスパラガスを巡る冒険2025/05/25 20:30

 昨日、無事にオランダから帰国。飛行機とか、ホテルとか、物価とか、いろいろ言いたいことはあるが、べつに初めての海外旅行でもないので端折る。
 目的はひたすら名画である。レンブラント、フェルメール、ゴッホ、ブルーナ。
 実は今回のオランダ行きはキャンセル寸前だった。仕事の関係で十中八九キャンセルだろうと思っていたところ、連休明けに急遽行くことになり、あわてて準備をした次第。まぁ Google もあるからどうにかなるだろうと思っていたが、甘かった。準備不足がたたり、アムステルダムで迷子になりまくって走り回る羽目となった。知らない土地に行くときは、よく調べておきましょう!

 アムステルダム国立美術館の目玉はもちろん、レンブラントの「夜警」である。重要なのは、朝一番の入場で予約することだ。入場するやいなや、他の絵には目もくれず、「夜警」を目指す。「夜警」は現在、長期修復中なのだ。ガラス張りの部屋の壁に展示され、額はない。そして修復のための足場が組まれているのだが、それでも朝イチに行くとまだ修復作業が始まっていないので、最低限の囲いだけでほぼ「夜警」の全体が鑑賞できるのだ。それも朝イチ15分ほどで、修復師さんが絵の前で作業を開始する。
 お次は、「夜警」手前の「栄誉の回廊」。私がレンブラントの中で一番好きな「布地商組合の見本調査官たち」が鎮座している。想像よりも大きい。この集団肖像は、ビートルズの “with the beatles” のあのスタイルにも影響を与えていると、勝手に思っている。
 あとはレンブラントにおいては「ユダヤの夫婦」や「修道士としてのティトゥス」、「自画像」など。そしてフェルメールの「ミルクメイド」をはじめとする3作品。
 所蔵規模こそニューヨークのメットなどには叶わないが、やはり「夜警」と「調査官たち」の威力はすごい。満足、満足。

 翌日はフェルメールの超名作「真珠の耳飾りの少女」と「デルフトの眺望」のある、デン・ハーグへ。あんな美しい絵のある町があれほど汚いとは思わなかった。町並みこそいかにもオランダのそれだが、散らかりまくったゴミがすさまじく、あそこまで汚い町を見たことがない。
 デン・ハーグの美術館(マウリッツハイス)も一番乗りして、まず「真珠」へ直行!アメリカ人のイケオジと競争になったが(あくまでも歩いて)、私は勝った。
 ついでにフェルメールの暮らしたデルフトまで行って、ぶらぶらしたり、不味いリンゴのケーキを食べたりして、アムステルダムへ戻る。

 三日目は名前も覚えられないほど長い名前の町の、名前の長い国立公園の中にある(このあたりに準備不足が出ている)、クレーラー・ミュラー美術館へ。アムステルダムから電車で1時間程度、そこからバスを2本乗り継ぎ、待ち時間などもあってなかなかハードルも高いのだが、オランダ絵画を見に行ってクレーラ―・ミュラ―に行かないというのは、片手落ちだろう。何と言っても、ゴッホのコレクションが素晴らしく、その充実ぶりはアムステルダムの「ゴッホ美術館」を凌駕しているのだから。
 私の目当ては「夜のカフェテラス」この一枚が見られれば目的を達したというほどの絵だ。実はこの「夜のカフェテラス」、秋以降に来日するらしい。天邪鬼な私は、絶対に日本では見たくない(混むから)と思い、何度か KMとメールのやり取りをして、確実に朝イチで「夜のカフェテラス」を独占できる手筈を整えたのであった。結果は大満足。
 KM が充実していただけに、アムステルダムに戻ってから行った「ゴッホ美術館」はいまいち。ゴッホは制作期間こそ短いが極めて多作なので、玉石混交といっても良いのではないだろうか。「ゴッホ美術館」で見るべきは「ひまわり」「黄色いベットのある部屋」、「アイリス」…あとは中級程度の出来の自画像と、浮世絵の模写(しかも日本人にしかウケない)…それくらいかな。建物が最近新しく、立派になったわりにはちょっと拍子抜ける。

 さて、オランダで見るべき絵画はだいたい見たので、もう一日はユトレヒトへ行った。有名な大学町である。大きなショッピングセンターに、きれいな町並み。デン・ハーグが衝撃的なほど汚かったので、その分を取り戻したような気さえする。
 ここは「うさこちゃん」の生みの親、ディック・ブルーナの暮らした町なので、ブルーナ押しが徹底されていると思いきや、お土産屋さん以外はそれほどでもないという印象を受けた。
 このオランダ旅行の目的の一つに、ホワイト・アスパラガスがあった。私はなぜかホワイト・アスパラガス ― ドイツ語ではシュパーゲルへのあこがれが異様に強い。ところが、オランダとドイツでは旬がずれており、ユトレヒトのどのレストランにも白アスパラガスが無いのだ。
 その時、私は思い出した。一昨日、デルフトで不味いリンゴケーキを食べたレストランに、「ホワイト・アスパラガスあります」というチラシがあったではないか…?
 私は電車に飛び乗ると、70分かけてデルフトへ向かい、再びあのお店に駆け込むと、ホワイト・アスパラガス、ベイクドポテトとベイクドサーモン添えオランネーズソースがけを注文したのだった。
 感想は…なんどいうか…どえらく塩辛かった。もともと出汁文化の日本人で、しかも薄味が好みの私には塩辛すぎた。とにかく、目的は達成した。

 名画を見る旅は完了し、毎日2時間ずつほど仕事をし、あとは帰国するとなった朝、まだ時間があったので、ホテルの近所のカフェで食べたダッチ・パンケーキ(パンネクック)が、結局今回の旅で一番美味しかった。

 都市部への海外旅行にはだいぶ慣れている方だとは思うし、英語でなにもかも用が足りるので良いのだが、本当に美味しいものを計画的に食べたり、迷子になって運河と橋の町を走らないようにするには、やはり入念な計画が必要だと、痛感したオランダ旅行だった。
 ちなみに、出発の飛行機移動と重なって見られなかった、F1エミリア・ロマーニャGPの決勝は、再放送でやっていたのでオランダ語で観戦。ホテルの部屋で「アルボン、頑張れ!!!」と大騒ぎしていた。

A Girl from North country2025/05/31 19:58

 ボブ・ディランの公式動画で、 “A Gilf from North Country” に関する短い動画を公開した。好きな曲なので、とても嬉しい。



 この動画によると、ディランが1962年にはじめて UK へ行った際に、フォーク・シンガーであるマーク・カーシーと知り合い、彼にスコットランド民謡 “Scarborough Fair” を教えてもらい、それが元になったらしいという見解である。



 ”Scarborough Fair” の動画を探すとすべからくサイモン&ガーファンクルか、そのカバーになってしまって、けっこう邪魔。それらをかき分けて、録音としては一番古そうなものにたどりついた。1956年だそうだ。



 話を “A Girl from North Country” に戻すと、ディランは二枚目のアルバムの後に、ジョニー・キャッシュとのデュエットでもよく知られている。私の好みはもちろんオリジナルの方。
 この曲もまたカバーが多いが、ここでは、クロスビー・スティルス&ナッシュで。この美しいハーモニ―はもう聞くことができないのは寂しい。



 ”A Girl from North Country” を聞くたびに思い出すのは、10年ほど前に亡くなった友人のことだ。不思議な縁のの友人であり、人生の不思議さを知らせてくれたその人は、北国のひとだった。彼女が亡くなったときも、いまでもこの曲を聞くと彼女を思い出さずにはいられない。