ロバート・E・リー2008/10/04 00:24

  ある日、女房が言った 「ヴァージル早く ほら、ロバート・E・リーが行くわ」
 (The Band "The night they drove old Dixie down" )




 ロバート・E・リー(Robert Edward Lee 1807~1870)。ロックという音楽が好きであれば、記憶しておくべき名前だろう。

 アメリカ合衆国陸軍大佐だったリーは、南北戦争開戦時すでに名将として知られていた。リンカーンはリーに北軍総司令官就任を依頼したがそれを断り、故郷ヴァージニアに戻って南部連合軍に身を投じた。
 リー自身は奴隷制度に反対だったが、愛する故郷,南部を守る道を選んだのだ(このリーの行動のせいで、リンカーンは最高司令官選びに苦労することになる)。

 南北戦争関係の資料を読んでいると、何度も呆れるのだが、南部の多くの将官たちは協調性に欠け、いがみ合いが頻発している。さらに、南部連合大統領デイヴィスも評判の良い人物ではなく、人間関係の悪さがやたらと目につく。
 しかも、もともと人口も工業力も北部に遠く及ばない南部。奴隷制維持という、人道に反する主張(多くの南部人が、それが悪いことだということは分かってはいても、良心と妥協して奴隷制に依存していた)…南部には勝ち目はなかった。しかし、4年も持ちこたえた。それは、南部の人々の誇りと独立を守ろうという熱意と、リーという人物の存在があったからだろう。
 リーは軍人として優秀だったのみならず、高潔な人格で知られていた。クセモノ揃いの南部の将官たちをよくまとめ、貧弱な戦力をどうにか工夫して運用し、兵士たちに慕われ、難しい上司(デイヴィス)からも信頼されていた。
 その戦略は、守りにおいては塹壕などの強固な陣地を重視し、攻勢においては、多くの場合かなり大胆な積極性を持っていた。このため、自主性・機動性のある将官と部隊を特に信頼し、活用した(その代表が、ストーンウオォール・ジャクソンや、ジェブ・スチュアート)。そのうえ、政治的なバランス感覚にも長けており、ともすると彼一人が南部の命運を背負っていたように思えることもある。
 南北戦争を代表する二者で表現するとしたら、北のリンカーン大統領対、南のリーだった。北のグラント将軍対、南のデイヴィス大統領では決してない。南北戦争期の音楽をまとめたアルバムのジャケットが、それをよく表現している。



 そんなリーだが、開戦当初から南軍の総司令官だったわけではない。その役職は、戦争末期までデイヴィスが兼務していた。
 最初、リーはウェスト・ヴァージニアに派遣された。ジェイムズ・テンチが戦死したこの戦役後、将官たちや地元政治家たちの人間関係の悪化を修復するためだったが、さすがにリーの仕事ではなかった。やがてリッチモンドに戻り、デイヴィスの軍事顧問のような形で主戦指揮にかかわり始める。

 1862年春から始まった、北軍マクレランによる半島作戦(北軍によるリッチモンド攻撃作戦)において、南軍の主戦力である北ヴァージニア軍の司令官は、ジョーゼフ・ジョンストンだった(第一次マナッサスの戦いで、援軍に駆けつけた南軍の将)。しかし、ジョンストンは途中で負傷退場。リーが代わって指揮をとった。
 半島作戦は6月ごろまでには手詰まりとなり、マクレランはリッチモンドへの攻勢をゆるめた。すると、リーはのちに「七日間戦争」と呼ばれる攻勢を逆にかける。ぶつかったのは北軍10万に、南軍8万。第一次マナッサスとは比べ物にならない大規模な戦闘の始まりだった。
 結果は、リーの南軍が勝利した。むろん、マクレランの北軍が壊滅したわけではない。単に半島作戦をあきらめただけだが、国力,軍事力において劣り、独立が目的である南部連合にとっては、十分な成果だった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの制作者名最初のアルファベット半角大文字2文字は?

コメント:

トラックバック