ストリート・リーガル2008/09/03 22:08


 [Street Legal]は、ボブ・ディラン1978年のスタジオ録音アルバムだ。

 ディランのアルバムとしては、かなりお気に入り。[Desire] と、[Slow train coming] の間に位置するため、音はかなりゴージャスで厚めなつくりであり、しかもいくらか宗教色もある。
 しかし、前後の二作に比べると、[Street Legal] は多少リラックスした雰囲気があるところが、好きだ。それでいて、相変わらずの洪水のような言葉と歌で、意味はわからなくても、聴いているうちにいつの間にか胸がいっぱいになってしまう。
 今日、このアルバムを聴きながら南北戦争の本を読んでいたのだが、大好きな[Is your love in vain?] の時に、ちょうどリッチモンド陥落,リーの降伏,リンカーン暗殺,戦争終結,荒廃した南部 - という下りに来て、半泣きになってしまった。
 ジャケットもさりげなくて好きだ。裏ジャケットは…チャンピオンベルト…?

 さて、[Street Legal]というと、必ず思い出す事件がある。

 3年ほど前だろうか。吉祥寺を歩いていると、ある中古レコード屋がセールをしていた。フラっと入った私は、ディランのLPコーナーに行き、一枚一枚を取り出し、良さそうなものを物色していた。
 [Street Legal]があったので、それを仔細に見ていると、背後から男性の声がした。
 「おーまえ、そんなん買うわけないだろう?!」
 そして、その声の主は私の後頭部とドーン!と、どついたのである。
 私はとっさに、トム・ペティ・ファン仲間諸兄の誰かに見つかったのだろうと思って、その男性の方に顔をあげた。
 驚いたことに、そこに居たのは見ず知らずのおじさんだった。私よりも驚いていたのは、そのおじさんの方だった。彼はすぐに、オタオタと謝った。「す、すいません!息子と間違えました!」
 すると、「息子は、こっち。」という声がする。そっちを見やると、明らかに小学校5,6年の男子児童が立っている。
 確かに、私はスティーヴィー・ニックスや、チャカ・カーンより小さい。しかし、間違いなく成人女性である。人違いをするにも、限度というものがある。しかも、どついてしまっている。

 お互いあまりの恥ずかしさに、謝るのも、それを受けるのもかなり短時間でやりすごした。私はすぐにLPに視線を戻し、親子は店から居なくなったようだった。私はしばらく、店内にとどまった。
 [Street Legal]を購入して外に出ると、路上に、さっきのおじさんが立っていた。例の男子児童も一緒だ。おじさんは、私に頭を下げ、「本当にすみませんでした。」と、もう一回謝った。私が出てくるのを待っていたのだ。
 どうやら、彼の隣りには奥さんが立っていたようだった。きっと、彼女も店内に居たのだろう。私は怖くて奥さんの顔は見られなかった。私はこのいたたまれない空気から早くのがれるべく、かなりいい加減に「気にしないでください」と言って、立ち去った。

 教訓。レコード屋で人の頭をどつく時は、相手の顔をよく確認しよう。

テンチ家の兄弟(その3)2008/09/07 01:09

 職場で、ある人がアメリカ出張から帰ってきたというので、どの町に行ったのかと尋ねると、リッチモンドという答えだった。
 「ああ南北戦争の時、南部連合の首都だったところですよね。」
 私が言うと、その人は驚いた。
「ええ?すごい北だよ?」

 私もヴァージニア州リッチモンドの位置を最初に確認したときは、少し驚いた。

 アメリカ東海岸の州の位置を、NYCのあるニュー・ヨーク州から南に向かって確認してみる。
 まず、ニュー・ジャージー州,その西内陸に大きくペンシルベニア州,沿岸には小さなデラウェア州。そして複雑な形をしたチョサピーク湾を抱くように、メリーランド州が位置するが、その南の州境にポトマック川が流れており、その北岸の一部にワシントンD.Cが位置する。言うまでもなく、どの州にも属さないアメリカ合衆国の首都であり、南北分裂の時も、北部合衆国のそれであり続けた。
 ポトマック川の南側が、南部連合に属したヴァージニア州である。リッチモンドはヴァージニア州の州都で、ワシントンD.Cとの距離は南北160km。これは東京から静岡県の焼津まで程度の距離。南北戦争の東部戦線は、この至近距離に位置する二つの首都の周囲で展開することになる。
 ヴァージニア州以南は、大きな州が並ぶ。ノース・カロライナ,サウス・カロライナ。そしてひときわ大きなジョージア州には、アトランタやテンチ家の街ニューナンがある。その南にフロリダ州,西にアラバマ州と位置する。

 南北戦争開戦の時期、リンカーンの大統領就任の前に、すでに連邦からの脱退を表明していた州もあれば、州内の意見がまとまらず、ぎりぎりまで迷っていた州もある。後者は必然的に北部に近い方だった。
 ヴァージニア州がまさにそうだった。ヴァージニア州が連邦からの脱退を正式に表明したのは、1861年4月17日。すでにサムター要塞で戦闘が開始された後だった。南部連合はそれよりも先にデイヴィスを南部連合大統領に選出し、リッチモンドを首都に定めたのにもかかわらず、その首都のある州の正式脱退宣言が遅れたのには、事情がある。
 もともと、ヴァージニア州は東西に幅がある。そして、巨大なアパラチア山脈の山並みが、この州を東西に分断しており、建国当時から入植者の故郷にも東西で違いがあった。
 さらに、東側は平原でノース・カロライナ州と接しており、南部的な奴隷制度をとる社会構造を保持していた。
 一方、西側は山間部で石炭の産地であり、さらに西北を流れるオハイオ川の水運により、北部の工業地域とのつながりが強く、奴隷制度を廃止する北部的な社会構造に傾いていた。

 ヴァージニア州東部の州政府は連邦離脱を当然としたが、山脈の西側ウェスト・ヴァージニアの郡はこれに強く反発した。両者の亀裂は、ウェスト・ヴァージニア諸郡が北部ホイーリングを州都に定め、Kanawa州として独立すると宣言するにいたった。
 ヴァージニア州政府にと、南部連合にとって、これは重大なことだった。もしアパラチア山脈の間道を西側から封鎖されたら、西からの補給路を断たれてしまう。さらに、その奥に位置するオハイオ川という大きな水路を使うことができなくなってしまう。

 ウェスト・ヴァージニアの独立と北部連邦残留を阻止するべく、ヴァージニア州政府はジョージ・ポーターフィールド大佐と1000人ほどの軍勢をウェスト・ヴァージニアに派遣した。
 一方、北部連邦はオハイオ軍司令官ジョージ・マクレラン少将がこれに対する軍勢を、率いることとなった。

 この、アパラチア山脈をはさんだウェスト・ヴァージニアをめぐる一連の戦闘が、「ウェスト・ヴァージニア作戦」と呼ばれるものだ。
 作戦の本筋に入るまえに、長々と説明を要したのだが、歴史というものは大体そんなものだ。しかも、南北戦争全体においてこの作戦は、「大した重要性はない」などと、書かれる始末。
 しかし、「ウェスト・ヴァージニア作戦」は、少なくとも三つの意味で非常に重要だった。
 まず第一に、この戦闘の結果ウェスト・ヴァージニアはヴァージニア州から分離した別の州となり、二度と一緒になることなしに今日に至ったこと。
 第二に、「さして重要ではない」この作戦が、北軍最大の謎の存在であるジョージ・マクレランを世に知らしめたこと。

 第三に ― これが私にとって最大のポイントだが ― この戦闘で、テンチ家の兄弟の一人,三男ジェイムズが戦死したことである。

(つづく)

ロン毛じゃないミュージシャン2008/09/08 00:46


 先日、サラサラロン毛のミュージシャンに言及したところ、「トムさんの無残な短髪」というメンションがあった。
 おそらく、2000年のブリッジ・スクール・ベネフィット・コンサートでのトム・ペティのことだろう。私もこのとき、ニュース写真を見てびっくりしてしまった。
 子供の時はともかく、ビートルズを見て髪を伸ばし始めて以来、もっとも短い記録ではないだろうか?
 [ Hard Promises ]の時期も比較的短いのだが、決定的な違いは前髪だ。やはりトムさんには、あの流れるような長さが必要なのだ。
 何がどうして、あんなに短くしてしまったのだろう?

 面白いことに、この「短髪トムさん」は写真が非常に少ない。この年の露出が少ないということもあるが…
 唯一のデブ期の写真もあまり多くないトムさんのこと。短髪写真も、トムさん検閲に引っ掛かり、焚書の憂き目に遭っているのだろうか。そういう努力があったとしたら…悪くない。

 ハートブレイカーズのメンバーで言うと、マイクが初めてトムに会ったとき、すでにあの金髪を長々と伸ばしていた。逆に、マイクの方がフロリダ大学の図書館で働いていたため、短くしていた。(あのムサい金髪が図書館にノコノコやってきて、「カレッジなんてやめちゃえ!」とか言い出したら、嫌だなぁ。)
 ベンモントは12歳で楽器屋でトムに声をかけられた時、「ブライアン・ジョーンズみたいな髪型の人」を記憶している。 すでに、マージービートにかぶれたスタイルになっていた模様。金髪ということもあるが、前髪も長かったと思われる。

テンチ家の兄弟(その4)2008/09/11 22:30

 アル・フランクリンさんは、ジェイムズ・アンドリュー・テンチ ― ベンモント・テンチの曽祖父ジョンの、すぐ下の弟 ― の死に関して、1861年6月26日にヴァージニア州モントレーで亡くなったとしている。どうやら、ニューナン(テンチ家の故郷)にある、テンチ家の墓所(Tench family cemetery)の記録に基づいているらしい(アル・フランクリンさんについては、8月4日の記事「テンチ家の人々(その2)」を参照)。
 一方、ニューナンの地元新聞,ニューナン・ヘラルドが戦後1866年1月13日に掲載した、「ニューナン・ガーズ・戦死者名簿」では、ジェイムズは1866年7月にヴァージニア州モントレーで亡くなったことになっている。
 モントレーは、ヴァージニアを東西に分断するアパラチア山脈の東に位置する、高原の町だ。標高はおよそ880m。今では高地農業が盛んで、毎年メイプル祭りがひらかれる。「アメリカのスイス・アルプス」という売り文句で観光にも力を入れる、風光明媚なところでもある(ジャズ・フェスティバルで有名なカリフォルニア州モントレーとは、もちろん別の町)。
 この情報を頭に留め置き、ウェスト・ヴァージニア作戦の前半を追ってみたい。

  南部連合は、北部連邦に属するオハイオと、ワシントンの補給地となるメリーランド州ボルチモアを結ぶ鉄道機能を止めるため、ポーターフィールド大佐以下800の軍勢を、ウェスト・ヴァージニア北部(もちろん、アパラチア山脈の西側)から出発させ、グラフトンのやや南に進軍した。
 一方、北部連邦に属するオハイオ軍を率いるのは、34歳の若きジョージ・マクレラン少将。一度退役したのち、内戦勃発に伴って軍に復帰したマクレランは、オハイオ州西部シンシナティで軍を整備し、ウェスト・ヴァージニアに向けてモリス准将以下3000の軍勢を出発させた。

 南北がまみえたあたりは、ウェスト・ヴァージニアでありながら南部連合に同調する住民が多かった。アパラチア山脈西側の裾にあたり、タイガード川(Tygard)が流れ、グラフトンの南にフィリッピという場所に橋があった。南軍のポーターフィールドはここに布陣した。
 5月末、モリス配下の北軍は二手にわかれて、ウェスト・ヴァージニアの北方から町を占領しながら南下し、それぞれ南軍に悟られないようにフィリッピに向かった。6月3日の早朝、ピストルの発砲音を合図に、二方向からフィリッピに布陣する南軍に攻撃を仕掛ける作戦である。
 3日の夜明け前、フィリッピの付近に住んでいた南部連合支持者であるハンフリーズ夫人は、北軍の進軍を目撃した。そこで息子に馬で南軍へ知らせるように、指示した。しかし息子は北軍兵士に確保されてしまう。それを目撃したハンフリーズ夫人は、果敢にも北軍兵士たちにピストルを発砲した。彼女の発砲は目標を外れたが、これがなんと、二手にわかれて隠密行動をしていた北軍の一斉攻撃合図になってしまった。
 北軍兵士たちにとって意外なタイミングでの一斉攻撃となったが、まだ就寝中だった南軍にとってはさらに意外な敵の襲来で、- 兵士がまだ訓練されていなかったという不幸も重なって -大混乱となった。寝込みを襲われた兵士たちは身支度もろくにできないまま、南にむかって敗走した。
 ろくな発砲もないまま終わったこの戦闘は、単に「フィリッピの戦い」(古代ローマにも同名の戦いがある)か、もしくは「フィリッピ・レーシズ(競走)の戦い」と呼ばれる。死傷者は北軍4名,南軍26名。いかに、北軍にとっても予想外の出来事だったかがわかる数だ。富士川の水鳥を彷彿とさせる出来事でもあろう。

 フィリッピでの敗走を経て、南軍はベヴァリーに拠点を移した。指揮官はロバート・ガーネット准将に交替し(南北戦争ではかなり頻繁に指揮官が交代する。北軍においては、総司令官もその例外ではなかった)、地元ヴァージニアの歩兵連隊を加えて組織の建て直しを図り、更にジョージア州や、テネシー州からの騎馬隊も加わった。
 こうして、6月半ばには再布陣が完了する。南軍の指揮官ガーネットは、ベヴァリーの北に位置するローレル・ヒルを最重要防衛ラインと考えた。南下する北軍のマクレランはグラフトンからフィリッピを経て、正面攻撃すると予想したのである。
 そこで、ガーネットは自身以下大部分の部隊をローレル・ヒルに配置。ベヴァリー南西のリッチ・マウンテンの砦には、ペグラム大佐以下少人数を配置した。

 一方、北軍を率いるマクレランは、7月7日から配下のモリス准将(「フィリッピの戦い」での指揮官)に一部の部隊を率いてローレル・ヒルに向かわせ、自分はローズクランツ准将を先鋒として大部分を迂回させ、手薄なリッチ・マウンテンに向かった。
 南軍はマクレランに裏をかかれた。
 7月11日、リッチ・マウンテンのペグラム以下南軍は北軍本体の一斉攻撃に耐えられず半数が降伏し、一部はベヴァリーに向かって敗走した。

 この知らせに対し、ガーネットは13日にローレル・ヒルを放棄。リッチ・マウンテンから逃げてくる味方を吸収することなく、北東方面の川沿い(Corricks Ford)に向かって、敗走した。この間、南西からマクレラン-ローズクランツの主力と、北からモリスの軍勢に悪天候の中追い回される事になる。
 結局ガーネット自身は、山を越えて東側のヴァージニアへ逃げ込む事が出来なかった。彼はこの戦争を通じて、戦死した最初の指揮官になってしまったのだ。逃げ延びた南軍は、山を東側に越えて、モントレーにたどりついた。
 緒戦の地名を取って、この一連の戦いは「リッチ・マウンテンの戦い」と呼ばれる。
 これによって、ウェスト・ヴァージニア北部に布陣していた南軍は、アパラチア山脈の東に駆逐され、これを指揮したオハイオ軍司令官マクレランは、「ウェスト・ヴァージニアを解放した英雄」として、名を馳せる事になった。

 一連のウェスト・ヴァージニア作戦前半の経過を見ると、フランクリンさんが採用している、ジェイムズ・テンチの死亡日時6月26日には、疑問符がつく。
 テンチ兄弟が入隊したニューナン・ガーズを含んでいたであろう、ジョージア州の騎兵がアパラチア山脈西側の戦闘に加わったのは、フィリッピの戦いの後、ベヴァリー周辺での布陣した7月からだ。そしてニューナン・ヘラルドも記しているように、ジェイムズが死んだのはモントレーで間違いなさそうなので、ジェイムズはリッチ・マウンテンから始まる敗走軍の中に居たとするのが、妥当ではないだろうか。
 テンチ・セメタリーの記録,もしくはフランクリンさんの記述は、7月を6月と誤っているのかもしれない。
 ニューナン・ヘラルドには、1861年の7月にモントレーで死んだニューナン・ガーズのメンバーを、ジェイムズ以外にも一名報告している。彼らはCorricks Fordでの北軍の攻撃中に負傷,モントレーまでたどりつきはしたものの、この地で死んだと思われる。当時の戦地における医療,衛生状態からして、重傷者が死亡する確率は高かった。

 ジェイムズ・テンチの墓は、故郷ニューナンのテンチ・ファミリー・セメタリーにある。彼の遺体が、故郷の土にかえったかどうか、そして兄のジョン,弟のルービンがその悲しい瞬間に居合わせたのかどうかは、分からない。
 故郷から遠く離れたヴァージニアの高原でジェイムズが死んだとき、彼は19歳になったばかりだった。

(つづく)

ウィリアム・バード2008/09/14 20:45


 アメリカ南北戦争の間、南部連合国の首都だったリッチモンドに関する記事において、その町の命名者,William Byrdという人物が話題に上った。
 16世紀から17世紀にイングランドで活躍した音楽家と、同姓同名だ。そこで、同じ名前の音楽家の方について記してみる。

 音楽家,ウィリアム・バードは1540年生まれ,1623年没。ちょうど、エリザベス一世治世と重なる。彼自身はカソリックだったが、プロテスタントの女王に保護され、国教会のために宗教音楽を多数残した。
 その一方で、世俗音楽も多く残している。鍵盤楽器のための曲が有名。楽器の名前は一般にチェンバロ ― 言語などによっては、ハープシコード,ヴァジナールと呼ばれる。

 私がバードのヴァジナール曲集のCDを買ったのは、その音楽や演奏家に興味があったからではない。
 ウィリアム・バードの、Byrdというファミリー・ネームの綴りに惹かれたからである。そう、あのThe Byrdsと同じ綴りだからという、およそきっかけにもならないような理由である。

 演奏者は、Andreas Staier、ドイツ人。チェンバロ演奏の名手で、バードのようなルネッサンスから、バッハのようなバロックを取り上げたアルバムを多く作っている。
 このアルバムはウィリアム・バードのヴァジナール曲のみを収録している。タイトルは、収録曲の一つ " John come kiss me now " から取っている。400年ほど前のタイトルだが、とてもかわいらしい。

 肝心の曲に関する感想だが…どの曲も同じに聞こえてしまう。私の耳はその程度だ。私には、音だけではきついのかもしれない。
 これが、エリザベス朝の衣装や調度、登場人物とともに映画の中に使われると、グッと肉薄してくるのかも知れない。

スティーヴ・フェローン ドラム クリニック2008/09/15 22:50


 グレッチ Gretsch と言えば、ジョージやマイク・キャンベルが愛用するギターのメーカーというのが私の認識だったが、ドラム・メーカーとしても名をはせているそうだ。
 今年、グレッチの創業125周年を記念して、スティーヴ・フェローニを迎えて、ドラム・クリニックが開かれた。8月1日、整理券を取りに終業後に走った甲斐あって、渋谷エッグマンの一列目中央に陣取ることができた。

 スティーヴ・フェローニ。今回のクリニックでは「フェローン」という表記だが、トム・ペティが頻繁に名前を呼ぶので、「フェローニ」という発音が広まりつつもある。
 トムのソロ・アルバム [ Wildflowers ] からのつきあいでスタン・リンチ脱退後のTom Petty & the Heartbreakersのドラマーを務めている。いまやサポートというより、完全にバンドのメンバーだと、私は思っている。
 それ以前は、エリック・クラプトンのバンドに6年間居たので、1991年あのジョージ・ハリスン来日ツアーの時、ドラマーを務めていたのも彼だ。

 開演前にエッグマンの前で並んでいると、Tシャツにハーフパンツ,とてもラフな格好のスティーヴが出かけていく。手を振って「ようこそ!」と言うと、にこやかに手を振ってくれた。
 たぶん、ランチに行ったのだろう。

 開演の2時。まずは、グレッチの現社長が出てきて挨拶。グレッチ社の歴史などを紹介。そして、スティーヴ登場!目の前に、あのスティーヴ・フェローニが!今度はジャケット・スーツでおしゃれをしている。
 彼自身のソロ・アルバムからドラム・トラックを除いた音に、生ドラムを合わせる、迫力満点の演奏に加え、ドラミングに関する楽しいトーク。会場に集まったファンからの質問にも、たくさん答えてくれた。
 常に笑顔を絶やさず、ジョークを交えて楽しく話すステイィーヴ。挨拶をするのも、ドラム演奏を披露するのも、質問に答えるのも、歌ったり、踊ったり。とてもリラックスしていた。
 最前列で目を爛々とさせている私たちの反応にも、喜んで絡んでくれる。

 スティーヴの、良いドラマーの定義が印象的だった。
 「バンドのため、シンガーのため、そこにある音楽のため、すべてを捧げ、エゴを排して尽くすこと。」それが、スティーヴいわくの「禅ドラミング」とか。
 なんて大きい音楽家であることか!クリニックでも披露してくれたが、凄まじいまでのテクニックとパワーを持ちながら、バンドのために尽くすあの姿勢。しかもいつも明るく、元気で、人の心を和ませてくれる。
 トムはスティーヴを「バンドのエンジン」と言っているが、エンジンのみならず、彼はバンドの太陽なのかも知れない。
 「正確なテンポと、グルーヴとは、べつもの。まず、感じるんだ!」と、 フィーリングから [ You Wreck Me ] の録音に飛び込んだ様子を表現してくれた。あのマイクのギターリフや、歌を口ずさみ、スタジオのノリを再現する。私が大喜びしていると、「ああ、彼女わかっているね!」と言ってくれた。
 「まず感じる」とは言いつつ、やはり正確無比の刻みがあってのこと。音楽大学でメトロノームに合わせてひたすらリズムを刻んでいた話は、私たちにお勧めこそしないが、でも一流たるには必要なんだと、実感した。

 どんなプレイの時も、話の時も、とにかく明るく楽しく、和ませてくれるスティーヴ。
 日本のシャワー・トイレに驚愕し、もんじゃ焼きという日本の秘密を握り、エリック・クラプトンの下着を暴露する。
 あれほどの大スター,名ドラマーが、目の前で華厳の滝のように汗を垂らしながらドラミングを披露し、楽しく話してくれるのが信じられないが、そんな素晴らしい時はあっという間に過ぎ去る。
 スティーヴに憧れる多くの人々が集まったせいか、今回は握手やサインは無しだったが、それでも大満足のイベントだった。

 また、こんな素晴らしい企画があったら良いなと、心から願う。マイク・キャンベルであったら、失神しないように頑張らないと。ベンモントをヤマハがお迎えしようものなら、浜松だろうが何処だろうが、絶対に駆けつけるだろう。

マナサス / マナッサス2008/09/18 22:50



 音楽ファンなら、Manassasを「マナサス」と読み、スティーヴン・スティルスを思い浮かべるだろう。
 一方、「マナッサス」と読んで同時に「ブルラン」という言葉を思い浮かべるのは、歴史好き ― 特に南北戦争に詳しい人ということになるだろうか。

 南北戦争開戦当時、北部連邦の人びとは ― おそらくリンカーンも含めて ― この戦争は短期で決すると楽観していた。何せ、南部連合の首都リッチモンドはワシントンから160kmしか離れていない。さらにワシントン眼前のポトマック川を渡れば、そこはもう南部連合に属するヴァージニア州なのだ(コロンビア特別区が作られたとき、ヴァージニア州側のアレクサンドリアも特別区になったが、1847年ヴァージニア州に返還されている)。
 北部の人々は、ちょっと川を渡って南軍を追い散らせば、簡単にリッチモンドを落とし、戦争は終わると考えていた。現に、ウェスト・ヴァージニアでは、マクレランが簡単に南軍をアパラチア山脈の東側に追いやってしまったではないか(「テンチ家の兄弟(その4)」参照)。

 北ヴァージニアの南軍22000は、川を挟んでワシントンからたったの48kmに位置する、マナッサスに駐屯していた。三つの鉄道が交わるマナッサス・ジャンクションがある町だ。線路の北側には、ブルラン川(「牛が駆け回るところ」という意味)が流れている。
 この頃の鉄道はその後引き継がれて今日に至るが、アムトラックを例に取るとマナッサスの東隣の駅がアレクサンドリア、そのまた次が川を隔てたワシントンDCだ。いかに連邦の首都に近かったが分かる。
 マナッサスの南軍を率いていたのは、ピエール・ギュスターヴ・トゥータン・ボーレガード准将。ファースト・ネームは殆ど使われない。P.G.T.ボーレガードで有名な彼は、戦争の発端となったサムター要塞攻撃を行った人物でもある。

 一方、北部連邦のポトマック軍35000(川の名前から取られた名称で、ワシントン・リッチモンドをめぐる戦いの主戦力となった)を率いるのは、アーヴィン・マクダウェル准将。ウェストポイント(陸軍士官学校)では、ボーレガードの同級生だった。
 人数は北軍が圧倒していたが、南軍にもシェナンドア渓谷(アパラチア山脈北東部麓の渓谷)から、ジョセフ・ジョンストン准将が10000あまりを率いて援軍に駆けつけようとしていた。北軍はこの援軍を阻止しようとしたが、失敗している。

 1861年7月21日、両軍はマナッサス郊外ブルラン川流域で激突した。戦闘開始当初は、数で勝る北軍が優勢だった。
 しかし、南軍にはジョンストンの軍勢が鉄道でマナッサスの戦場に到着しつつあった。その中にトマス・ジャクソン准将が率いる師団が含まれている。
 ジャクソンはブルラン川南岸のヘンリー・ハウス・ヒルに陣取った。優勢だった北軍に押されて、南軍は壊乱寸前だったが、ジャクソンは一歩も引かない覚悟だった。その様子が「石の壁」の如くで、ジャクソンは「ストーンウォール・ジャクソン」の名で知られるようになる。
 ジャクソンは、耐えに耐えたのちに発砲,突撃命令をするときに、「叫び声をあげて突撃せよ」と指示した。これが、ヤンキーたち(北軍兵士)を震え上がらせる、Rebel’s yell(反逆者たちの叫び)である。

 南軍の将ボーリガードはほとんど行き当たりばったりの戦闘続きだったが、数で勝るはずの北軍を食い止めるという意味では、上手くいっていた。
 一方、北軍の将マクダウェルは、これと言って妙案を持っていたわけではないが、とりあえず数という優位点を生かすべく、陣形の立て直しを試みた。そのためには、「戦略的」な撤退が必要である。ところが、北軍は(南軍もおなじようなものだが)まだ十分な訓練のできていない、半分素人の集団だった。いったん退くとなると、歯止めが利かない。北軍は負けていたわけでもないのに恐怖に駆られ、一斉になだれを打つように潰走を始めた。
 彼らは、さんざんな有様でワシントンに逃げ帰ってきた。南軍のボーリガードにしろ、ジョンストンにしろ、逃げる敵をワシントンまで追うこともできたかも知れない。しかし、それをしなかった。戦いの前半の劣勢から、南軍は立ち直りきっていなかったのである(死傷者約2000)。
 いまにも反逆者たちが首都に乗り込んでくると震え上がっていたワシントンも、とりあえず安堵した。

 南北戦争には、この手の「詰めの甘さ」が何度も見られる。特に北軍に顕著で、徹底的な勝利で相手を撃滅するという勝ち方を、本気で目指した将軍が少なかったのである。文民であるリンカーンの方が、よほどそのことの重要性を理解していた。
 南軍はむしろ、北部連邦を撃滅せずとも、自分たちの独立さえ認めてくれれば良いわけで、名将として名を馳せるロバート・E・リーなどもそのあたりを狙っていた。徹底的に勝つ事を目指す将官が必要なのは北軍であり、リンカーンだった。
 徹底的に勝つどころか、3000にものぼる死傷者を出して、逃げかえってきたマクドウェルを、リンカーンはポトマック軍司令官から解任した。こののち、リンカーンは― 常識では考えられないことだが ― 満足に仕事をしない司令官の解任,任命を繰り返すことになる。

 ところで当時マナッサスに、ウィルマー・マクリーンという人物が住んでいた。彼はブルラン川周辺に農場を持っていた。ここが戦いの舞台となってしまい、マクリーンは非常に迷惑した。彼は引っ越しを考えるようになる。
 ところが、引っ越しをする前に、彼の農場は再び人殺しの舞台となるのだ。このため、1861年7月の戦いは北軍で「第一次ブルランの戦い」,南軍で「第一次マナッサスの戦い」と呼ぶ。
 どうやら、北軍は戦場周辺の地形的特徴(山や川)の名前を採用するのに対し、南軍は近くの町の名前をとる傾向にあるようだ。
 「ブルラン」と、「マナッサス」。私には、「マナッサス」の方が魅力的な響きに思える。

 「第一次ブルラン / マナッサスの戦い」から111年後の12月。Manassasの駅で、スティーヴン・ステイルスはまだ名無しのバンドだった仲間と共に、写真撮影をした。彼もこの町の名前の響きに、何か感じるものがあったのではないだろうか。

所ジョージ2008/09/21 00:32

 何十年前のことだろうか。「笑っていいとも!」に、所ジョージが視聴者から寄せられた人生相談はがきに応えるというコーナーがあった。
 タモリが相談はがきを読む。「ひとに『どうも、どうも』と言われたら、なんと答えれば良いのですか?」
 すると、所ジョージは「一曲できました!」と言いながら背後からギターを取り出し、歌いだした。

 「ヒョウ、トラ、ゾウ、ライオン、み~んなどうもう~♪」

 私は、所ジョージのファンになった。

 彼のアルバムは出せばすぐに廃盤になると、ビートたけしにからかわれている。
 そんな中で、私が聞いたのは「20th カニバーサミー」と、「選択脱水」、「史上最大全集しょのいち」。
 特に1枚目がお勧め。坂崎幸之助との掛け合いが面白い。「なんで、『トコロも一緒にアルフィーやろうぜ』って言わなかったんだよ!」…無茶にもほどがある。

[ 組曲 冬の情景 ]
 ライブ。この歌を覚えると、「1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が8枚」…と、512までは楽に暗記できるようになる。前半の抒情豊かな(?)冬の情景。後半に「タ~ラリラツーラッラー♪」と唐突に盛り上がる。絶妙。

[ 西武沿線 ]
 西武線に縁にある人には、更に笑える。西武線はパンツで動き、アメリカまで行く。

[ 昔の車で乗ってます ]
 車好きな所さんらしい曲。ひっくり返ったり、国産車より多い外車だったり。「でも、あれポルシェ博士なんでしょう?!」坂崎、突っ込むのはそこか?!「そ~んなぼ~くの車がレッカー移動~♪」は使えるフレーズだ。

[ 車庫証明騒動歌 ]
 車を愛し、ポリスを憎む所さん。公務員相手にむちゃな要求をし、しまいには銃撃されている。「それでは、私がスンですぃまうでしょう!」

 他のアルバムでも、異常に短い「しゅうまい」、なぜ彼女と付き合うのか分からない「花火」、ダジャレを言う馬鹿が許せない「寿司屋」、哀愁ただよう「ムシ」など、所ジョージの魅力は適当に散らばっている。

マクレラン と ヨドバシカメラ (その1)2008/09/24 22:29

 ジョージ続きだ。
 今回のジョージは、ジョージ・ブリントン・マクレラン。ある歴史家によれば「南北戦争の問題児」。のちに、北軍の勝利を決定づけた将軍ユリシーズ・グラント(第18代合衆国大統領)によれば、「戦争の謎」。評価の難しい男なのだ。

 テンチ家の三男ジェイムズが戦死した戦役で、ウェストヴァージニアを「解放」した英雄ともてはやされた北軍の将マクレランは、わずか34歳だった。彼は戦争初期にして、既に伝説的な英雄な評判を勝ち取っていた。
 第一次マナッサス(ブルラン)の戦いでの北軍敗北後、リンカーンは主力ポトマック軍の司令官マクダウェルを解任し、マクレランをその後任とした。さらに、彼を北軍総司令官に昇進させたのだから、その期待の大きさは推して知るべし。

 マクレランは、軍という組織を作ることにおいては、間違いなく優秀だった。実戦部隊の組織や訓練はもちろん、参謀本部や兵站部門、通信部門の充実をすすめる。マナッサスから大混乱で逃げ出した素人集団は、マクレランの手によって近代戦に耐えるものになったのだ。
 ところが、彼は実戦の指揮官としては、思い切りと大胆さに欠けていた。1861年秋、マクレランは申し訳程度にポトマック軍の一部を北ヴァージニアに派遣したが(大敗)、なかなか主力を率いて南軍と戦おうとしない。マクレランの弁明によれば、マナッサスの南軍は数でポトマック軍を圧倒しているというのだ。
 リンカーンも議会も、マクレランに業を煮やす。1862年、とうとうリンカーンが直々に、南軍への総攻撃を命じた。それでも動かないマクレラン。問題児という表現も無理もない。
 大統領や議会から説明を求められたマクレランは、自分の作戦を説明した。すなわち、ポトマック軍をマナッサスに進軍させるのではなく、海からリッチモンドが付け根に位置する半島(ペニンシュラ)に上陸し、南軍の首都を攻略しようと言う大胆な作戦だった。

マクレランによる半島作戦の大まかな方向


 要するに奇襲なのだから、一気呵成の作戦展開が必要なのだが、面倒なことにリンカーンが難色を示した。政治家であるリンカーンは、首都ワシントンから主力ポトマック軍の全てが居なくなり、遠回りで戦地に赴くことによって、逆に南軍に首都を奪取されることが北軍の致命傷になることを知っていた。リンカーンはマクレラン配下から、マクダウェル(マナッサスの敗将)以下30000の兵を残留させた。
 こうなるとマクレランが少々気の毒に思える。しかし、彼の行動の遅さがロバート・E・リー以下南軍に準備の時間を与えてしまった。しかも、マクレランが「数で勝てない」としていたマナッサス駐留軍が実は少数だったあっては、リンカーンがマクレランを信用しなかったのも無理もない。

 大胆で華やかな半島作戦は、1862年3月に始動した。北軍はじわじわと半島を北西 ― リッチモンド方向へと攻めのぼったが、その間の南軍の抵抗も粘り強く、騎兵の機動性を利用した情報収集にも長けていた。しかもリーは保塁や塹壕設置を進めていた。この地味で辛い作業は兵士たちには不評だったし、マクレランのような華やかな作戦でもない。しかし、これがリッチモンドを守り、夏にはマクレランの半島作戦を結局失敗に終わらせた。
 防戦側の南軍も北軍とおなじくらいの損害を被ったが、マクレランは当初の派手な目標,リッチモンド奪取を果たせず、結局この作戦は失敗と見なさざるを得なかったのだ。

 マクレランの負け惜しみはかなりのもので、リンカーンと戦争省長官が「失敗させた」などと発言している。
 しかし、この時のリンカーンは、マクレランから北軍総司令官の肩書を外しただけで、主力ポトマック軍司令官の任は解かなかった。むろん、リンカーンはマクレランに不満足だったが、彼に代る司令官も見当たらなかった。
 しかも、マクレランには絶大な人気があった。若く、容姿の優れた彼は軍隊形成においては優秀な将軍だったし、派手な作戦計画が好意的にとらえられていた。
 リンカーンには、マクレランでは勝ち切れないことが分かっていた。それでも、英雄マクレランを、解任できなかった。大統領は、1862年暮れまで我慢することになる。

 マクレランの絶大な人気を証明するのが、彼を賞賛する歌の存在だ。
 こちらのページにまとめられている、南北戦争関係の曲目リストを見るだけでも、「勇気あるマクレランの仲間になろうぜ!」「誇り高きマクレラン」「勇気あるマクレランこそ、我らがリーダー」「マクレランのセレナード」などなど、6曲も見つけることができる。

 さて、これらの曲の中から、[ Brave McClellan Is Our Leader Now (Glory Hallelujah!)] を聴いてもらいたい。(右クリックで開く。要Media Player)

 誰もが知っている、「あの曲」だ。しかし、どの歌詞で歌うかは、人それぞれだろう…

(つづく)