マナサス / マナッサス2008/09/18 22:50



 音楽ファンなら、Manassasを「マナサス」と読み、スティーヴン・スティルスを思い浮かべるだろう。
 一方、「マナッサス」と読んで同時に「ブルラン」という言葉を思い浮かべるのは、歴史好き ― 特に南北戦争に詳しい人ということになるだろうか。

 南北戦争開戦当時、北部連邦の人びとは ― おそらくリンカーンも含めて ― この戦争は短期で決すると楽観していた。何せ、南部連合の首都リッチモンドはワシントンから160kmしか離れていない。さらにワシントン眼前のポトマック川を渡れば、そこはもう南部連合に属するヴァージニア州なのだ(コロンビア特別区が作られたとき、ヴァージニア州側のアレクサンドリアも特別区になったが、1847年ヴァージニア州に返還されている)。
 北部の人々は、ちょっと川を渡って南軍を追い散らせば、簡単にリッチモンドを落とし、戦争は終わると考えていた。現に、ウェスト・ヴァージニアでは、マクレランが簡単に南軍をアパラチア山脈の東側に追いやってしまったではないか(「テンチ家の兄弟(その4)」参照)。

 北ヴァージニアの南軍22000は、川を挟んでワシントンからたったの48kmに位置する、マナッサスに駐屯していた。三つの鉄道が交わるマナッサス・ジャンクションがある町だ。線路の北側には、ブルラン川(「牛が駆け回るところ」という意味)が流れている。
 この頃の鉄道はその後引き継がれて今日に至るが、アムトラックを例に取るとマナッサスの東隣の駅がアレクサンドリア、そのまた次が川を隔てたワシントンDCだ。いかに連邦の首都に近かったが分かる。
 マナッサスの南軍を率いていたのは、ピエール・ギュスターヴ・トゥータン・ボーレガード准将。ファースト・ネームは殆ど使われない。P.G.T.ボーレガードで有名な彼は、戦争の発端となったサムター要塞攻撃を行った人物でもある。

 一方、北部連邦のポトマック軍35000(川の名前から取られた名称で、ワシントン・リッチモンドをめぐる戦いの主戦力となった)を率いるのは、アーヴィン・マクダウェル准将。ウェストポイント(陸軍士官学校)では、ボーレガードの同級生だった。
 人数は北軍が圧倒していたが、南軍にもシェナンドア渓谷(アパラチア山脈北東部麓の渓谷)から、ジョセフ・ジョンストン准将が10000あまりを率いて援軍に駆けつけようとしていた。北軍はこの援軍を阻止しようとしたが、失敗している。

 1861年7月21日、両軍はマナッサス郊外ブルラン川流域で激突した。戦闘開始当初は、数で勝る北軍が優勢だった。
 しかし、南軍にはジョンストンの軍勢が鉄道でマナッサスの戦場に到着しつつあった。その中にトマス・ジャクソン准将が率いる師団が含まれている。
 ジャクソンはブルラン川南岸のヘンリー・ハウス・ヒルに陣取った。優勢だった北軍に押されて、南軍は壊乱寸前だったが、ジャクソンは一歩も引かない覚悟だった。その様子が「石の壁」の如くで、ジャクソンは「ストーンウォール・ジャクソン」の名で知られるようになる。
 ジャクソンは、耐えに耐えたのちに発砲,突撃命令をするときに、「叫び声をあげて突撃せよ」と指示した。これが、ヤンキーたち(北軍兵士)を震え上がらせる、Rebel’s yell(反逆者たちの叫び)である。

 南軍の将ボーリガードはほとんど行き当たりばったりの戦闘続きだったが、数で勝るはずの北軍を食い止めるという意味では、上手くいっていた。
 一方、北軍の将マクダウェルは、これと言って妙案を持っていたわけではないが、とりあえず数という優位点を生かすべく、陣形の立て直しを試みた。そのためには、「戦略的」な撤退が必要である。ところが、北軍は(南軍もおなじようなものだが)まだ十分な訓練のできていない、半分素人の集団だった。いったん退くとなると、歯止めが利かない。北軍は負けていたわけでもないのに恐怖に駆られ、一斉になだれを打つように潰走を始めた。
 彼らは、さんざんな有様でワシントンに逃げ帰ってきた。南軍のボーリガードにしろ、ジョンストンにしろ、逃げる敵をワシントンまで追うこともできたかも知れない。しかし、それをしなかった。戦いの前半の劣勢から、南軍は立ち直りきっていなかったのである(死傷者約2000)。
 いまにも反逆者たちが首都に乗り込んでくると震え上がっていたワシントンも、とりあえず安堵した。

 南北戦争には、この手の「詰めの甘さ」が何度も見られる。特に北軍に顕著で、徹底的な勝利で相手を撃滅するという勝ち方を、本気で目指した将軍が少なかったのである。文民であるリンカーンの方が、よほどそのことの重要性を理解していた。
 南軍はむしろ、北部連邦を撃滅せずとも、自分たちの独立さえ認めてくれれば良いわけで、名将として名を馳せるロバート・E・リーなどもそのあたりを狙っていた。徹底的に勝つ事を目指す将官が必要なのは北軍であり、リンカーンだった。
 徹底的に勝つどころか、3000にものぼる死傷者を出して、逃げかえってきたマクドウェルを、リンカーンはポトマック軍司令官から解任した。こののち、リンカーンは― 常識では考えられないことだが ― 満足に仕事をしない司令官の解任,任命を繰り返すことになる。

 ところで当時マナッサスに、ウィルマー・マクリーンという人物が住んでいた。彼はブルラン川周辺に農場を持っていた。ここが戦いの舞台となってしまい、マクリーンは非常に迷惑した。彼は引っ越しを考えるようになる。
 ところが、引っ越しをする前に、彼の農場は再び人殺しの舞台となるのだ。このため、1861年7月の戦いは北軍で「第一次ブルランの戦い」,南軍で「第一次マナッサスの戦い」と呼ぶ。
 どうやら、北軍は戦場周辺の地形的特徴(山や川)の名前を採用するのに対し、南軍は近くの町の名前をとる傾向にあるようだ。
 「ブルラン」と、「マナッサス」。私には、「マナッサス」の方が魅力的な響きに思える。

 「第一次ブルラン / マナッサスの戦い」から111年後の12月。Manassasの駅で、スティーヴン・ステイルスはまだ名無しのバンドだった仲間と共に、写真撮影をした。彼もこの町の名前の響きに、何か感じるものがあったのではないだろうか。

コメント

_ (未記入) ― 2008/09/19 20:02

ぶちさん、歴史好きなんですね。
私は、日本史は大好きなんですが世界史初めとする諸外国の
歴史には勉強してこなかったのでとても疎いです。

それはそうと、偶然マナサス、実は昨日の寝る前に聴きました。
ご紹介のアルバムではなく、セカンドの方ですけどね。
3日前に中古のアナログ盤をゲットしてきたばかりだったんです。

スティルスはソロアルバムで確認できるだけで5種類のアメフトジャージを着ています。
かなりのアメフトファンだと思いますので当然今年のスーパー・ボウルもどこかで観ていたと思います。
アメフトも頭と身体を使った陣取り合戦なので、歴史上の戦や天下統一ととても通じるものがあります。

アメフトのフォーメーションを観ると騎馬戦のようでもあります。

_ NI ぶち ― 2008/09/20 00:46

>未記入さん
コメントありがとうございます!ええ、歴史はかなり好きです。音大がダメだったら、史学科に行きたかったくらいです。
読書は歴史が多いです。(音楽の本はあまり読まない…(焦)ただ、「ボブ・ディラン自伝」を読んだとき、自分がアメリカ史をあまりにも知らな過ぎると自覚し、そこから、南北戦争にも興味が及び、さらにベンモントのひいおじいちゃんが加わった…という感じです。)
マナッサスの戦いは、テンチ家の兄弟は参加していないので、記事にしなくてもよかったのですが…やはり、スティーヴン・スティルス/マナサスの存在は重要ですからね!

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの制作者名最初のアルファベット半角大文字2文字は?

コメント:

トラックバック