テンチ家の兄弟(その3)2008/09/07 01:09

 職場で、ある人がアメリカ出張から帰ってきたというので、どの町に行ったのかと尋ねると、リッチモンドという答えだった。
 「ああ南北戦争の時、南部連合の首都だったところですよね。」
 私が言うと、その人は驚いた。
「ええ?すごい北だよ?」

 私もヴァージニア州リッチモンドの位置を最初に確認したときは、少し驚いた。

 アメリカ東海岸の州の位置を、NYCのあるニュー・ヨーク州から南に向かって確認してみる。
 まず、ニュー・ジャージー州,その西内陸に大きくペンシルベニア州,沿岸には小さなデラウェア州。そして複雑な形をしたチョサピーク湾を抱くように、メリーランド州が位置するが、その南の州境にポトマック川が流れており、その北岸の一部にワシントンD.Cが位置する。言うまでもなく、どの州にも属さないアメリカ合衆国の首都であり、南北分裂の時も、北部合衆国のそれであり続けた。
 ポトマック川の南側が、南部連合に属したヴァージニア州である。リッチモンドはヴァージニア州の州都で、ワシントンD.Cとの距離は南北160km。これは東京から静岡県の焼津まで程度の距離。南北戦争の東部戦線は、この至近距離に位置する二つの首都の周囲で展開することになる。
 ヴァージニア州以南は、大きな州が並ぶ。ノース・カロライナ,サウス・カロライナ。そしてひときわ大きなジョージア州には、アトランタやテンチ家の街ニューナンがある。その南にフロリダ州,西にアラバマ州と位置する。

 南北戦争開戦の時期、リンカーンの大統領就任の前に、すでに連邦からの脱退を表明していた州もあれば、州内の意見がまとまらず、ぎりぎりまで迷っていた州もある。後者は必然的に北部に近い方だった。
 ヴァージニア州がまさにそうだった。ヴァージニア州が連邦からの脱退を正式に表明したのは、1861年4月17日。すでにサムター要塞で戦闘が開始された後だった。南部連合はそれよりも先にデイヴィスを南部連合大統領に選出し、リッチモンドを首都に定めたのにもかかわらず、その首都のある州の正式脱退宣言が遅れたのには、事情がある。
 もともと、ヴァージニア州は東西に幅がある。そして、巨大なアパラチア山脈の山並みが、この州を東西に分断しており、建国当時から入植者の故郷にも東西で違いがあった。
 さらに、東側は平原でノース・カロライナ州と接しており、南部的な奴隷制度をとる社会構造を保持していた。
 一方、西側は山間部で石炭の産地であり、さらに西北を流れるオハイオ川の水運により、北部の工業地域とのつながりが強く、奴隷制度を廃止する北部的な社会構造に傾いていた。

 ヴァージニア州東部の州政府は連邦離脱を当然としたが、山脈の西側ウェスト・ヴァージニアの郡はこれに強く反発した。両者の亀裂は、ウェスト・ヴァージニア諸郡が北部ホイーリングを州都に定め、Kanawa州として独立すると宣言するにいたった。
 ヴァージニア州政府にと、南部連合にとって、これは重大なことだった。もしアパラチア山脈の間道を西側から封鎖されたら、西からの補給路を断たれてしまう。さらに、その奥に位置するオハイオ川という大きな水路を使うことができなくなってしまう。

 ウェスト・ヴァージニアの独立と北部連邦残留を阻止するべく、ヴァージニア州政府はジョージ・ポーターフィールド大佐と1000人ほどの軍勢をウェスト・ヴァージニアに派遣した。
 一方、北部連邦はオハイオ軍司令官ジョージ・マクレラン少将がこれに対する軍勢を、率いることとなった。

 この、アパラチア山脈をはさんだウェスト・ヴァージニアをめぐる一連の戦闘が、「ウェスト・ヴァージニア作戦」と呼ばれるものだ。
 作戦の本筋に入るまえに、長々と説明を要したのだが、歴史というものは大体そんなものだ。しかも、南北戦争全体においてこの作戦は、「大した重要性はない」などと、書かれる始末。
 しかし、「ウェスト・ヴァージニア作戦」は、少なくとも三つの意味で非常に重要だった。
 まず第一に、この戦闘の結果ウェスト・ヴァージニアはヴァージニア州から分離した別の州となり、二度と一緒になることなしに今日に至ったこと。
 第二に、「さして重要ではない」この作戦が、北軍最大の謎の存在であるジョージ・マクレランを世に知らしめたこと。

 第三に ― これが私にとって最大のポイントだが ― この戦闘で、テンチ家の兄弟の一人,三男ジェイムズが戦死したことである。

(つづく)