アトランタへの道2012/04/29 23:37

1863年11月末、西部戦線では、その後の戦況を決定付けるような戦いが行われた。すなわち、チャタヌーガの戦いである。
 南軍はこの敗戦によって、テネシー州とアトランタ州の州境を守りきることができず、北軍のアトランタへの進軍を許すことになった。
 アトランタ。ジョージア州の州都であり、南部最大の都市。この街を守るか落とすかは、実際の戦況のみならず、人々の心情的にも大きな影響をもたらす。

 しかし、冬の間は、戦闘も一時休戦となった。南北両軍とも、戦力,兵站の整備・補給が必要だったし、人事異動もあったためだろう。

 まず、北軍は西部戦線の事実上の総大将であったユリシーズ・グラントが、北軍全体の現場総司令官のような形で中将に昇進し、東部戦線でリーの南軍と対峙することになった。
 グラントの代わりに西部戦線北軍司令官となったのが、ウィリアム・テクムセ・シャーマン准将である。グラントとは強い信頼関係にあった。双方ともリーのような隙の無い、傑出した司令官ではなかったが、互いに助け合い、なんとか北軍有利に持ってゆく ― 政情的にも、軍事力,経済力的にも北軍有利は当たり前だが ― という、消極的なようで、確実な歩みを進めるタイプだった。
 グラントは、シャーマンに三つの軍団を預け、南軍との決定的な会戦は避けつつ、じりじりとアトランタへ迫る戦略を任せた。実際、チャタヌーガからアトランタまでは200kmほど。どこかで関ヶ原のような決戦を行う必要はなく、とにかくアトランタを落とすことに、まずは重点が置かれた。
 シャーマンという将軍は、不思議な印象を抱かせる。"War is Hell.(戦争は地獄だ)"という、簡潔で、殺し合いそのものを嫌うという思想を実に分かり易い言葉で表現する一方で、南部における進軍の様子ゆえに、南部の一部の人々からはひどく嫌悪されている。また、南北戦争後のネイティブ・アメリカンたちとの戦いでは、まさか嫌戦家とは信じられないような、強硬ぶりなのだ。
 当方は二十一世紀を生き、歴史を遠くから眺めているからこそ、そういうシャーマンの矛盾を不思議に思うのだが、かといって、簡単に彼を悪役にしてしまっては、歴史は面白くなくなる。シャーマンの存在は、歴史を楽しむという知的作業こそ、非常に複雑で、知識と想像力を必要とし、冷静で客観的な視線を持つ娯楽なのだと、考えさせる。

 やや話がわき道に逸れたが ― 一方、南軍側も大きな人事異動があった。
 それまでずっと西部戦線の南部総司令官をつとめていたブラクストン・ブラッグは、南部連合大統領デイヴィスと個人的に親しかったから故に、その地位にあるともっぱら言われ続けていた。実際、そうなのだろう。
 しかし、チャタヌーガの敗戦によって、デイヴィスもブラッグを更迭せざるを得なくなった。代わりに、司令官となったのが、ジョゼフ・ジョンストンである。
 ジョンストンは南北戦争開戦当初は、東部戦線でロバート・E・リーより前に総司令官的な地位にいた人物である。しかし1862年の北軍マクレランによる半島作戦で負傷したため、後送され、その後をリーが継ぐことになった。その後のリーの活躍は既にのべた通りだ。
 ジョンストンは傷を癒やした後、前線に戻ることを希望していたが、デイヴィス大統領との人現関係が良好ではなかった。デイヴィスにはそういう個人的な感情がそのまま政策に反映されてしまうという大きな欠点があった。このため、ジョンストンはしばらく西部戦線の上級司令官同士の調整役といった、閑職にあった。
 ブラッグの更迭により、ジョンストンは1863年冬から、西部戦線司令官となった。その後のアトランタ方面作戦において、彼の地位は二転三転するのだが、重要なのは、ジョンストンが南北戦争の最終盤まで、北軍に対し続けた将軍だということだ。彼が降伏するのは、リーよりも後のこと。それはいずれ述べるとして ― 

 とにかく、アトランタ方面作戦は、1864年5月に始動する。それから約3ヶ月。その夏は熱気がアトランタへと向かうが如き、戦況を示すことになる。

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