涙の道 ― 2009/06/03 22:40
「ツアーに出ている間、マイクが僕にくれた、デュアン・オールマンの伝記を読んでいたんだ。」
去年10月、トム・ペティがインタビューでそう言ったのを読むや否や、さっそく同じ本を購入した。買っただけで満足し、ずっと放ってあったのだが、今日やっと読み始めた。
オールマン兄弟についてはアルバムは聞くけど、あまり知識がなかったので、いちいち驚いたり感心したりしている。オールマン兄弟が二人とも左利ききだったとは、知らなかった(ギターは右利き仕様で弾いている)。
一番驚いたのは、読み始めて間もなく、兄弟の父親が撃ち殺されてしまったことだ。
トム・ペティのロング・インタビュー本「カンバセーション・ウィズ・トム・ペティ」の冒頭もショッキングだった。
インタビュアー:「あなたのお祖父さんが、フロリダへ向かおうとする自分と家族を阻もうとした男を、ジョージアで殺したという噂は本当ですか?」
トムが言うには、本当らしい。彼も40歳を過ぎてから知ったとのこと。
ジョージア州の木材切り出し場で働いていた白人男性のペティ氏は、職場の料理人をしていたチェロキー族の女性と結婚し、フロリダ州へ移住しようとした。しかし、白人男性がチェロキー族の女性を連れていることで、旅の途上数人の男との暴力沙汰になったと言うのだ。
チェロキー族は北米大陸南東部に多く居住していた先住民族で、アメリカにやってきたヨーロッパ出身勢力との、壮絶な戦いを繰り広げた。
18世紀、ジョージア州で金が発見されると、チェロキー達はその土地を取り上げられ、抵抗も虚しく、はるか西,現在のオクラホマ州への移住を強いられた。1838年の強制移住では、およそ15000人のチェロキーたちのうち、4000人が旅の途上で病で亡くなったと言う。
この悲劇の旅路はのちに「涙の道」と呼ばれるようになり、チェロキー以外の部族に課せられた強制移住の悲劇にも、この言葉が使われている。
チェロキーの人々は旅のあいだ、「アメイジング・グレイス Amazing Grace」を歌い、悲劇に見舞われた自らを鼓舞した。この曲はもちろん、キリスト教の賛美歌だが、強制移住よりも前にチェロキーたちの言葉に訳されて、愛唱されていたのだ。
今では、「涙の道」を語るとき、「アメイジング・グレイス」は欠かせない存在になっている。
私にとっての「アメイジング・グレイス」は、ロッド・スチュワートや、ザ・バーズのライブ・バージョンなどもあるが、一番はこれ。1988年、当時まだ収監されていたネルソン・マンデラの70歳の誕生日に捧げられたコンサートでの、ジェシー・ノーマンである。
ノーマンは、ポップ・ロック・アーチストや、コメディアン、俳優などが続々と現れたステージの、最後に登場した。この、圧倒的な存在感。音楽ジャンルが、やれロックだ、ポップスだ、クラシックだと言うのが、ばかばかしくなるほどの、凄まじい歌唱力。
最後の歌詞は、「自由よ…」に変えてある。
チェロキーの一部には、私有地を持っていたごく少数の者や、兵士の強制力から逃れた者たちがおり、ジョージア州にとどまることになった。トム・ペティの祖母がそういったチェロキー族の子孫かどうかについては、「カントム」では言及されていない。
「テンチ家の兄弟」でも言及しているが、ベンモント・テンチの曽祖父もジョージア州(ニューナン)から、南北戦争後にフロリダ州ゲインズヴィルに移住してきた。
ペティ家とテンチ家のルーツ。その境遇はかなり異なるようだが、奇妙な共通点があるところに、興味をひかれる。
去年10月、トム・ペティがインタビューでそう言ったのを読むや否や、さっそく同じ本を購入した。買っただけで満足し、ずっと放ってあったのだが、今日やっと読み始めた。
オールマン兄弟についてはアルバムは聞くけど、あまり知識がなかったので、いちいち驚いたり感心したりしている。オールマン兄弟が二人とも左利ききだったとは、知らなかった(ギターは右利き仕様で弾いている)。
一番驚いたのは、読み始めて間もなく、兄弟の父親が撃ち殺されてしまったことだ。
トム・ペティのロング・インタビュー本「カンバセーション・ウィズ・トム・ペティ」の冒頭もショッキングだった。
インタビュアー:「あなたのお祖父さんが、フロリダへ向かおうとする自分と家族を阻もうとした男を、ジョージアで殺したという噂は本当ですか?」
トムが言うには、本当らしい。彼も40歳を過ぎてから知ったとのこと。
ジョージア州の木材切り出し場で働いていた白人男性のペティ氏は、職場の料理人をしていたチェロキー族の女性と結婚し、フロリダ州へ移住しようとした。しかし、白人男性がチェロキー族の女性を連れていることで、旅の途上数人の男との暴力沙汰になったと言うのだ。
チェロキー族は北米大陸南東部に多く居住していた先住民族で、アメリカにやってきたヨーロッパ出身勢力との、壮絶な戦いを繰り広げた。
18世紀、ジョージア州で金が発見されると、チェロキー達はその土地を取り上げられ、抵抗も虚しく、はるか西,現在のオクラホマ州への移住を強いられた。1838年の強制移住では、およそ15000人のチェロキーたちのうち、4000人が旅の途上で病で亡くなったと言う。
この悲劇の旅路はのちに「涙の道」と呼ばれるようになり、チェロキー以外の部族に課せられた強制移住の悲劇にも、この言葉が使われている。
チェロキーの人々は旅のあいだ、「アメイジング・グレイス Amazing Grace」を歌い、悲劇に見舞われた自らを鼓舞した。この曲はもちろん、キリスト教の賛美歌だが、強制移住よりも前にチェロキーたちの言葉に訳されて、愛唱されていたのだ。
今では、「涙の道」を語るとき、「アメイジング・グレイス」は欠かせない存在になっている。
私にとっての「アメイジング・グレイス」は、ロッド・スチュワートや、ザ・バーズのライブ・バージョンなどもあるが、一番はこれ。1988年、当時まだ収監されていたネルソン・マンデラの70歳の誕生日に捧げられたコンサートでの、ジェシー・ノーマンである。
ノーマンは、ポップ・ロック・アーチストや、コメディアン、俳優などが続々と現れたステージの、最後に登場した。この、圧倒的な存在感。音楽ジャンルが、やれロックだ、ポップスだ、クラシックだと言うのが、ばかばかしくなるほどの、凄まじい歌唱力。
最後の歌詞は、「自由よ…」に変えてある。
チェロキーの一部には、私有地を持っていたごく少数の者や、兵士の強制力から逃れた者たちがおり、ジョージア州にとどまることになった。トム・ペティの祖母がそういったチェロキー族の子孫かどうかについては、「カントム」では言及されていない。
「テンチ家の兄弟」でも言及しているが、ベンモント・テンチの曽祖父もジョージア州(ニューナン)から、南北戦争後にフロリダ州ゲインズヴィルに移住してきた。
ペティ家とテンチ家のルーツ。その境遇はかなり異なるようだが、奇妙な共通点があるところに、興味をひかれる。
音楽の見方は様々だ ― 2009/06/07 01:03
ザ・バーズつながりで、クロスビー,スティルス&ナッシュも、最近よく聞いている。
やはりハーモニーは美しい方が良い。ハーモニーの美しさに依存し過ぎる軟弱な音楽(*注)になると、私の好みからは外れるが、やはり程よく絶妙にハーモニーを効かせることができるグループは強い。結局、音程は悪いよりは、正確な方が良いものだ。
"Teach your children" は1970年,ニール・ヤングが加わったアルバム[ Deja vu ] に収録されているが、この映像ではCS&Nの三人が味わい深く、しかも精緻に聞かせてくれる。
良いねぇ、良いねぇ…という普通の感想で終わるのかと思いきや、最後に思いがけないものが出現した。
音楽の見方は様々だ
なんだ、この日本語は?!しかも漢字の割合が多すぎる!
YouTubeにアップした人の解説によると、この演奏は1977年の物とのこと。つまり、アルバム[CS&N] の頃ということになる。それも別に謎の字幕を解明してはいない。
どうもアンソロジー系のドキュメンタリーの一部を切り取ったかのように見えるので、なおさら気になる。バーズと、それに連なる面々の詳しいヒストリー作品があったら、今すぐにでも買うのだが。
*注 軟弱な音楽:学生時代に、仲間内でよく使われた言葉。文字通りの意味。必ずしも悪口とは限らない。
やはりハーモニーは美しい方が良い。ハーモニーの美しさに依存し過ぎる軟弱な音楽(*注)になると、私の好みからは外れるが、やはり程よく絶妙にハーモニーを効かせることができるグループは強い。結局、音程は悪いよりは、正確な方が良いものだ。
"Teach your children" は1970年,ニール・ヤングが加わったアルバム[ Deja vu ] に収録されているが、この映像ではCS&Nの三人が味わい深く、しかも精緻に聞かせてくれる。
良いねぇ、良いねぇ…という普通の感想で終わるのかと思いきや、最後に思いがけないものが出現した。
音楽の見方は様々だ
なんだ、この日本語は?!しかも漢字の割合が多すぎる!
YouTubeにアップした人の解説によると、この演奏は1977年の物とのこと。つまり、アルバム[CS&N] の頃ということになる。それも別に謎の字幕を解明してはいない。
どうもアンソロジー系のドキュメンタリーの一部を切り取ったかのように見えるので、なおさら気になる。バーズと、それに連なる面々の詳しいヒストリー作品があったら、今すぐにでも買うのだが。
*注 軟弱な音楽:学生時代に、仲間内でよく使われた言葉。文字通りの意味。必ずしも悪口とは限らない。
歯の問題 ― 2009/06/09 23:33
デュアン・オールマンの伝記、[SKYDOG -The Duane Allman Story-] を読み進んでいるが、英語なので日本語読書の数倍、時間がかかる。すなわち、1冊で長持ちするのだから経済的だ。
ナッシュビルに生まれ、父親の死後はフロリダ州デイトナビーチで育った、デュアンとグレッッグ・オールマン兄弟。1964年にビートルズがやってくると、ご多分にもれず「その道」を目指し、高校や地元の仲間を集めてバンドを組んだ。やがて彼らのバンド,ジ・オールマン・ジョイズは本格的にプロを目指すにあたり、ドラマーをメイナード・ポートウッドから、ビル・コンネルに交代させることになる ―
1966年までには、グレッグがカレッジには進まないであろうことが、明白になろうとしていた。1965年の秋、デュアンは弟に、来年はオールマン・ジョイズに打ち込むよう、説得していたのだ。渋々ではあるが、グレッグは歯医者になるという目標を、ひとまず棚上げすることに同意した。
グレッグが歯科に進まないにしても、デュアンたちはもはや看過することの許されない、歯の問題に直面することになった。デュアンは、より音楽的に優れているからという理由では無しに、(ビル・)コンネルを呼び寄せた。実のところ、マシな歯をしたドラマ―が必要だったのだ。
「メイナード(・ポートウッド)は、まったく歯がなくなっていた。」コンネルは言う。「腐ったか何かで、一本も残っていなかった。デュアンとグレッグは、メイナードに500か600ドルやって、歯を直しに行かせた。でも、メイナードはそれを他の何かに使ってしまう。そんなわけで、『よぉし分かった。俺達は歯の無い奴とビートルズをやるなんて、無理だからな』ってことになった。それで、連中はメイナードを追い出し、俺を呼び寄せたんだ。俺が雇われたのは、そういう訳。歯が良かったから。プレイもOKだったんだろうけど。」(SKYDOG the Duane Allman Story by Randy Poe / 3. The Allman Joys)
人をバンドに引き込んで、進学をあきらめさせるフロリダの金髪男は二人目だ…。
500か、600ドルを用意してやるオールマン兄弟と、それが水泡に帰する悲しさに思わず笑ってしまったが、良く考えてみれば、あの兄弟だって容姿の面において、ビートルズの域に達しているとは言い難いじゃないか。つくづく、ビートルズは罪作りだと思う。ただでさえ凄まじい音楽性なのに、メンバー全員があれだけの容姿をしているのだから ― 結局、その点においてビートルズに比肩し得たバンドは出現しなかったのではないだろうか。
歯に問題のあるミュージシャンで、真っ先に思いつくのはザ・ポーグズのリーダー、シェイン・マクガウアン。80年代はまだ数本の歯が残っていたが、21世紀にはすっかり失われてしまった。
それがつい最近、休暇がてらに総インプラントを敢行したそうだ。この期に及んで、ずらりと口の中に歯を保持するというのは、どんな気分なのだろうか?
ザ・ポーグスと言えば、世紀の名曲 "Fairytale of New York"。ライブの映像もあるが、あまりにもシェインの歯(の無さ)が強烈で、集中できないので、音だけのアイテムを張り付ける。クリスマス・ソングなので季節外れだが、とにかく素晴らしい。
ボーカルがフューチャーされている、クリスティン・マッコールは2000年に事故で亡くなっている。
ナッシュビルに生まれ、父親の死後はフロリダ州デイトナビーチで育った、デュアンとグレッッグ・オールマン兄弟。1964年にビートルズがやってくると、ご多分にもれず「その道」を目指し、高校や地元の仲間を集めてバンドを組んだ。やがて彼らのバンド,ジ・オールマン・ジョイズは本格的にプロを目指すにあたり、ドラマーをメイナード・ポートウッドから、ビル・コンネルに交代させることになる ―
1966年までには、グレッグがカレッジには進まないであろうことが、明白になろうとしていた。1965年の秋、デュアンは弟に、来年はオールマン・ジョイズに打ち込むよう、説得していたのだ。渋々ではあるが、グレッグは歯医者になるという目標を、ひとまず棚上げすることに同意した。
グレッグが歯科に進まないにしても、デュアンたちはもはや看過することの許されない、歯の問題に直面することになった。デュアンは、より音楽的に優れているからという理由では無しに、(ビル・)コンネルを呼び寄せた。実のところ、マシな歯をしたドラマ―が必要だったのだ。
「メイナード(・ポートウッド)は、まったく歯がなくなっていた。」コンネルは言う。「腐ったか何かで、一本も残っていなかった。デュアンとグレッグは、メイナードに500か600ドルやって、歯を直しに行かせた。でも、メイナードはそれを他の何かに使ってしまう。そんなわけで、『よぉし分かった。俺達は歯の無い奴とビートルズをやるなんて、無理だからな』ってことになった。それで、連中はメイナードを追い出し、俺を呼び寄せたんだ。俺が雇われたのは、そういう訳。歯が良かったから。プレイもOKだったんだろうけど。」(SKYDOG the Duane Allman Story by Randy Poe / 3. The Allman Joys)
人をバンドに引き込んで、進学をあきらめさせるフロリダの金髪男は二人目だ…。
500か、600ドルを用意してやるオールマン兄弟と、それが水泡に帰する悲しさに思わず笑ってしまったが、良く考えてみれば、あの兄弟だって容姿の面において、ビートルズの域に達しているとは言い難いじゃないか。つくづく、ビートルズは罪作りだと思う。ただでさえ凄まじい音楽性なのに、メンバー全員があれだけの容姿をしているのだから ― 結局、その点においてビートルズに比肩し得たバンドは出現しなかったのではないだろうか。
歯に問題のあるミュージシャンで、真っ先に思いつくのはザ・ポーグズのリーダー、シェイン・マクガウアン。80年代はまだ数本の歯が残っていたが、21世紀にはすっかり失われてしまった。
それがつい最近、休暇がてらに総インプラントを敢行したそうだ。この期に及んで、ずらりと口の中に歯を保持するというのは、どんな気分なのだろうか?
ザ・ポーグスと言えば、世紀の名曲 "Fairytale of New York"。ライブの映像もあるが、あまりにもシェインの歯(の無さ)が強烈で、集中できないので、音だけのアイテムを張り付ける。クリスマス・ソングなので季節外れだが、とにかく素晴らしい。
ボーカルがフューチャーされている、クリスティン・マッコールは2000年に事故で亡くなっている。
The Big Three ― 2009/06/12 23:55
トム・ペティと、マイク・キャンベル、ベンモント・テンチの三人が、5月にオールマン・ブラザーズ・バンドにゲスト出演したとのこと。デュアン・オールマンの伝記を読みつつ、ジョージ断ちをしている身としては、至れり尽くせりのシチュエーションで、極めて嬉しい。
この映像はオーディエンスの撮影だが、楽しそうな雰囲気は伝わる
もうすぐ出会って40年にもなる人たちに(トムさんとベンモントはそれ以上か)今更こう言うのもなんだが…あんたら、仲良しねぇ。オフは別行動じゃないの?
デュアン・オールマンは1946年に生まれ、1971年に亡くなるわけだが、オールマン・ブラザーズ・バンドのデビュー,1969年は、伝記の真ん中に位置する。
ABBがファースト・アルバムを録音するにあたって、当初はトム・ダウドがプロデュースをする予定だった。しかし、ダウドは超売れっ子であり、多忙を極めている。そこでダウドは、自分の信頼する同僚を推薦してきた。名前を、エイドリアン・バーバー(Adrian barber)という。 バーバーについて、デュアンの伝記ではこう説明している。
Adrian Barber had been a member of the Big Three, a late-1950s / early 1960s Liverpool band managed by Brian Epstein.
私は読んだその瞬間、とっさには意味がつかめなかった。下手にリヴァプールだの、ブライアン・エプスタインだの言う、お馴 染みの単語があるのが、邪魔なのだ。The Big Threeが、バンドの名前であることに気付くのに、多少時間がかかった。
エイドリアン・バーバーは、1950年代末にザ・ビッグ・スリーの原型が結成された時の、オリジナルメンバーで、リードギターを担当していた。当時の貧弱なパワーのアンプを山と積み重ね、凄まじい大爆音を出していたらしい。なかなか面白い男だが、バンドがブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結ぶ前に脱退している。
その後バーバーはアメリカに渡り、演奏するよりも機械をいじくりまわすほうが向いていることに気づき、やがてダウドのもとでエンジニアを務めることになった。ABBのファーストアルバムには、エンジニア兼プロデューサーとして関わった。
一方、バーバーが抜けた後のザ・ビッグ・スリーは、ブライアン・エプスタインをマネージャーとし、デッカからレコード・デビューした。実のところ、あまりパッとしないバンドだが、ビートルズをオーディションで落としてしまったデッカとしては、無理をしたくなる気分だったのだろうか。
ともあれ、ザ・ビッグ・スリーの代表作は、1963年のシングル、"Some othe guy" ということになっている。この曲は何と言っても、ビートルズのライブ・パフォーマンスが有名だが。
エプスタインとの契約は63年には早くも解消され、翌年バンドは空中分解した。
この映像はオーディエンスの撮影だが、楽しそうな雰囲気は伝わる
もうすぐ出会って40年にもなる人たちに(トムさんとベンモントはそれ以上か)今更こう言うのもなんだが…あんたら、仲良しねぇ。オフは別行動じゃないの?
デュアン・オールマンは1946年に生まれ、1971年に亡くなるわけだが、オールマン・ブラザーズ・バンドのデビュー,1969年は、伝記の真ん中に位置する。
ABBがファースト・アルバムを録音するにあたって、当初はトム・ダウドがプロデュースをする予定だった。しかし、ダウドは超売れっ子であり、多忙を極めている。そこでダウドは、自分の信頼する同僚を推薦してきた。名前を、エイドリアン・バーバー(Adrian barber)という。 バーバーについて、デュアンの伝記ではこう説明している。
Adrian Barber had been a member of the Big Three, a late-1950s / early 1960s Liverpool band managed by Brian Epstein.
私は読んだその瞬間、とっさには意味がつかめなかった。下手にリヴァプールだの、ブライアン・エプスタインだの言う、お馴 染みの単語があるのが、邪魔なのだ。The Big Threeが、バンドの名前であることに気付くのに、多少時間がかかった。
エイドリアン・バーバーは、1950年代末にザ・ビッグ・スリーの原型が結成された時の、オリジナルメンバーで、リードギターを担当していた。当時の貧弱なパワーのアンプを山と積み重ね、凄まじい大爆音を出していたらしい。なかなか面白い男だが、バンドがブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結ぶ前に脱退している。
その後バーバーはアメリカに渡り、演奏するよりも機械をいじくりまわすほうが向いていることに気づき、やがてダウドのもとでエンジニアを務めることになった。ABBのファーストアルバムには、エンジニア兼プロデューサーとして関わった。
一方、バーバーが抜けた後のザ・ビッグ・スリーは、ブライアン・エプスタインをマネージャーとし、デッカからレコード・デビューした。実のところ、あまりパッとしないバンドだが、ビートルズをオーディションで落としてしまったデッカとしては、無理をしたくなる気分だったのだろうか。
ともあれ、ザ・ビッグ・スリーの代表作は、1963年のシングル、"Some othe guy" ということになっている。この曲は何と言っても、ビートルズのライブ・パフォーマンスが有名だが。
エプスタインとの契約は63年には早くも解消され、翌年バンドは空中分解した。
他人のそら似 ― 2009/06/14 22:22
ジョージのベスト・アルバム、[Let It Roll] の輸入版発売日が、16日に迫っている。ジョージ断ちの辛い日々、解禁も間近だ。もう少し、もう少し!
若いカントリー連中とバンドを組んだり、相変わらずセッションに励んだり、そうかと思えばオフなのにトムさん&マイクというメンツでオールマン・ブラザーズのライブに飛び入り参加したり、ベンモント・テンチは相変わらずである。
ベンモントはハンサムだ。改めて言うのもなんだが、子供のころから育ちの良さそうな可愛らしさで、それがさらに美男子に成長するあたり、まったく正統派。連続テレビドラマに登場する二枚目俳優顔とでも言うべきか。
お手本のような美男子なので、いわゆる「ハンサムな人」には、縁もゆかりもないのにベンモントに人相が似ている人がいたりする。
左はおなじみベンモント。さて、右は?

写真映りがそうさせるのだろうが、ほとんど同一人物じゃないかと思うくらい、そっくり。
右の人は、オペラ歌手のホセ・カレーラス。言わずと知れた1946年生まれのスペイン人。世界最高峰テノールだ。

小柄ながら、若いころからとてもハンサムなカレーラス。オペラのテノールの役柄はたいてい二枚目なので、実体と設定が合うという意味でも、貴重な容姿をしていた。特に1985年,メトロポリタン・オペラでの、アグネス・バルツァとの「カルメン」では、カルメンの台詞「(ドン・ホセに惚れたのは)ハンサムだからさ」が、まさにぴったりくる感じだった。
私はあまりベル・カントのテノールが好きではないが(頭の中が空洞なんじゃないかと…以下略)、カレーラスの声には独特の味があって、けっこう好き。今にも泣きそうな、微妙な影のある不思議な声をしている。どんなに訓練して、素晴らしいベル・カントのテナーになったとしても、こういう個性は真似しきれない。
1987年に白血病を患い、奇跡の生還を遂げて以来、少し声質が変わった。それ以前の若々しいハンサムくんから、味のある枯れ具合を含んだ役作りがまた良かった。今年になって、オペラは限界とのことで、リサイタル形式に集中するらしい。
私が好きなパフォーマンス。1987年のザルツブルグ,カラヤン指揮の「ドン・カルロ」から、第一幕フィナーレの二重唱(演奏形式によっては、第二幕のフィナーレ)。
ドン・カルロ=カレーラス,ポーザ侯=ピエロ・カップッチルリ(バリトン)。名高い「友情のテーマ」。カレーラスも病気で倒れる直前で、最高の声をしているし、カップッチルリにとっても、あたり役。
ちなみに、途中で通りかかる国王フィリポ二世は、私が一番好きなバス歌手,フェルッチョ・フルラネット。
若いカントリー連中とバンドを組んだり、相変わらずセッションに励んだり、そうかと思えばオフなのにトムさん&マイクというメンツでオールマン・ブラザーズのライブに飛び入り参加したり、ベンモント・テンチは相変わらずである。
ベンモントはハンサムだ。改めて言うのもなんだが、子供のころから育ちの良さそうな可愛らしさで、それがさらに美男子に成長するあたり、まったく正統派。連続テレビドラマに登場する二枚目俳優顔とでも言うべきか。
お手本のような美男子なので、いわゆる「ハンサムな人」には、縁もゆかりもないのにベンモントに人相が似ている人がいたりする。
左はおなじみベンモント。さて、右は?


写真映りがそうさせるのだろうが、ほとんど同一人物じゃないかと思うくらい、そっくり。
右の人は、オペラ歌手のホセ・カレーラス。言わずと知れた1946年生まれのスペイン人。世界最高峰テノールだ。

小柄ながら、若いころからとてもハンサムなカレーラス。オペラのテノールの役柄はたいてい二枚目なので、実体と設定が合うという意味でも、貴重な容姿をしていた。特に1985年,メトロポリタン・オペラでの、アグネス・バルツァとの「カルメン」では、カルメンの台詞「(ドン・ホセに惚れたのは)ハンサムだからさ」が、まさにぴったりくる感じだった。
私はあまりベル・カントのテノールが好きではないが(頭の中が空洞なんじゃないかと…以下略)、カレーラスの声には独特の味があって、けっこう好き。今にも泣きそうな、微妙な影のある不思議な声をしている。どんなに訓練して、素晴らしいベル・カントのテナーになったとしても、こういう個性は真似しきれない。
1987年に白血病を患い、奇跡の生還を遂げて以来、少し声質が変わった。それ以前の若々しいハンサムくんから、味のある枯れ具合を含んだ役作りがまた良かった。今年になって、オペラは限界とのことで、リサイタル形式に集中するらしい。
私が好きなパフォーマンス。1987年のザルツブルグ,カラヤン指揮の「ドン・カルロ」から、第一幕フィナーレの二重唱(演奏形式によっては、第二幕のフィナーレ)。
ドン・カルロ=カレーラス,ポーザ侯=ピエロ・カップッチルリ(バリトン)。名高い「友情のテーマ」。カレーラスも病気で倒れる直前で、最高の声をしているし、カップッチルリにとっても、あたり役。
ちなみに、途中で通りかかる国王フィリポ二世は、私が一番好きなバス歌手,フェルッチョ・フルラネット。
お前か、ウォーレン・ナントカ! ― 2009/06/17 23:24
ジョージの新しいベスト版 [Let It Roll] の入手が遅くなっている。
アメリカ版が16日発売だったが、日本のHMVはUK版待ちらしく、何度か偵察してみても現物がない。アマゾンでも予約してあるが、未だに発送の知らせも来ない。
ジョージ断ちが思いのほか長引いて、ストレスがひどい。今日はとうとう、胃がキリキリし始めた。2年前、ウィルベリーズ再販の際に、ジョージ&ディラン様&TPHB 三重断ちという自殺行為を数か月に渡って敢行した。もう少しで発売だ!…という時に、とうとう私は病に倒れ、40度の熱を出し、救急車で運ばれ、1週間入院した。そのせいで、ウィルベリーズ・ボックスの鑑賞が普通より数日遅れたのは、苦い思い出だ。
そうなってからでは遅いので、[let it roll] はiTunesで先に入手することにして、今聞いている。
おなじみの曲オンパレードのはずだが、いちいちキャーだの、ワーだのと奇声を発して大興奮している。やはり新たな気持ちで、しかも珍しい曲順で聞くのは、それなりにエキサイティングだ。しかも、これまでそう簡単には聴くことの出来なかった "I don't want to do it " や、大好きな "Isn't it a pity" のデモも入っているのだから…
しかし、感想はこれくらいにしておく。もっと聞きこんでから、しっかり書きたいし、盤や日本版を待っている人も居るだろう
ブックレットに関しては、PDFでダウンロードできる。視覚的には満足できるが、やはり現物を手に取れないのは味気ない。はっきりしているのは、どう転んでも美男子は美男子だということ。
注目のライナーノーツのライターは?…むろん、トムさんによる「ぼくのジョージ」ではないのだが、そこには見慣れた名前が。Warren Zanes....お前か!!
Warren Zanes。姓の発音がずっと疑問だった。ググってみて、「ゼインズ」という表記を発見したので、今後はそういうことにする。
彼は兄にくっついてロックな所に大分若いころから出入りし、自分もバンドの一員として、もしくはソロとして作品を発表している。しかし、今ではクリーブランドにある、ロックの殿堂のvice president of education, インタビュアー、文筆家としての活躍の方が有名だろう(博士号も持っていたりする)。
TP&HBファンにはおなじみの顔だ。ドキュメンタリー映画 [Runnin' down a dream] にも登場しているし、最近のトムさんのインタビューも行っている。「カントム」によれば、だいぶ昔からトムさんとは知り合いのようだ。
私はウォーレン・ゼインズにけっこう好意を持っている。
同じライターであるビル・フラナガンの文章は、書いてある内容は素晴らしいのだが、その表現方法が気に入らない。しかも、[ RDAD ] に出てきたときの容姿が更に気に入らない。これは「坊主憎ければ…」という次元だが。
その点ウォーレン・ゼインズは、容姿もなかなか格好良いではないか。

彼の本を読んだことはないが、インタビューしている感じは好印象
その評価を決定づけたのは、去年の秋、トムさんに行ったインタビューだ。
トムさんにしろ、マイクにしろ、ここ数年インタビューをすると、訊かれもしないのにジョージを語り出すという、いわゆる「ジョージ好き過ぎ病」の症状がずっと見られた。去年の秋のインタビューでは、珍しくトムさんがジョージの名前を出さないな…と思いながら読み進めていたら、なんとゼインズの方から持ち出したではないか。
「先日、ジョージ・ハリスンの話題になったとき、『ジョージのトラベリング・ウィルベリーズを結成したときの衝動』という物にピンと来ました。つまり、 [クラウド・ナイン] という彼のキャリアにおける頂点に達したその時に、図らずも、ただ純粋に音楽を作りたいという思いが迸ったという「衝動」のことです。あなた(トム)のマッドクラッチを再結成しようという決断は、このジョージのような思考の影響ではありませんか?」
おいおい、ウォーレン・ゼインズ Ph.D. … なにやら、普通のロック・ファンの心理とあまり変わりのないピュアで楽天的な発想で、高感度アップ。トムさんの方がびっくりして、「ええと…そうかもね。きみがそう言うまで、思いもしなかったよ。」と、答えている。
そんなゼインズが今回のジョージのライナー・ノーツを担当するとは、彼自身もうれしいことだろう。私もうれしいので、これからじっくり読ませてもらうことにする。
アメリカ版が16日発売だったが、日本のHMVはUK版待ちらしく、何度か偵察してみても現物がない。アマゾンでも予約してあるが、未だに発送の知らせも来ない。
ジョージ断ちが思いのほか長引いて、ストレスがひどい。今日はとうとう、胃がキリキリし始めた。2年前、ウィルベリーズ再販の際に、ジョージ&ディラン様&TPHB 三重断ちという自殺行為を数か月に渡って敢行した。もう少しで発売だ!…という時に、とうとう私は病に倒れ、40度の熱を出し、救急車で運ばれ、1週間入院した。そのせいで、ウィルベリーズ・ボックスの鑑賞が普通より数日遅れたのは、苦い思い出だ。
そうなってからでは遅いので、[let it roll] はiTunesで先に入手することにして、今聞いている。
おなじみの曲オンパレードのはずだが、いちいちキャーだの、ワーだのと奇声を発して大興奮している。やはり新たな気持ちで、しかも珍しい曲順で聞くのは、それなりにエキサイティングだ。しかも、これまでそう簡単には聴くことの出来なかった "I don't want to do it " や、大好きな "Isn't it a pity" のデモも入っているのだから…
しかし、感想はこれくらいにしておく。もっと聞きこんでから、しっかり書きたいし、盤や日本版を待っている人も居るだろう
ブックレットに関しては、PDFでダウンロードできる。視覚的には満足できるが、やはり現物を手に取れないのは味気ない。はっきりしているのは、どう転んでも美男子は美男子だということ。
注目のライナーノーツのライターは?…むろん、トムさんによる「ぼくのジョージ」ではないのだが、そこには見慣れた名前が。Warren Zanes....お前か!!
Warren Zanes。姓の発音がずっと疑問だった。ググってみて、「ゼインズ」という表記を発見したので、今後はそういうことにする。
彼は兄にくっついてロックな所に大分若いころから出入りし、自分もバンドの一員として、もしくはソロとして作品を発表している。しかし、今ではクリーブランドにある、ロックの殿堂のvice president of education, インタビュアー、文筆家としての活躍の方が有名だろう(博士号も持っていたりする)。
TP&HBファンにはおなじみの顔だ。ドキュメンタリー映画 [Runnin' down a dream] にも登場しているし、最近のトムさんのインタビューも行っている。「カントム」によれば、だいぶ昔からトムさんとは知り合いのようだ。
私はウォーレン・ゼインズにけっこう好意を持っている。
同じライターであるビル・フラナガンの文章は、書いてある内容は素晴らしいのだが、その表現方法が気に入らない。しかも、[ RDAD ] に出てきたときの容姿が更に気に入らない。これは「坊主憎ければ…」という次元だが。
その点ウォーレン・ゼインズは、容姿もなかなか格好良いではないか。

彼の本を読んだことはないが、インタビューしている感じは好印象
その評価を決定づけたのは、去年の秋、トムさんに行ったインタビューだ。
トムさんにしろ、マイクにしろ、ここ数年インタビューをすると、訊かれもしないのにジョージを語り出すという、いわゆる「ジョージ好き過ぎ病」の症状がずっと見られた。去年の秋のインタビューでは、珍しくトムさんがジョージの名前を出さないな…と思いながら読み進めていたら、なんとゼインズの方から持ち出したではないか。
「先日、ジョージ・ハリスンの話題になったとき、『ジョージのトラベリング・ウィルベリーズを結成したときの衝動』という物にピンと来ました。つまり、 [クラウド・ナイン] という彼のキャリアにおける頂点に達したその時に、図らずも、ただ純粋に音楽を作りたいという思いが迸ったという「衝動」のことです。あなた(トム)のマッドクラッチを再結成しようという決断は、このジョージのような思考の影響ではありませんか?」
おいおい、ウォーレン・ゼインズ Ph.D. … なにやら、普通のロック・ファンの心理とあまり変わりのないピュアで楽天的な発想で、高感度アップ。トムさんの方がびっくりして、「ええと…そうかもね。きみがそう言うまで、思いもしなかったよ。」と、答えている。
そんなゼインズが今回のジョージのライナー・ノーツを担当するとは、彼自身もうれしいことだろう。私もうれしいので、これからじっくり読ませてもらうことにする。
髭に名を残す ― 2009/06/20 23:36
東部戦線では、1862年9月のアンティータムでの大規模な戦闘後、仕切り直しという段階に来ていた。
アンティータムでは大敗してメリーランド作戦が失敗に帰しても、リーは決定的な打撃を受けることなくヴァージニア州に兵を引き、体制の立て直しにかかった。同時に、スチュアートは相変わらず騎兵を率いて最前線を駆け回って牽制し、ストーンウォール・ジャクソンは、シェナンドア渓谷で転戦し、北軍の背後を脅かそうとしていた。
一方、北軍では大きな人事異動があった。例のマクレランがとうとう東部戦線北軍の主力であるラパハノック軍の司令官から解任され、後継者にアンブローズ・バーンサイドが決まった。
リンカーンと、北軍総大将のハレックは、バーンサイドに戦況の巻き返しを指示し、催促もした。その結果、バーンサイドは「小さな作戦行動を散発させ、リーを撹乱しつつ、南部連合の首都リッチモンドを落とす」という、積極的かつ精緻さを要求される作戦を立て、実行するに至った。
これが始動するのが1962年11月の事。さらに、歴史的な結果となる、12月のフレデリクスバーグの戦いへと連なることになる。
気の毒な事に、バーンサイドはラパハノック軍の司令官として、リーと対決するには能力が足りなすぎた。彼は基本的に好人物だったらしく、軍関係や、産業界でも友人が多かった。その結果、順調に陸軍内で昇進し、気づけば立場的にはマクラレンの次席に居たのである。
実は、アンティータムの戦いで既に、バーンサイドは失点を重ねていた。将軍としては状況判断が甘く、柔軟性に欠け、敗戦の被害を増幅する傾向にあったのだ。
それでもリンカーンにしてみれば、席次を守ってマクレランの後任を決めるのは、当然だった。
バーンサイドは、そのいかつい容姿が有名だった。いかにも強そうに見えるが、それが大軍を指揮する将軍として強いかどうかは別問題だ。エレガントな容姿をしているリーなどと比べると、映画に出てくる名将と、負ける敵方の典型のようにさえ見える。
一番特徴的なのは、その髭。口ひげともみあげがつながるまで生やし、顎髭はきれに剃る。あまりにも個性的なスタイルなので、この髭の形は、バーンサイドの名前を入れ替えて、「サイドバーンズ」という名前になった。辞書にも載っている。名前をそのままにした「バーンサイズ」でも、同じ意味らしい。

ここで、デュアン・オールマンが登場する。
彼の伝記、[SKYDOG] によると、1969年セッションマンとしてアラバマ州のマッスル・ショールズ・スタジオで仕事をしていたデュアン・オールマンのいでたちは、かなりショッキングだったらしい。
ベーシストのデイヴィッド・フッドはこう回想する。「彼は私が最初に会ったヒッピーだった。我々は髪を短くして、ボタンダウンを着ていた。音楽業界で働いていても、見た目は至って普通だった。そこへ、まったく突然に、彼が出現した。ベルボトム・パンツに、長い髪、ザン切りのサイドバーンズ、花柄のシャツだのなんだの。デュアンはまるで、異星人のようだった。
ちなみに、そんなデュアンにつけられたあだ名が、"dog" ― 最初は単に、容姿から dog だけだった。さらにウィルソン・ピケットが、"sky man" と名付ける。これは、デュアンが始終ドラッグでハイになっているのに驚いて、(アメリカ南部はまだそれほどドラッグが浸透していなかった)つけた名前だ。
つまり、有名な "SKYDOG" は、この二つをつなげたもので、彼のスライドに象徴される、ギター・プレイとは、直接関係ないらしい。
アンティータムでは大敗してメリーランド作戦が失敗に帰しても、リーは決定的な打撃を受けることなくヴァージニア州に兵を引き、体制の立て直しにかかった。同時に、スチュアートは相変わらず騎兵を率いて最前線を駆け回って牽制し、ストーンウォール・ジャクソンは、シェナンドア渓谷で転戦し、北軍の背後を脅かそうとしていた。
一方、北軍では大きな人事異動があった。例のマクレランがとうとう東部戦線北軍の主力であるラパハノック軍の司令官から解任され、後継者にアンブローズ・バーンサイドが決まった。
リンカーンと、北軍総大将のハレックは、バーンサイドに戦況の巻き返しを指示し、催促もした。その結果、バーンサイドは「小さな作戦行動を散発させ、リーを撹乱しつつ、南部連合の首都リッチモンドを落とす」という、積極的かつ精緻さを要求される作戦を立て、実行するに至った。
これが始動するのが1962年11月の事。さらに、歴史的な結果となる、12月のフレデリクスバーグの戦いへと連なることになる。
気の毒な事に、バーンサイドはラパハノック軍の司令官として、リーと対決するには能力が足りなすぎた。彼は基本的に好人物だったらしく、軍関係や、産業界でも友人が多かった。その結果、順調に陸軍内で昇進し、気づけば立場的にはマクラレンの次席に居たのである。
実は、アンティータムの戦いで既に、バーンサイドは失点を重ねていた。将軍としては状況判断が甘く、柔軟性に欠け、敗戦の被害を増幅する傾向にあったのだ。
それでもリンカーンにしてみれば、席次を守ってマクレランの後任を決めるのは、当然だった。
バーンサイドは、そのいかつい容姿が有名だった。いかにも強そうに見えるが、それが大軍を指揮する将軍として強いかどうかは別問題だ。エレガントな容姿をしているリーなどと比べると、映画に出てくる名将と、負ける敵方の典型のようにさえ見える。
一番特徴的なのは、その髭。口ひげともみあげがつながるまで生やし、顎髭はきれに剃る。あまりにも個性的なスタイルなので、この髭の形は、バーンサイドの名前を入れ替えて、「サイドバーンズ」という名前になった。辞書にも載っている。名前をそのままにした「バーンサイズ」でも、同じ意味らしい。

ここで、デュアン・オールマンが登場する。
彼の伝記、[SKYDOG] によると、1969年セッションマンとしてアラバマ州のマッスル・ショールズ・スタジオで仕事をしていたデュアン・オールマンのいでたちは、かなりショッキングだったらしい。
ベーシストのデイヴィッド・フッドはこう回想する。「彼は私が最初に会ったヒッピーだった。我々は髪を短くして、ボタンダウンを着ていた。音楽業界で働いていても、見た目は至って普通だった。そこへ、まったく突然に、彼が出現した。ベルボトム・パンツに、長い髪、ザン切りのサイドバーンズ、花柄のシャツだのなんだの。デュアンはまるで、異星人のようだった。
ちなみに、そんなデュアンにつけられたあだ名が、"dog" ― 最初は単に、容姿から dog だけだった。さらにウィルソン・ピケットが、"sky man" と名付ける。これは、デュアンが始終ドラッグでハイになっているのに驚いて、(アメリカ南部はまだそれほどドラッグが浸透していなかった)つけた名前だ。
つまり、有名な "SKYDOG" は、この二つをつなげたもので、彼のスライドに象徴される、ギター・プレイとは、直接関係ないらしい。
来た、見た、買った ― 2009/06/22 23:17
久し振りに、TP&HB関係書きもの倉庫、Cool Dry Place に、新しい記事をアップした。「カントム」こと、[Conversations with Tom Petty] の、前半 "Life" から、チャプター9, handle with care の未翻訳箇所をすべて補完し、さらにチャプター10,into the great wide open を完訳した。
次は、本の後半 "Songs" の [Full moon fever], [ Into the great wide open] の予定。
今回の翻訳では、新しいマシーン、ポメラを使った。最近、よくCMを見る「デジタル・メモ」だ。
ずいぶん前から発売されていたが、意外と売れ行き好調だったので、宣伝してみたらこれまた大ヒットとのこと。ちなみに、購買層の多くは男性だそうだ。
私はとにかく書くことが多い。PCが立ちあがって使える状況なら良いのだが、そうではないシチュエーションも多々ある。たとえば、電車の中で書く時などは、適当な紙にざざっと書くのだが、それを打ち込む時には字が汚くて判読不能。第一、打つという二度手間がまどろっこしい。
PCが目の前にあっても、他のアプリケーションなどの都合で、テキスト系を使いにくい場合も多い。
そこでポメラ!欲しい!これは欲しい!
いや、衝動買いは良くないので、とりあえずヨドバシカメラに偵察に赴き、実物を観察することにした。しかし…一目見たら、もうダメだ。速攻で注文(実際は、より安いネットで買った)。

比較に、紙ジャケアルバムと一緒に写してみた。サイズは確かに文庫本なのだが、意外と厚みがあり、重さもそれなりにある。私のように極小の手の人には、ちょっと大きく感じる。ジャケットの胸ポケットに入れるのは、お勧めしない。やはりメモ帳というよりは、小さなPC。
しかし、ベートーヴェンのピアノソナタ全集を持ち歩いて平気な人にとっては、なんでもない大きさだ。
なんと言っても、使い心地がかなり良い。キーボードは小型だが、慣れの問題だし、そこは小さな手が有利に働く。
立ち上げに2秒。畳んでしまうのも、せいぜい5秒。メモ帳とペンを出すより早い。電車でも座っていれば使える(実際、今日のカントムの記事も、電車の中で推敲した)。機能が「文字を打ち込むこと」に限定されているので、すべての動作が素早く、イライラ感がゼロ。PCにUSB接続してのデータ移動も、サクサク進んだのには驚いた。(私の今のPCはとにかくトロイのだ。レ○ボ!名機ThinkPadに何をしたんだ?!)
さらに、PCを閉じた後、寝る前の読書時にも、膝の上に置いて打ち込み、パタンと閉じて、お休みなさい!うーん、すぐれもの。すっかりほれ込んでしまった。
もっとも、新しいマシンを手にして、ハイになっているだけかもしれない。宣伝料はもらっていないので、そのうち文句を垂れるかもしれない。興味がある方は、一度実物を確認して、大きさ,重さ,機能をきちんと把握することをお勧めする。
ところで。せっかく白を買ったのだから、天盤パネルにロックなステッカーを貼りたい。そのステッカーはまだ決めていないのだが、ちょっと「向き」の事で、悩んでいる。(もったいないので、実際に貼る気はないが)ウィルベリーズ・ステッカーを仮貼りしてみた。

左は、パネルと閉じたときに、正面から見て、天地が正しい貼り方。
右は、パネルを開けた時に、向こう側から天盤を見て、天地が正しい貼り方。
正しいステッカーの貼り方はどちらなのだろうか?多くの場合、右のようだが、それじゃ、私自身は正しく見られないではないか?
この問題を簡単に解決する方法?分かっていますよ。The Who, モッズ万歳。英国空軍万歳なあれにすれば良いのでしょ。
次は、本の後半 "Songs" の [Full moon fever], [ Into the great wide open] の予定。
今回の翻訳では、新しいマシーン、ポメラを使った。最近、よくCMを見る「デジタル・メモ」だ。
ずいぶん前から発売されていたが、意外と売れ行き好調だったので、宣伝してみたらこれまた大ヒットとのこと。ちなみに、購買層の多くは男性だそうだ。
私はとにかく書くことが多い。PCが立ちあがって使える状況なら良いのだが、そうではないシチュエーションも多々ある。たとえば、電車の中で書く時などは、適当な紙にざざっと書くのだが、それを打ち込む時には字が汚くて判読不能。第一、打つという二度手間がまどろっこしい。
PCが目の前にあっても、他のアプリケーションなどの都合で、テキスト系を使いにくい場合も多い。
そこでポメラ!欲しい!これは欲しい!
いや、衝動買いは良くないので、とりあえずヨドバシカメラに偵察に赴き、実物を観察することにした。しかし…一目見たら、もうダメだ。速攻で注文(実際は、より安いネットで買った)。
比較に、紙ジャケアルバムと一緒に写してみた。サイズは確かに文庫本なのだが、意外と厚みがあり、重さもそれなりにある。私のように極小の手の人には、ちょっと大きく感じる。ジャケットの胸ポケットに入れるのは、お勧めしない。やはりメモ帳というよりは、小さなPC。
しかし、ベートーヴェンのピアノソナタ全集を持ち歩いて平気な人にとっては、なんでもない大きさだ。
なんと言っても、使い心地がかなり良い。キーボードは小型だが、慣れの問題だし、そこは小さな手が有利に働く。
立ち上げに2秒。畳んでしまうのも、せいぜい5秒。メモ帳とペンを出すより早い。電車でも座っていれば使える(実際、今日のカントムの記事も、電車の中で推敲した)。機能が「文字を打ち込むこと」に限定されているので、すべての動作が素早く、イライラ感がゼロ。PCにUSB接続してのデータ移動も、サクサク進んだのには驚いた。(私の今のPCはとにかくトロイのだ。レ○ボ!名機ThinkPadに何をしたんだ?!)
さらに、PCを閉じた後、寝る前の読書時にも、膝の上に置いて打ち込み、パタンと閉じて、お休みなさい!うーん、すぐれもの。すっかりほれ込んでしまった。
もっとも、新しいマシンを手にして、ハイになっているだけかもしれない。宣伝料はもらっていないので、そのうち文句を垂れるかもしれない。興味がある方は、一度実物を確認して、大きさ,重さ,機能をきちんと把握することをお勧めする。
ところで。せっかく白を買ったのだから、天盤パネルにロックなステッカーを貼りたい。そのステッカーはまだ決めていないのだが、ちょっと「向き」の事で、悩んでいる。(もったいないので、実際に貼る気はないが)ウィルベリーズ・ステッカーを仮貼りしてみた。
左は、パネルと閉じたときに、正面から見て、天地が正しい貼り方。
右は、パネルを開けた時に、向こう側から天盤を見て、天地が正しい貼り方。
正しいステッカーの貼り方はどちらなのだろうか?多くの場合、右のようだが、それじゃ、私自身は正しく見られないではないか?
この問題を簡単に解決する方法?分かっていますよ。The Who, モッズ万歳。英国空軍万歳なあれにすれば良いのでしょ。

帰国とコニー・フランシス ― 2009/06/27 00:20
ポメラの勢いを駆って(ポメラった!)、またもCool Dry Placeに、カントムにアヤシゲ翻訳をアップ。後半 songs から、full moon fever を補完した。
ほぼ毎日、ジェフがトムさんの家に通ってくる。さらに、マイクの家に押し掛ける。ギュウギュウに押し込まれる。
コメントがジェフジェフ、やたらジェフジェフしているが、居なければ居ないで、マイクさえ居れば録音は進めるらしい。
そう言えば、何回か出てくる「ジェフはイギリスに行っていて」だが(トムさん、ジェフは英国人ですので、「帰っていて」ですよ)…何の用で帰国したのだろうか?…法事?
"A mind with a heart of its own" のところで言及されたコニー・フランシス。トムさんとジェフが聞いた曲もYouTubeでチェックしたが、初耳。ほかには「ボーイ・ハント」や、「可愛いベイビー」などは聞き覚えがあるが、どうも中尾ミエばかりがアピールしてくる。
結局、コニー・フランシスのもっとも初期の曲である、"Vacation " が一番良かった。アホっぽくて、楽しくて。名曲。
→YouTubeでVacation
ほぼ毎日、ジェフがトムさんの家に通ってくる。さらに、マイクの家に押し掛ける。ギュウギュウに押し込まれる。
コメントがジェフジェフ、やたらジェフジェフしているが、居なければ居ないで、マイクさえ居れば録音は進めるらしい。
そう言えば、何回か出てくる「ジェフはイギリスに行っていて」だが(トムさん、ジェフは英国人ですので、「帰っていて」ですよ)…何の用で帰国したのだろうか?…法事?
"A mind with a heart of its own" のところで言及されたコニー・フランシス。トムさんとジェフが聞いた曲もYouTubeでチェックしたが、初耳。ほかには「ボーイ・ハント」や、「可愛いベイビー」などは聞き覚えがあるが、どうも中尾ミエばかりがアピールしてくる。
結局、コニー・フランシスのもっとも初期の曲である、"Vacation " が一番良かった。アホっぽくて、楽しくて。名曲。
→YouTubeでVacation
SKYDOG ― 2009/06/28 23:12
昨晩は、恒例の、TP&HBファンのオフ会だった。いつものとおり、極上の時間。
今回最大の収穫は、1971年フロリダ州ゲインズヴィルの地元バンド、マッドクラッチが、"Isn't it a pity" をプレイしていたという事実だった。
デュアン・オールマンの伝記本、"SKYDOD The Duane Allman story" を読了。数日前には、ほぼ読み終わっていたのだが、カントムに妨害された。
そもそもは、トムさんが2008年のツアー中(私も見に行ったツアー)に、マイクからもらったこの本を読んで、面白かったとコメントしたことに、端を発している。つまり、マイクも読んだはずで(まさか、代わりに読ませて、要旨を簡潔に説明してもらおうなどと言う魂胆ではあるまい)、私も彼ら二人と体験を共有したかったというわけ。
著者は、ランディ・ポー。数々の音楽雑誌の記事や、ライナー・ノーツ、著作を手がけている。前書きは、ZZトップの、ビリー・ギボンズ。生前のデュアンと交流があったとのこと。
ハードカバーでオリジナルが発表されたのは2006年。2008年にペイパーバックが発売され、私が購入したのもこれ。おそらく、マイクもペイパーバックになったタイミングで読んだのだろう。(どうでも良いことだが、マイクは自分が読んだ本その物をトムにあげたのだろうか。それとも、改めて新品を買って?ツアー中なだけに、前者のような気がする。)
デュアンの24年という短い生涯を、詳細な取材と、多くのインタビューで活写している。筆致は冷静でありながら、時々覗くユーモアが感じられる。
2006年のオリジナルが発表されてから、反響も大きかったらしく、更ななる情報提供も得られたとのことで、このペイパー・バックにはそれも反映されている。デュアンの膨大なスタジオワーク情報や、そのディスコグラフィーも備えている。

オールマン・ブラザーズ・バンドに関しては、デュアンが居た頃を主として数枚のアルバムを聞いているが、知識はあまり無かった。
近年はそれほどでもないが、ある時期まではデュアンに関して、実体とは異なるイメージを持っていた。
無口で無愛想で、近寄り難い雰囲気をまとい、その死の原因となったモーターサイクル事故は、交通量の少ない、荒涼とした荒野で起こったと、思い込んでいた。
しかし、"SKYDOG" のデュアンは、まったく違った。最初に彼と会った人々が持つ印象は、一様に「赤みがかった金髪を長くのばし、目立つ髭に、奇抜な服装。そして異様に人懐っこい性格。」
オールマン・ブラザーズ・バンドとしての活動の他に、セッション・マンとして、あちこちのスタジオへ忙しく飛び回っていたデュアンは、初めて会うミュージシャンたちに、びっくりするほどの愛想の良さと陽気さで近づき、瞬く間に心を掴んでしまう。
それと同時に、度の外れたドラッグの使用は、(当時でさえも)周囲のだれもが危険を感じるほどだった。
デュアンには「ひらめき」のようなものがある。ウィルソン・ピケットのためにとっさに、「"Hey Jude" をやろう」などと言う出すのは、なかなか出来ることではない。しかも、「ビートルズはビッグなんだから、ナンバー・ワンになるにきまってる。さらに、その曲を黒人アーチストがぶちかませば、ヒットするに決まってる。」と、断言する。
若さ故に怖い物知らずなのか、即時に真実を掴み、口から発する能力に長けるのか。とにかく、だれもがデュアンを好きになり、その言動に驚き、しかしその説得力を思い知り、ギター・プレイに魂を揺さぶられる。
エリック・クラプトンもそういった人の一人だった。彼のバンド、デレク&ザ・ドミノス登場の下りは、キーボードのボビー・ウィットロックの視点を中心に、詳細に語られている。
「レイラ・セッション」に情熱を持って取り組み、ABBのライブさえも何回か欠席したデュアン。クラプトンもウィットロックも、これならデュアンがABBを抜けて、自分たちとくんでくれるに違いないと思った。そこでオファーしてみると、答えはノー。
デュアン曰く。「ただ、弟も一緒なら良いよ。」
デュアンの行動基準は、この言葉に尽きる(おいおい、他のABBメンバーはどうなるんだよ?!)。常に彼の音楽シーンには、弟グレッグが居なければならない。グレッグはいつも否応なしに兄デュアンと行動をともにし、一緒にバンド活動を続け、兄の奨めでソングライティングを始めた。
ABBとしてデビューする直前に、ごく短期間だが、兄弟が別々に活動していたことがある。デュアンはその時期に、後にABBとなるバンド・メンバーを集めたのだが、最終的にはこう宣言する。「このバンドは良いバンドだが、うちの弟が加われば最高だ。」
結局、デュアンの行動は基本的にこれだった。そして、グレッグも兄のなすがままの、ミュージシャン・キャリア初期であった。 兄が24歳で亡くなってしまったため、グレッグのデュアンに関する記憶は、美しいまま保存されているようだ。
ほかのABBメンバーにとっても、デュアンの存在は単なる「リーダーであり、ギタリスト」ではなく、「信仰」を残した男だった。この「信仰」が、ABBというバンドの存在させ続けている。
驚いたのは、ABBのメンバーとその家族やガールフレンドなどが、共同で大きな家 ― ザ・ビッグ・ハウスを購入し、共同生活をしていたという事。もちろん、この家でセッションや、リハーサルも行われていたとのこと。
何だ、そのウィルベリーズを地で行くノリは・・・。後にデュアンやグレッグは他に移るのだが、それもこのビッグ・ハウスのすぐそばだった。
印象的だったのは、デュアンがスライド・ギターの名手となるきっかけである。1968年、タジ・マハルのライブで、"Statesboro blues" を演奏する、ジェシ・エド・デイヴィスを目撃する。
それがデュアンにとってのエピファニー ― キリストが誕生し、東方の三博士が訪れた日 ―であり、マハルとデイヴィスはその東方三博士 ― Magi, メイジャイだった。彼らはデュアンに贈り物を与え、デュアンはそれを受け取った。
グレッグが作った代表曲の一つ、"Whipping post" のエピソードも面白い。
あの有名なイントロのリフは、私には3拍子を3回繰り返し、2拍子が付け加わったように聞こえる、変拍子だ。作ったグレッグ自身も、私と同じ解釈をしている。
ところが、デュアンはこれを「4分の11拍子」と解釈したらしい。彼は弟に言った。
「おい、やったな。おまえが4分の11拍子を理解してるなんて、知らなかったぞ。」
グレッグはしたり顔で返す。「4分の11拍子ってなんだよ?」
それに対するデュアンの反応が、すっとぼけていて良い。「分かったよ、おバカ。紙に書いて説明してやる。」
デュアンの死は、有名なモーターサイクル事故によって、もたらされた。現場は荒野でもなんでもなく、彼は一人きりでもなかった。バンド・メンバーの家族の誕生日パーティ準備の最中であり、事故が起こるとすぐにその仲間たちが、救急に連絡して、デュアンは病院へ送られた。
ビッグ・ハウスにも即座に事故の情報がもたらされ、グレッグも兄の元に駆けつけた。すぐに手術が行われたが、結局デュアンが意識を取り戻すことはなかった。
描写は淡々としている。それでも、人懐っこく、音楽と仲間と弟を愛した、好人物のデュアンが突然の死を迎えるその下りには、胸が締め付けられる思いがした。
私はこの箇所を電車の中で読んでいたのだが、ちょうどiPodでは、ジョージの "My sweet Lord" が流れており、その相乗効果による涙をこらえるのに難儀した。
この優れた伝記で難点を挙げるとするなら、デュアンの死,"Eat a peach" の後がやや長いこと。ABBのキャリアは、デュアンの死んだ後が、前の十倍以上の期間なので、無理もないかもしれない。
しかし、やや後日談にもたついたような印象になってしまった。デュアン後のABBに関しては、もう少しすっきりまとめて、余韻を生かしても良かったかもしれない。
ともあれ、トムさんおすすめの本だけあって、とても面白かった。
この本を読むに当たっては、ABBのデュアン時代アルバム作品と、さらにデュアンの代表的なセッション・ワークを収録した、[Anthology] を入手しておくと、良いだろう。
今回最大の収穫は、1971年フロリダ州ゲインズヴィルの地元バンド、マッドクラッチが、"Isn't it a pity" をプレイしていたという事実だった。
デュアン・オールマンの伝記本、"SKYDOD The Duane Allman story" を読了。数日前には、ほぼ読み終わっていたのだが、カントムに妨害された。
そもそもは、トムさんが2008年のツアー中(私も見に行ったツアー)に、マイクからもらったこの本を読んで、面白かったとコメントしたことに、端を発している。つまり、マイクも読んだはずで(まさか、代わりに読ませて、要旨を簡潔に説明してもらおうなどと言う魂胆ではあるまい)、私も彼ら二人と体験を共有したかったというわけ。
著者は、ランディ・ポー。数々の音楽雑誌の記事や、ライナー・ノーツ、著作を手がけている。前書きは、ZZトップの、ビリー・ギボンズ。生前のデュアンと交流があったとのこと。
ハードカバーでオリジナルが発表されたのは2006年。2008年にペイパーバックが発売され、私が購入したのもこれ。おそらく、マイクもペイパーバックになったタイミングで読んだのだろう。(どうでも良いことだが、マイクは自分が読んだ本その物をトムにあげたのだろうか。それとも、改めて新品を買って?ツアー中なだけに、前者のような気がする。)
デュアンの24年という短い生涯を、詳細な取材と、多くのインタビューで活写している。筆致は冷静でありながら、時々覗くユーモアが感じられる。
2006年のオリジナルが発表されてから、反響も大きかったらしく、更ななる情報提供も得られたとのことで、このペイパー・バックにはそれも反映されている。デュアンの膨大なスタジオワーク情報や、そのディスコグラフィーも備えている。

オールマン・ブラザーズ・バンドに関しては、デュアンが居た頃を主として数枚のアルバムを聞いているが、知識はあまり無かった。
近年はそれほどでもないが、ある時期まではデュアンに関して、実体とは異なるイメージを持っていた。
無口で無愛想で、近寄り難い雰囲気をまとい、その死の原因となったモーターサイクル事故は、交通量の少ない、荒涼とした荒野で起こったと、思い込んでいた。
しかし、"SKYDOG" のデュアンは、まったく違った。最初に彼と会った人々が持つ印象は、一様に「赤みがかった金髪を長くのばし、目立つ髭に、奇抜な服装。そして異様に人懐っこい性格。」
オールマン・ブラザーズ・バンドとしての活動の他に、セッション・マンとして、あちこちのスタジオへ忙しく飛び回っていたデュアンは、初めて会うミュージシャンたちに、びっくりするほどの愛想の良さと陽気さで近づき、瞬く間に心を掴んでしまう。
それと同時に、度の外れたドラッグの使用は、(当時でさえも)周囲のだれもが危険を感じるほどだった。
デュアンには「ひらめき」のようなものがある。ウィルソン・ピケットのためにとっさに、「"Hey Jude" をやろう」などと言う出すのは、なかなか出来ることではない。しかも、「ビートルズはビッグなんだから、ナンバー・ワンになるにきまってる。さらに、その曲を黒人アーチストがぶちかませば、ヒットするに決まってる。」と、断言する。
若さ故に怖い物知らずなのか、即時に真実を掴み、口から発する能力に長けるのか。とにかく、だれもがデュアンを好きになり、その言動に驚き、しかしその説得力を思い知り、ギター・プレイに魂を揺さぶられる。
エリック・クラプトンもそういった人の一人だった。彼のバンド、デレク&ザ・ドミノス登場の下りは、キーボードのボビー・ウィットロックの視点を中心に、詳細に語られている。
「レイラ・セッション」に情熱を持って取り組み、ABBのライブさえも何回か欠席したデュアン。クラプトンもウィットロックも、これならデュアンがABBを抜けて、自分たちとくんでくれるに違いないと思った。そこでオファーしてみると、答えはノー。
デュアン曰く。「ただ、弟も一緒なら良いよ。」
デュアンの行動基準は、この言葉に尽きる(おいおい、他のABBメンバーはどうなるんだよ?!)。常に彼の音楽シーンには、弟グレッグが居なければならない。グレッグはいつも否応なしに兄デュアンと行動をともにし、一緒にバンド活動を続け、兄の奨めでソングライティングを始めた。
ABBとしてデビューする直前に、ごく短期間だが、兄弟が別々に活動していたことがある。デュアンはその時期に、後にABBとなるバンド・メンバーを集めたのだが、最終的にはこう宣言する。「このバンドは良いバンドだが、うちの弟が加われば最高だ。」
結局、デュアンの行動は基本的にこれだった。そして、グレッグも兄のなすがままの、ミュージシャン・キャリア初期であった。 兄が24歳で亡くなってしまったため、グレッグのデュアンに関する記憶は、美しいまま保存されているようだ。
ほかのABBメンバーにとっても、デュアンの存在は単なる「リーダーであり、ギタリスト」ではなく、「信仰」を残した男だった。この「信仰」が、ABBというバンドの存在させ続けている。
驚いたのは、ABBのメンバーとその家族やガールフレンドなどが、共同で大きな家 ― ザ・ビッグ・ハウスを購入し、共同生活をしていたという事。もちろん、この家でセッションや、リハーサルも行われていたとのこと。
何だ、そのウィルベリーズを地で行くノリは・・・。後にデュアンやグレッグは他に移るのだが、それもこのビッグ・ハウスのすぐそばだった。
印象的だったのは、デュアンがスライド・ギターの名手となるきっかけである。1968年、タジ・マハルのライブで、"Statesboro blues" を演奏する、ジェシ・エド・デイヴィスを目撃する。
それがデュアンにとってのエピファニー ― キリストが誕生し、東方の三博士が訪れた日 ―であり、マハルとデイヴィスはその東方三博士 ― Magi, メイジャイだった。彼らはデュアンに贈り物を与え、デュアンはそれを受け取った。
グレッグが作った代表曲の一つ、"Whipping post" のエピソードも面白い。
あの有名なイントロのリフは、私には3拍子を3回繰り返し、2拍子が付け加わったように聞こえる、変拍子だ。作ったグレッグ自身も、私と同じ解釈をしている。
ところが、デュアンはこれを「4分の11拍子」と解釈したらしい。彼は弟に言った。
「おい、やったな。おまえが4分の11拍子を理解してるなんて、知らなかったぞ。」
グレッグはしたり顔で返す。「4分の11拍子ってなんだよ?」
それに対するデュアンの反応が、すっとぼけていて良い。「分かったよ、おバカ。紙に書いて説明してやる。」
デュアンの死は、有名なモーターサイクル事故によって、もたらされた。現場は荒野でもなんでもなく、彼は一人きりでもなかった。バンド・メンバーの家族の誕生日パーティ準備の最中であり、事故が起こるとすぐにその仲間たちが、救急に連絡して、デュアンは病院へ送られた。
ビッグ・ハウスにも即座に事故の情報がもたらされ、グレッグも兄の元に駆けつけた。すぐに手術が行われたが、結局デュアンが意識を取り戻すことはなかった。
描写は淡々としている。それでも、人懐っこく、音楽と仲間と弟を愛した、好人物のデュアンが突然の死を迎えるその下りには、胸が締め付けられる思いがした。
私はこの箇所を電車の中で読んでいたのだが、ちょうどiPodでは、ジョージの "My sweet Lord" が流れており、その相乗効果による涙をこらえるのに難儀した。
この優れた伝記で難点を挙げるとするなら、デュアンの死,"Eat a peach" の後がやや長いこと。ABBのキャリアは、デュアンの死んだ後が、前の十倍以上の期間なので、無理もないかもしれない。
しかし、やや後日談にもたついたような印象になってしまった。デュアン後のABBに関しては、もう少しすっきりまとめて、余韻を生かしても良かったかもしれない。
ともあれ、トムさんおすすめの本だけあって、とても面白かった。
この本を読むに当たっては、ABBのデュアン時代アルバム作品と、さらにデュアンの代表的なセッション・ワークを収録した、[Anthology] を入手しておくと、良いだろう。
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