SKYDOG2009/06/28 23:12

 昨晩は、恒例の、TP&HBファンのオフ会だった。いつものとおり、極上の時間。
 今回最大の収穫は、1971年フロリダ州ゲインズヴィルの地元バンド、マッドクラッチが、"Isn't it a pity" をプレイしていたという事実だった。

 デュアン・オールマンの伝記本、"SKYDOD The Duane Allman story" を読了。数日前には、ほぼ読み終わっていたのだが、カントムに妨害された。
 そもそもは、トムさんが2008年のツアー中(私も見に行ったツアー)に、マイクからもらったこの本を読んで、面白かったとコメントしたことに、端を発している。つまり、マイクも読んだはずで(まさか、代わりに読ませて、要旨を簡潔に説明してもらおうなどと言う魂胆ではあるまい)、私も彼ら二人と体験を共有したかったというわけ。

 著者は、ランディ・ポー。数々の音楽雑誌の記事や、ライナー・ノーツ、著作を手がけている。前書きは、ZZトップの、ビリー・ギボンズ。生前のデュアンと交流があったとのこと。
 ハードカバーでオリジナルが発表されたのは2006年。2008年にペイパーバックが発売され、私が購入したのもこれ。おそらく、マイクもペイパーバックになったタイミングで読んだのだろう。(どうでも良いことだが、マイクは自分が読んだ本その物をトムにあげたのだろうか。それとも、改めて新品を買って?ツアー中なだけに、前者のような気がする。)
 デュアンの24年という短い生涯を、詳細な取材と、多くのインタビューで活写している。筆致は冷静でありながら、時々覗くユーモアが感じられる。
 2006年のオリジナルが発表されてから、反響も大きかったらしく、更ななる情報提供も得られたとのことで、このペイパー・バックにはそれも反映されている。デュアンの膨大なスタジオワーク情報や、そのディスコグラフィーも備えている。

 

 オールマン・ブラザーズ・バンドに関しては、デュアンが居た頃を主として数枚のアルバムを聞いているが、知識はあまり無かった。
 近年はそれほどでもないが、ある時期まではデュアンに関して、実体とは異なるイメージを持っていた。
 無口で無愛想で、近寄り難い雰囲気をまとい、その死の原因となったモーターサイクル事故は、交通量の少ない、荒涼とした荒野で起こったと、思い込んでいた。

 しかし、"SKYDOG" のデュアンは、まったく違った。最初に彼と会った人々が持つ印象は、一様に「赤みがかった金髪を長くのばし、目立つ髭に、奇抜な服装。そして異様に人懐っこい性格。」
 オールマン・ブラザーズ・バンドとしての活動の他に、セッション・マンとして、あちこちのスタジオへ忙しく飛び回っていたデュアンは、初めて会うミュージシャンたちに、びっくりするほどの愛想の良さと陽気さで近づき、瞬く間に心を掴んでしまう。
 それと同時に、度の外れたドラッグの使用は、(当時でさえも)周囲のだれもが危険を感じるほどだった。

 デュアンには「ひらめき」のようなものがある。ウィルソン・ピケットのためにとっさに、「"Hey Jude" をやろう」などと言う出すのは、なかなか出来ることではない。しかも、「ビートルズはビッグなんだから、ナンバー・ワンになるにきまってる。さらに、その曲を黒人アーチストがぶちかませば、ヒットするに決まってる。」と、断言する。
 若さ故に怖い物知らずなのか、即時に真実を掴み、口から発する能力に長けるのか。とにかく、だれもがデュアンを好きになり、その言動に驚き、しかしその説得力を思い知り、ギター・プレイに魂を揺さぶられる。

 エリック・クラプトンもそういった人の一人だった。彼のバンド、デレク&ザ・ドミノス登場の下りは、キーボードのボビー・ウィットロックの視点を中心に、詳細に語られている。
 「レイラ・セッション」に情熱を持って取り組み、ABBのライブさえも何回か欠席したデュアン。クラプトンもウィットロックも、これならデュアンがABBを抜けて、自分たちとくんでくれるに違いないと思った。そこでオファーしてみると、答えはノー。

 デュアン曰く。「ただ、弟も一緒なら良いよ。」

 デュアンの行動基準は、この言葉に尽きる(おいおい、他のABBメンバーはどうなるんだよ?!)。常に彼の音楽シーンには、弟グレッグが居なければならない。グレッグはいつも否応なしに兄デュアンと行動をともにし、一緒にバンド活動を続け、兄の奨めでソングライティングを始めた。
 ABBとしてデビューする直前に、ごく短期間だが、兄弟が別々に活動していたことがある。デュアンはその時期に、後にABBとなるバンド・メンバーを集めたのだが、最終的にはこう宣言する。「このバンドは良いバンドだが、うちの弟が加われば最高だ。」
 結局、デュアンの行動は基本的にこれだった。そして、グレッグも兄のなすがままの、ミュージシャン・キャリア初期であった。  兄が24歳で亡くなってしまったため、グレッグのデュアンに関する記憶は、美しいまま保存されているようだ。
 ほかのABBメンバーにとっても、デュアンの存在は単なる「リーダーであり、ギタリスト」ではなく、「信仰」を残した男だった。この「信仰」が、ABBというバンドの存在させ続けている。

 驚いたのは、ABBのメンバーとその家族やガールフレンドなどが、共同で大きな家 ― ザ・ビッグ・ハウスを購入し、共同生活をしていたという事。もちろん、この家でセッションや、リハーサルも行われていたとのこと。
 何だ、そのウィルベリーズを地で行くノリは・・・。後にデュアンやグレッグは他に移るのだが、それもこのビッグ・ハウスのすぐそばだった。

 印象的だったのは、デュアンがスライド・ギターの名手となるきっかけである。1968年、タジ・マハルのライブで、"Statesboro blues" を演奏する、ジェシ・エド・デイヴィスを目撃する。
 それがデュアンにとってのエピファニー ― キリストが誕生し、東方の三博士が訪れた日 ―であり、マハルとデイヴィスはその東方三博士 ― Magi, メイジャイだった。彼らはデュアンに贈り物を与え、デュアンはそれを受け取った。

 グレッグが作った代表曲の一つ、"Whipping post" のエピソードも面白い。
 あの有名なイントロのリフは、私には3拍子を3回繰り返し、2拍子が付け加わったように聞こえる、変拍子だ。作ったグレッグ自身も、私と同じ解釈をしている。
 ところが、デュアンはこれを「4分の11拍子」と解釈したらしい。彼は弟に言った。
 「おい、やったな。おまえが4分の11拍子を理解してるなんて、知らなかったぞ。」
 グレッグはしたり顔で返す。「4分の11拍子ってなんだよ?」
 それに対するデュアンの反応が、すっとぼけていて良い。「分かったよ、おバカ。紙に書いて説明してやる。」

 デュアンの死は、有名なモーターサイクル事故によって、もたらされた。現場は荒野でもなんでもなく、彼は一人きりでもなかった。バンド・メンバーの家族の誕生日パーティ準備の最中であり、事故が起こるとすぐにその仲間たちが、救急に連絡して、デュアンは病院へ送られた。
 ビッグ・ハウスにも即座に事故の情報がもたらされ、グレッグも兄の元に駆けつけた。すぐに手術が行われたが、結局デュアンが意識を取り戻すことはなかった。
 描写は淡々としている。それでも、人懐っこく、音楽と仲間と弟を愛した、好人物のデュアンが突然の死を迎えるその下りには、胸が締め付けられる思いがした。
 私はこの箇所を電車の中で読んでいたのだが、ちょうどiPodでは、ジョージの "My sweet Lord" が流れており、その相乗効果による涙をこらえるのに難儀した。

 この優れた伝記で難点を挙げるとするなら、デュアンの死,"Eat a peach" の後がやや長いこと。ABBのキャリアは、デュアンの死んだ後が、前の十倍以上の期間なので、無理もないかもしれない。
 しかし、やや後日談にもたついたような印象になってしまった。デュアン後のABBに関しては、もう少しすっきりまとめて、余韻を生かしても良かったかもしれない。

 ともあれ、トムさんおすすめの本だけあって、とても面白かった。
 この本を読むに当たっては、ABBのデュアン時代アルバム作品と、さらにデュアンの代表的なセッション・ワークを収録した、[Anthology] を入手しておくと、良いだろう。