右腕の喪失2009/12/02 23:55

 1863年5月2日の夕刻、ストーンウォール・ジャクソン中将に率いられた南部連合の第二軍は、樹海の中、チャンセラーズビル付近で、大迂回の末の、奇襲攻撃に成功した。北軍は一気に崩れ、北東方面に退却した。

 ジャクソンは勢いがあるうちに、追い打ちをかけ、勝利を確固たるものにすることの重要性を知っていた(実際、南北ともに、何度も勝利を決定づけるチャンスを逸しては、戦争の長期化を招いていたのだ)。
 ジャクソンは自ら、夜襲のための偵察に出た。5月とはいえ、日没後の樹海の中である。ジャクソンの年若い親友であるジェブ・スチュアートは、友人が将軍らしく見えるようにと美しい軍服を進呈し、ジャクソンはそれを着用していたのだが、この状況では視覚的な役には立たなかった。
 偵察から戻ってきたジャクソンの一行を、ノースカロライナ騎兵連隊は見分けることができず、さらに戦闘のせいで気が昂ぶっていた彼らは、自軍の将であるジャクソンを、銃撃してしまったのである。

 ジャクソンは右腕に1発、左腕に2発被弾した。状況がやや混乱し、彼の護送と手当は速やかには行われなかった。ともあれジャクソンは担架で、チャンドラーという農夫の家に担ぎ込まれた。チャンドラーは自宅の提供を申し出たが、自分の怪我をあまり重大なものだとは思っていなかったジャクソンはそれを断わり、農場事務所に滞在した。
 従軍医師のハンター・マクガイアが執刀して、銃弾の摘出手術が行われ、スチュアートからのプレゼントは切り裂かれることになった。さらに、ジャクソンは左腕を切断されたのである。
 経過は一時安定したかにみえたが、間もなく感染症から肺炎を併発した。高熱によって意識が混濁し、そこから回復することなく、5月10日、トーマス・“ストーンウォール”・ジャクソンは絶命した。39歳だった。
 最後の言葉は、マクガイア医師が記録している。

 「川を渡って、木陰で休もう…」 

 ジャクソンの遺体は、リッチモンドに運ばれたのち、ヴァージニア州レキシントンに埋葬された。今日では、「ザ・ストーンウォール・ジャクソン・メモリアル・セメタリー」となっている墓地である。
 彼の切断された左腕は別に、従軍牧師の手によって最後の戦場となった樹海の中、エルウッドというところに埋葬された。

 南北戦争においては、戦闘における戦死者もさることながら、ジャクソンのように負傷後に経過が悪化して亡くなる確率が、非常に高かった。19世紀後半とはいえ、まだまだ衛生観念の足りない時期で、しかも野戦病院ともなると、感染症による死亡の危険が避けられなかったのである。
 ジェイムズ・テンチ(ベンモント・テンチの曾祖父の弟)の、ウェスト・ヴァージニア戦役における死も、負傷した後の経過の悪化によるものだろう。

 ジャクソンの死は、ロバート・E・リー個人にとっては親しい友人の死であり、南部連合軍を率いる将軍としては、もっとも優秀な現場指揮官の喪失だった。ジャクソンの死に対するリーのコメントが、それをよくあらわしている。
 「彼は左腕を失ったが、私は右腕を失った。」
 この「右腕の喪失」は、さらに2ヶ月後、痛い実感としてリーを襲うことになる。
 ジェブ・スチュアートは、ジャクソンの死を「国家の災厄」と表現した。

 ジャクソンの未亡人メアリー・アンナ・ジャクソンは、後年「南部連合国の未亡人」と呼ばれた。それほどに、ジャクソンは南部にとって伝説的な人物になっていたのである。