テンチ家の兄弟(その5)2008/10/23 23:21

 テンチ家の兄弟とは、ずいぶん長い間御無沙汰している。戦争初年 ― 1861年の夏、ウェスト・ヴァージニア戦役で三男のジェイムズが死んだあと、彼らの足跡がうまくたどれないのだ。

 テンチ兄弟が所属していたニューナン・ガーズがいきなりウェスト・ヴァージニア ― つまり東部戦線に送られたことは、間違いない。しかし1861年の後半、彼らはどうしていたのか。
 1866年1月発行の新聞「ザ・ニューナン・ヘラルド」に載った、ニューナン・ガーズ戦死者名簿を見ると、1861年はジェイムズ・テンチも含めてほとんどが夏にウェスト・ヴァージニア戦役で死んだことになっている。つまり、ほぼ同時期に起こった第一次マナッサス(ブルラン)の戦いには、参加していない。
 南軍はウェスト・ヴァージニアでの敗戦後、その組織の敗戦処理のためにリーをシェナンドア渓谷に派遣している。つまり、翌1862年初頭まで、ニューナン・ガーズはこの南軍再編成のための待機をしていたと考えられる。

 1862年の死亡者名簿を見ると、ほとんどがジョージア州で死んでいる。一人だけ例外が、7月の七日間戦争(北軍マクレランが仕掛けた半島作戦対して、リー率いる南軍が行った一連の反撃)に参加して死んだようだが、殆どのニューナン・ガーズは、故郷ジョージア州に戻ったのだ。
 それと呼応するのが、ジョージア州第一騎兵連隊の編成である。この連隊の母体は前年にロウム(テンチ家の故郷ニューナンの北100kmほどの町)で結成されたが、1862年3月にニューナン・ガーズを編入している。
 こうしてテンチ家の兄弟 ― ジョン・ウォルター(ベンモント・テンチの曽祖父)と、ルーベン・モンモランシーは以後、西部戦線での軍務につくこととなった。

 南北戦争の場合、西部戦線とはミシシッピ川東からアパラチア山脈の西までの地域で展開された戦闘を言う。
南北の境に位置し、北部連邦,南部連合いずれにも属さなかったケンタッキー州に両軍が進軍し、主導権を握ろうとすることで、西部戦線は幕を開けた。
 ニューナン・ガーズがジョージア州第一騎兵連隊に編入される直前。南軍のドネルトン砦を、北軍が包囲していた。
 ドネルトン要塞は、ナッシュヴィルとメンフィスのちょうど中間あたりを南北に流れる、テネシー川支流・カンバーランド川のテネシー州ケンタッキー州の境界付近に位置した。南軍の西部戦線司令官アルバート・ジョンストン(マナッサスや、半島作戦で登場したジョーゼフ・ジョンストンとは別人)は、二つの川 ― さらにそれが注ぎ込むミシシッピ川を支配するうえでドネルトン砦の存在が重要であることは認識していたが、その用兵は(リーと比べるまでもなく)不適切なものだった。
 結局、ドネルトン砦は抵抗らしい抵抗もできず、1862年2月16日降伏した。それもただの降伏ではない。「無条件降伏 ― Unconditional Surrender」 ― この日本人には妙になじみ深い降伏をせしめた北軍の将こそが、ユリシーズ・S・グラントだった。
 この、広大な西部戦線における一砦での勝利が、グラントの名を広く知らしめる結果となった。

(つづく)

Krystian Zimerman2008/10/27 22:50

 私はあまりクラシックに興味が無いが、さりとて好きなピアニストが居ないわけでもない。

 Krystian Zimerman ― 1956年生まれの、ポーランド人ピアニストである。私はこのブログで、外国人の名前も基本的にカタカナ表示にしているのだが、彼の場合揺れが大きくて困る。
 ファーストネームは、「クリスティアン」や、「クリスチャン」。ファミリーネームに至っては、「ツィマーマン」「ツィンマーマン」「ツィメルマン」「ツィンメルマン」 -英語風に表記すれば、「ジマーマン」。ほぼ、ボブ・ディランの生まれた家の名前と同じだ(mの数が違う)。
 K. Zimermanはポーランド人なので、ポーランド語っぽく発音したら、また違うのかも知れない。

 Zimermanは、1975年の国際ショパン・コンクールにおいて19歳にして優勝。その後も人気実力ともに一流のピアニストとして活躍している。
 彼の良いところは、研究熱心なところ。最近は指揮にも力を入れ、ピアノ協奏曲での「弾き振り」を見せている。偉大な先輩との共演意欲も豊富なうえに、ピアノという楽器の研究にも熱心だ。
 ピアノは演奏者にできる細工がほとんどない楽器だが、Zimermanは自宅にピアノを何台も置いて調律や、楽器構造を研究をしているという。要するにオタク気質。ギター小僧に近い感覚の持ち主で、そのあたりも好きだったりする。
 演奏そのものは、正統派とでも言うべきか、すっ飛んだ冒険はしないし、安心感がある。そして丁寧。あまりにも丁寧過ぎて、去年だったかテレビでベートーヴェンの「悲愴」を全楽章繰り返し有り演奏したとき、私は最後まで持たなかった。「早く弾けー!」

 そして、私がZimermanを語るとき、どうしても外せないのが彼が美男子だということだ。
 真に実力のある偉大なピアニストに、容姿は関係ない。オペラ歌手とも仕事の仕方が違う。さらに、容姿が派手に整っていると、評価の上で損をしかねないので、恐ろしい。
 Zimermanが19歳でショパンコンクール優勝したとき、そのトロンとした美男子振りと、70年代アイドルチックな髪型で、「ショパンの再来!」ともてはやされた。むろん、彼のピアノの実力,ポーランド国籍,そして容姿あってのことである。



 しかし、Zimermanは早々にあの綺麗な顔を髭で隠す手に出た。(そういう人を、他に少なくとも一人知っているような気がする。)
 クラシック関係の知人は、「あの可愛かったZimermanが、すっかり髭オヤジになっちゃって!」と嘆くのだが、ヒゲ免疫のある私は一向に気にしない。むしろ大歓迎である。



 Zimermanは、来月演奏会のために来日するそうだ。そのポスター見て、相変わらず美男子だなと感心した。しかも、今回の曲目は、ポーランドの巨匠が、Zimermanのために書いた協奏曲とのこと。当日、サントリー・ホールはさぞかし盛況であろう。

 「髭オッケー!」などと言いつつ。Zimermanの写真で一番の傑作は、これだと思う。



 これは狙いすぎ!クラシック界きっての伊達男カラヤンと、若き美男子Zimermanをこういう角度で配置すれば、そりゃもう誰だってイチコロさ!(死語?「萌え」って言うの?)
 曲目も良い。シューマンとグリーグ。この取り合わせも間違いがない。