南北戦争の終わり / テンチ家の兄弟(その11)2015/04/27 22:18

 テネシー軍と呼ばれる ― 要は西部戦線の残存南部連合群を率いたジョーゼフ・ジョンストンは、どのような手段でリーの降伏を知ったのだろうか。  南軍の電信はまだ機能していたのだろうか。それとも新聞にでも載ったか、伝令が来たか。むしろ、北軍のシャーマンから知らされたかも知れない。

 ともあれ、リーの降伏を知ったジョンストンは、シャーマンに降ることを決意した。
 南部連合国大統領デイヴィスは戦争の継続を指示しており、ジョンストンはそれに逆らうことになったということになっているが、その点の真相はよくわからない。

 最初の会見はリーの降伏の8日後,4月17日。場所はノース・カロライナ州ダーラムの、ベネット氏宅だった。ベネット氏もまた、アポマトックスのマクリーン氏と同じくこの戦争の被害を受けた人で、息子を亡くしていた。
 会見はいきなり緊張から始まったという。シャーマンが持参し、ジョンストンに見せた電報には、リンカーン死亡(4月15日)が記されていたのだ。
 この会見は、アポマトックスにおけるリーとグラントのそれとは異なり、ジョンストンが率いる兵だけではなく、南部連合軍全ての降伏について話し合われた。
 翌日18日には南部連合陸軍長官ブレッキンリッジが同席している。デイヴィスが戦争の継続を望んでいたかどうか分からないのは、この長官の存在のせいだ。閣僚が同席している以上、南部連合政府として降伏を意図していたのではないだろうか。

 24日にはグラントもダーラムに到着し、ジョンストンとの降伏交渉に加わった。そして合意がなされ、ノースカロライナ,サウスカロライナ,ジョージア,フロリダ各州のに残っていた南部連合軍は解散することになった。
 合計すると89271名。南北戦争で再多数の降伏兵士数だった。

 シャーマンは、降伏した南部軍兵士たちに、10日分の食料や、馬の飼料を提供した。さらに、市民への穀物などの提供も申し出ている。海への進軍で徹底的に南部の生活基盤を破壊し、その行為の代名詞ともなったシャーマンだが ― とにかく戦争は終わったのだ。
 ジョンストンは、シャーマンの寛大な措置に感銘を受けたらしい。戦後、二人は親しい友人となったという。

 テンチ家の兄弟 ― 兄のジョン・ウォルター・テンチ少佐と、弟のルービン・モンモランシー・テンチの戦争も終わった。
 彼らが所属していたジョージア州第一騎兵連隊は50人ほど、最後までテネシー軍にとどまっており、ジョンストンの降伏とともに武装解除、解散となった。
 彼らは間もなく故郷 ― ジョージア州ニューナンに帰っただろう。両親や妹たちの待つ故郷へ。ジョンは26歳、ルービンは21歳。大きな戦争と、敵対していたはずの大統領の死、これまでとは違うアメリカ、変わらず愛する故郷、でもこれまでとは、どこか違う故郷南部で、若い二人は改めて人生を歩み出した。

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