Marching through Georgia2013/10/17 20:41

 1864年7月1日、アトランタが陥落。西部戦線の北部連邦軍がどう振る舞うかについては、いくらか議論があった。
 南部連合の首都リッチモンドの南40kmピーターズバーグでは、南軍のリーが北軍グラントの包囲戦に耐えており、膠着状態が続いている。その状況で西部戦線の南軍テネシー軍はほぼ壊滅状態。アトランタさえ落としてしまえば、この方面の戦闘をおおかた終了させてしまうという選択もある。なにぶんにも、この戦争は内戦である。もともとの同胞を徹底的に叩きのめす必要はないという考え方である。
 一方、しぶとい南部の抵抗を封じるべきだという判断もあり、11月の大統領選挙に勝利して足下を固めたリンカーンも、その考えに傾いた。グラントにしても、それに反対する明快な理由はない。

 西部戦線の北軍を率いるウィリアム・テムカセ・シャーマンの作戦は、なかなか悠大なものだった。
 まず、62000の大軍をスローカムとハワードの二人を将とする二手に分け、アトランタを出発する。そして、二本の太い帯のようになってジョージア州を南東へ400km進み、大西洋に面した町サヴァンナを落とす。
 そして合流した軍勢で北上してサウス・カロライナ、ノース・カロライナを経由し、ヴァージニアのグラントと大合流しようと言うのである。
 この間、抵抗らしき抵抗はない。ではなぜ二手に分かれるかというと、南部深部の「生活」を破壊しながら進撃し、その産業基盤、ひいては南部の「力」そのものを削いでしまおうという意図があったのだ。
 鉄道を破壊し、農場を焼き払い、財産を没収する。戦争は兵士同士の戦場における戦闘だけではない、兵士の背後にある ― 非戦闘員の財産、生活の「すべて」が攻撃対象となる、 悲惨な近代的な戦争の始まりだった。

 シャーマンの海(海辺の町サヴァンナ)への進軍は、当然南部の人々に彼への、そして北軍への憎悪を植え付ける結果となった。そして第二次世界大戦時に、南部出身のアメリカ兵が「シャーマン型」戦車への搭乗を拒否したという有名な伝説が生まれることになる。
 映画「風と共に去りぬ」にも、スカーレット・オハラの家に兵士が侵入し、スカーレットがそれを射殺するシーンがあるが、これもまた「海への進軍」をあらわすシーンだ。

 シャーマンの海への進軍はアトランタを11月15日に出発。12月中旬にサヴァンナに迫った。サヴァンナには15000ほどの南軍がハーディのもと集結していたが、これは大した抵抗もせずにサヴァンナを明け渡した。
 サヴァンナ陥落は12月22日。シャーマンはリンカーン北部連邦大統領にこう打電した。

"I beg to present you as a Christmas gift the City of Savannah."
 「サヴァンナの町を、クリスマス・プレゼントとして差し上げます。」


 これに対し、リンカーンはこのように手紙で返事を返している。

 "Many, many thanks for your Christmas gift – the capture of Savannah. When you were leaving Atlanta for the Atlantic coast, I was anxious, if not fearful; but feeling that you were the better judge"
 「貴殿のクリスマス・ギフトを有り難く受け取りました。貴殿が大西洋に向かってアトランタを立ったとき、これは失敗するのではないかと心配しました。しかし、貴殿の判断は間違っていなかったと確信しています。」


 このシャーマンの海への進軍を歌った曲も作られた。"Marching Through Georgia" 
 
 “歌いながらアトランタを立ち、海へ向う そうしてジョージアを行くのさ―”

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