騎兵たちの活躍(テンチ家の兄弟 その8)2010/12/01 23:04

 テンチ家の兄弟 ― ジョン・ウォルター・テンチ(ベンモントの曾祖父)と、ルービン・モンモランシー・テンチは、ジョージア第一騎兵連隊に所属している。彼らは南部連合テネシー軍として、1862年年末から1863年の正月にかけて、マーフリーズボロ(ストーンリバー)の戦いに参加していた。
 この戦いで南軍は北進を阻まれ、冬の到来とともに西部戦線のテネシー方面はマーフリーズボロを挟んで膠着状態に入った。実に、半年ほども大きな動きがなかったことになる。

 無論、南北両国の首脳陣は戦争の長期化を歓迎せず、現場に対して早く攻撃に移れとせっついていた。
 南軍の方は、まずテネシー軍の司令官であるブラッグに人望が無さ過ぎで、軍組織の指揮系統にやや混乱が生じていた。南部連合大統領デイヴィスは個人的感情としてブラッグに肩入れしていたが、かといってこの膠着状態を放置しておくわけにもいかない。そこで、前年の半島作戦時に負傷して第一線の指揮から遠ざかっていたジョーゼフ・ジョンストンを、事態打開のために派遣した。かといって、別にテネシー軍の司令官が交代するわけでもない。ジョンストンは何をどうすれば良いのか、よく分からない状態に置かれ、この調整は失敗に終わる。
 一方、北部連邦カンバーランド軍の司令官ウィリアム・ローズクランズにも、問題があった。彼はいくらリンカーンや陸軍長官のハレックから、早くテネシー軍を攻撃して南部へ追いやれと催促されても、それをまともに行おうとはしなかったのである。リンカーンにしてみれば、その頃まだグラントがヴィックスバーグを落としておらず、西部戦線における戦場が大きく二つに分かれている状態は、気が気ではなかった。ローズクランズがグズグズしている間に、南部の補給が回復して、ヴィッグスバーグ方面がさらなる苦戦になっては敵わない。
 ローズクランズというのは、1861年南北戦争の初期に、ウェストバージニア方面で、マクレランのもと現場指揮を執った人物である。すなわち、テンチ家の兄弟のひとり、ジェイムズが戦死したときの敵方の将軍なのだ。と、なれば気分として有能かつ勇敢な将軍であってほしいのだが、どうも現実はそれほど上手くいかない。
 ローズクランズは、行動を起こさない理由をアレコレと上に説明しているが、その中の一つは、「自分が動くと、テネシー軍は西に転じて、グラントを脅かすだろう。自分が動かず、テネシー軍を釘付けにしていることによって、間接的にグラントを助けているのだ」という、よく分からないものだった。およそ、軍隊というものが対峙しているとき、眼前の敵の動きをみるや、そっぽへ走り出すような近代戦が存在するだろうか…?

 この体たらくのなか、トップはともかく、双方の騎兵部隊が独自に活発化し始めた。特に南軍は全体に占める騎兵の割合が多い。東部戦線のスチュアートなどもそうだが、南軍の方が北軍よりも騎兵の質,指揮官の質でやや勝っていた。当人たちにもその自覚があるようで、やや無茶な作戦もかなりやらかしている。
 南軍東部戦線で有名な騎兵指揮官は、まずネイサン・ベッドフォード・フォレスト。戦後の行動によって、その評価が難しくなる人物だが、この内戦中は、常に有能な騎兵指揮官だった。そして、ジョゼフ・ウィーラー。彼もスチュアートさながら、敵の背後を回る式の騎兵独特の活動を得意としていた。
 目立たない人物だが、ジョン・ペグラム少将という指揮官も居る。彼は、テンチ家の兄弟が所属するジョージア第一騎兵連隊などを連れて、1863年3月から4月にかけて、ケンタッキー方面への奇襲をかけている。これはあまり念の入った作戦ではなかったらしく、大した成果もないまま、同僚にけなされるなどもしたらしい。
 このケンタッキー方面への奇襲は、さらに6月下旬にかけて断続的に続いた。その中で6月15日にジョン・W・テンチが負傷するという記録がある。彼はその後も軍務につき続けているので、この時の怪我はたいしたものではなかったようだ。

 一方、ぺグラムの行動を味方ながらけなしていた人物のなかには、ジョン・ハント・モーガン准将がいた。彼は1863年7月に、「モーガンの襲撃」と呼ばれる騎兵による冒険的な軍事行動を行った。具体的にはオハイオ川を渡ってインディアナ州や、オハイオ州南部など、北部へと乗り込んだのだ。
 しかし、これは無謀すぎた。モーガンもろとも、北軍の捕虜になるというのが、その結末である。その後、モーガンは捕虜収容所から脱走するという、これまた冒険的な行動を成功させるが、南軍に復帰後も指揮官としての信頼は取り戻せないまま、1864年8月に戦死している。

 前述のジョンストンはアール・ヴァン・ドーン少将率いる騎兵をテネシー軍への援軍として、派遣していた。ドーンは小競り合いに駆けずり回っていたが、まだ南北本体軍が膠着状態にあった1863年5月、テネシー州スプリングヒルに置かれていた作戦本部で、頓死した。
 戦死ではない。ドーンがとある医者の妻と不倫関係になり、その医者によって、射殺されたのである。

 現場責任者はなんだかんだと動きが鈍く、各騎兵隊が独自に駆け回り、ある者は色恋沙汰の末に鉄砲で撃たれる。
 南北戦争の指揮官たちを見ていると、時々これがナポレオン以後の世界 ― 高度に近代化された軍隊の指揮官なのだろうかと、疑いたくなることが、ままある。

コメント

_ dema ― 2010/12/05 21:00

南北戦争で戦った南北両軍の将軍たちは、歴史上、なかなかユニークでした。
優秀な将軍、凡庸な将軍、いろいろいましたが、総じて健康に問題がある病気持ちの将軍が多かったです。奇人変人も多かったですね。
あと、これ以前も、これ以後もないくらい「ひげ面」が多いです。

元々が素人同士の戦争、近代的な軍隊組織とはいえ、士官は「親方」みたいな空気もあったのかもしれませんね。

_ NI ぶち ― 2010/12/06 22:05

>dema
凡庸なだけならまだ良いのですが、凡庸なくせに我が強くて名誉欲が張っていたりして。やめて、被害が多すぎる!日露戦争確認ついでに、動員された人員の数を見たら、南北戦争のべらぼーな多さにぶっとびました…。おいおい、大丈夫かこの内戦…大丈夫じゃないよこの内戦…
ひげ率の高さは、異常ですね。リー程度に丹精に生やせばよいのだけど、ひたすらボー!…にするのが流行りだったようで。(CFBのジョージみたいなもんか)スチュアートなんて、若造の癖に、見た目的にはジャクソンと変わらないじゃないか!

あー…日露戦争ついでに、私も叫んでおこう。

兄さんが足りーーーーん!!!!

他にも足りないところだらけだし、要らんものが山盛りだして発狂しそうですが、一言で我慢しろと言われれば、「兄さんが足りん!」…です。
(「兄さん」は、「あにさん」と読むこと)

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