The Gettysburg Address ― 2010/07/16 23:59
ゲティスバーグから撤退した南軍が北軍にそれほど妨害されることもなく、ポトマック川を渡ってバージニアに戻ったことは、リンカーンをおおいに怒らしめた。リーと、彼が率いる南軍を壊滅させることができなかった - チャンスはあったのに ― そのことに、戦闘的意義よりも、政治的な意義で重大なも問題を見出していたからだ。
当然、北軍を率いたミードはゲティスバーグでの戦勝将軍でもあるにもかかわらず、厳しい非難に晒された。
北部連邦はこの状況を打開するためにも、1863年秋までポトマック川を渡ってリー率いる南軍に攻撃を仕掛けようと試みた。しかし、故郷に戻り、防御に入ったリーと南軍を破るのは容易なことではなく、結局これといった戦果をあげることなしに、冬を迎えた。小氷期の末期だった当時の寒さは、現在の比ではない。さらに装備の問題もあって当時、冬季に派手な戦闘は基本的に行われなかった。
ゲティスバーグの戦いから4ヶ月後。ゲティスバーグの戦場近くには、国立戦没者墓地が作られた。その奉献式(開場セレモニーのようなもの)には、大統領リンカーンも招かれた。
ここでのメイン・スピーチは、エドワード・エヴァレットが行った。彼は下院議員、州知事、イギリス公使、ハーバード大学学長などを務めた人物で、その演説は2時間にも及んだ(当時の演説会ではこの程度の長さは普通だったらしい)。
一方、リンカーンは客として短いスピーチを依頼され、およそ2分ほどの短いスピーチを、静かな口調で終えた。彼が演説している最中の写真は残っていない。とにかくあっという間に終わった。別に派手な展開は起こらなかった。
しかし、取材していた複数の新聞記者たちがその短い演説を書き取り、新聞に掲載されたことにより、この簡潔な演説は広く知れ渡るようになった ― すなわち、「人民の、人民による、人民のための政治 government of the people, by the people, for the people 」が特に有名な、ゲティスバーグ演説である。
極めて短い演説なので、ネットは簡単に全文翻訳で読むことができる。
時間差で起こったこの演説の劇的な効果を、リンカーンは計算していたのだろうか。おそらく、偶然だろう。
ともあれ、北軍が華々しく勝ったわけではないものの、後世から見れは一つのターニング・ポイントであり、結局南北戦争全体の規模としては最大級の激戦だったゲティスバーグの戦場跡地で、この演説が行われたという状況の効果は絶大だった。しかも、短く、簡潔な演説であるところも重要だ。その場は墓地の奉献式であり、議会で意地悪な議員たちを相手にしているのではない。多くの「一般人」のために、添え物程度に短く簡潔な演説にしたのが、功を奏した。要するに分かりやすいのである。
さらに、強い政府を伝統的に嫌うアメリカ国民にとっても、「人民の、人民による、人民のための政治」という表現が、実に巧妙に働いた。実際のリンカーンの大統領としての仕事は、戦時だったためかなりの剛腕ぶりだったが ―
リンカーンは、この短い演説が及ぼした影響の強さを、あまり知ることはなかっただろう。ゲティスバーグ演説から一年半も経たないうちに、彼は命を落とすことになったのだから。
終わってみると北軍とミードの詰めの甘さが余韻として残るゲティスバーグだが、結果が南軍の負けだったことには違いない。リンカーンがこの微妙な勝利にある程度の意義を感じていたのと同様に、リーもゲティスバーグの結果がもたらす重大な事態を自覚していた。
リーはこの敗戦の責任は自分にあるとして、南部連合大統領デイヴィスに、バージニア軍司令官からの辞任を申し出たが、これは受理されなかった。デイヴィスは個人的にもリーがお気に入りだったし、他にリーの後を任せる人材も南軍にはなかった。
南軍の中では「だれのせいで負けたのか」というやや次元の低い ― 後世の人間にしてみれば、社会・政治状況からして負けてしかるべきなのだから ― 議論がいくらか起こった。その責任論攻撃の一端は、戦場に遅参したスチュアートに向けられた。
スチュアートは、ストーンウォール・ジャクソンが欠けた後、その穴を埋めるために中将への昇格を期待していたが、ゲティスバーグでその機会を逸した。彼が昇格しなかったことは、事実上の懲罰のように受け取られた。
それでも南部は、挽回の機会はあると思っていた。まだ完全に打ち負かされたわけではない、大将にはカリスマ性のあるリーが、まだ居てくれている。スチュアートの華々しい騎兵も居る。北軍にはたいした指揮官もいなさそうなので、春が来れば、またやってやれると、南部は信じて、物資不足の冬をやり過ごそうとしていた ―。
当然、北軍を率いたミードはゲティスバーグでの戦勝将軍でもあるにもかかわらず、厳しい非難に晒された。
北部連邦はこの状況を打開するためにも、1863年秋までポトマック川を渡ってリー率いる南軍に攻撃を仕掛けようと試みた。しかし、故郷に戻り、防御に入ったリーと南軍を破るのは容易なことではなく、結局これといった戦果をあげることなしに、冬を迎えた。小氷期の末期だった当時の寒さは、現在の比ではない。さらに装備の問題もあって当時、冬季に派手な戦闘は基本的に行われなかった。
ゲティスバーグの戦いから4ヶ月後。ゲティスバーグの戦場近くには、国立戦没者墓地が作られた。その奉献式(開場セレモニーのようなもの)には、大統領リンカーンも招かれた。
ここでのメイン・スピーチは、エドワード・エヴァレットが行った。彼は下院議員、州知事、イギリス公使、ハーバード大学学長などを務めた人物で、その演説は2時間にも及んだ(当時の演説会ではこの程度の長さは普通だったらしい)。
一方、リンカーンは客として短いスピーチを依頼され、およそ2分ほどの短いスピーチを、静かな口調で終えた。彼が演説している最中の写真は残っていない。とにかくあっという間に終わった。別に派手な展開は起こらなかった。
しかし、取材していた複数の新聞記者たちがその短い演説を書き取り、新聞に掲載されたことにより、この簡潔な演説は広く知れ渡るようになった ― すなわち、「人民の、人民による、人民のための政治 government of the people, by the people, for the people 」が特に有名な、ゲティスバーグ演説である。
極めて短い演説なので、ネットは簡単に全文翻訳で読むことができる。
時間差で起こったこの演説の劇的な効果を、リンカーンは計算していたのだろうか。おそらく、偶然だろう。
ともあれ、北軍が華々しく勝ったわけではないものの、後世から見れは一つのターニング・ポイントであり、結局南北戦争全体の規模としては最大級の激戦だったゲティスバーグの戦場跡地で、この演説が行われたという状況の効果は絶大だった。しかも、短く、簡潔な演説であるところも重要だ。その場は墓地の奉献式であり、議会で意地悪な議員たちを相手にしているのではない。多くの「一般人」のために、添え物程度に短く簡潔な演説にしたのが、功を奏した。要するに分かりやすいのである。
さらに、強い政府を伝統的に嫌うアメリカ国民にとっても、「人民の、人民による、人民のための政治」という表現が、実に巧妙に働いた。実際のリンカーンの大統領としての仕事は、戦時だったためかなりの剛腕ぶりだったが ―
リンカーンは、この短い演説が及ぼした影響の強さを、あまり知ることはなかっただろう。ゲティスバーグ演説から一年半も経たないうちに、彼は命を落とすことになったのだから。
終わってみると北軍とミードの詰めの甘さが余韻として残るゲティスバーグだが、結果が南軍の負けだったことには違いない。リンカーンがこの微妙な勝利にある程度の意義を感じていたのと同様に、リーもゲティスバーグの結果がもたらす重大な事態を自覚していた。
リーはこの敗戦の責任は自分にあるとして、南部連合大統領デイヴィスに、バージニア軍司令官からの辞任を申し出たが、これは受理されなかった。デイヴィスは個人的にもリーがお気に入りだったし、他にリーの後を任せる人材も南軍にはなかった。
南軍の中では「だれのせいで負けたのか」というやや次元の低い ― 後世の人間にしてみれば、社会・政治状況からして負けてしかるべきなのだから ― 議論がいくらか起こった。その責任論攻撃の一端は、戦場に遅参したスチュアートに向けられた。
スチュアートは、ストーンウォール・ジャクソンが欠けた後、その穴を埋めるために中将への昇格を期待していたが、ゲティスバーグでその機会を逸した。彼が昇格しなかったことは、事実上の懲罰のように受け取られた。
それでも南部は、挽回の機会はあると思っていた。まだ完全に打ち負かされたわけではない、大将にはカリスマ性のあるリーが、まだ居てくれている。スチュアートの華々しい騎兵も居る。北軍にはたいした指揮官もいなさそうなので、春が来れば、またやってやれると、南部は信じて、物資不足の冬をやり過ごそうとしていた ―。
コメント
_ dema ― 2010/07/19 20:02
_ NI ぶち ― 2010/07/21 22:39
>demaさん
おお、スポーツに例えるとわかりやすいですね!結局は優勝候補の一角 - つまり、政治的、経済的、情勢的、要するに実力が勝るところが、勝つし。
本当に、政治的作用としては、ほとんど南部はリンカーンに圧倒されてますよね。デイヴィスはリンカーンの敵じゃないし…。
「名声と実績がある者のみが、『敗戦はすべて私の責任だ』と言うことができる」…!まったく同意です!バーンサイドやフッカーがこんなセリフを言おうものならぶっ飛ばされそうですし、マクレランだったら…いや、あいつは絶対に言わないな、こんなセリフ(笑)。
おお、スポーツに例えるとわかりやすいですね!結局は優勝候補の一角 - つまり、政治的、経済的、情勢的、要するに実力が勝るところが、勝つし。
本当に、政治的作用としては、ほとんど南部はリンカーンに圧倒されてますよね。デイヴィスはリンカーンの敵じゃないし…。
「名声と実績がある者のみが、『敗戦はすべて私の責任だ』と言うことができる」…!まったく同意です!バーンサイドやフッカーがこんなセリフを言おうものならぶっ飛ばされそうですし、マクレランだったら…いや、あいつは絶対に言わないな、こんなセリフ(笑)。
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ここしばらくはワールドカップのサッカーばかり見てました。必ずしも上の方が勝つとは限らないのが、このスポーツの魅力の1つです。全員でしっかり守って、相手の良さをつぶす、そして勝負なしの引き分けに持ち込むか、あわよくば逆襲一発で勝つ、これで成功したチームがけっこうありました。(日本もそのひとつ)
南北戦争における南軍の立場はまさにこれでした。でも、奴隷制度対反奴隷制度という図式を薄める努力をもっとするべきだったとは思います。イギリスやフランス、それに北部世論を動かすために。
リーの北部侵攻は、サッカーのゲームでいうなら、鉄壁の守りで相手の攻撃を防ぎまくっていたチームが、いきなり人数をかけて波状攻撃をかけたようなものです。(でも、最後は相手の逆襲を受けてヒヤリとしますが)
リンカーンの演説は、南軍攻勢による心理的効果を半減させましたね。
ところで、またまたサッカーがらみになりますが、ワールドカップで1次リーグ敗退した(前回優勝の)イタリアのリッピ監督は、「これはすべて私の責任だ。」とインタビューで言いました。
ゲティスバーグのリーと同じことを言いましたね。
私はこの敗者の弁を好感を持って聞きました。
ちょっと意地悪く考えてみると、名声と実績があるから言える言葉なのかなという気もします。