テンチ家の兄弟(その7)2009/05/09 23:38

 昨日の記事には、写真を一枚、追加している。

 1862年秋、南部連合軍を率いるブラッグはケンタッキー作戦を成果の得られぬまま終了し、その長大な移動は単なる徒労となった。
 以前からブラッグは評判の良くない将軍だったため、彼を贔屓にする南部連合大統領デイヴィスも、人事的に何もしないわけないは行かなかった。そこで、5月の半島作戦で負傷し、東部戦線司令官をリーに取って代われていたJ.E.ジョンストンを、西部戦線の司令官に据えた。テネシーに展開するブラッグと、ミシシッピー州に展開するペンパートンの上にジョンストンを置いたわけだが、そもそもデイヴィスとジョンストンの人間関係が悪く、この組織はうまく機能しなかった。
 結局は、引き続きテネシー軍をブラッグが指揮することに変わらなかったのである。

 ケンタッキー州への展開をあきらめたブラッグは、テネシー州都ナッシュヴィル奪還を意図して、チャタヌーガから北西に進軍した。目指すは、ストーンズ川東の町マーフリーズボロ。小さな町だが、ナッシュヴィルを落とすための要衝で、これまでにも何回か小競り合いがあった。1862年7月には、テンチ家の兄弟が所属するジョージア州第一騎兵隊がここでの戦闘に参加し、ルービン・モンモランシー・テンチが負傷している。

 今回の作戦では、ブラッグが自ら南軍37000を率いて1862年12月にマーフリーズボロに入った。
 一方、ローズクランツ(ジェイムズ・テンチが戦死した、ヴァージニア作戦の北軍司令官の一人)率いる北軍43000は、ナッシュヴィルからクリスマス明けに南下し、ストーンズ川の西岸に布陣。大晦日を目の前にして、両軍はストーンズ川を挟んで対峙した。
 12月29日まで、静かな状態が続いた。両軍は1km以内の位置で布陣していたが、お互いの音楽隊が演奏の交換を行って、兵士たちの心を慰めた。北軍は「ヤンキードゥードゥル(日本では『アルプス一万尺』で知られている曲)」、南軍は「ディキシー」などを演奏する。そして両軍が「ホーム・スィート・ホーム(埴生の宿)」をともに演奏し、兵士たちも共に歌った。

 ブラッグとローズクランツは、奇しくも同日に攻撃を設定していた。違っていたのは、攻撃開始時刻。ブラッグの南軍の方が、1時間早かった。1962年の最後の日の朝6時。南軍が北進を開始し、まず北軍の右翼を圧倒し、北軍の陣形は一気に圧縮された形になった。
 しかし、1863年の初日には南軍の猛攻が止み、北軍は立て直しに成功。1月2日には逆に北軍がストーンズ川を渡って南軍の右翼を攻撃。こうなると、南軍は挟み撃ちに遭ってしまう。ブラッグはこの作戦の限界を見出し、1月2日の夜には南への撤退を始めた。
 先制攻撃を受けて危機に瀕していた北軍にとって、南軍の撤退は幸運なことではあったが、これを追撃する余力もなかった。
 死傷者は南北あわせて25000。南北戦争全般において、もっとも死傷率の高い戦いだった。南軍側では町の名前を取って「マーフリーズボロの戦い」,北軍側では川の名前を取って「ストーンズリバーの戦い」と呼ぶ。
 結局、この戦い自体は引き分け。南軍にとっては、ナッシュヴィル奪還に失敗したことになった。

 テンチ家の兄弟が所属するジョージア州第一騎兵隊は、この戦いに参加したことが記録されている(ただし、南軍ではホイーラーの騎兵隊が北軍の背後を回って後方撹乱作戦を行っていたが、これに参加していたわけではなさそうだ)。
 両軍がともに音楽を奏でたエピソードで思い出したのが、ジョン・ウォルター・テンチ(ベンモントの曽祖父)が戦場にフィドルを持って行った話。1862年という年が終わろうとする戦場で23歳のジョン・テンチも、音楽隊の演奏や、兵士たちの歌声とセッションを楽しんだのだろうか。

(つづく)