ジェブ・スチュアート(その1)2009/03/08 22:02

 このブログに、なぜ南北戦争記事が上がるのか。忘れそうになるので、時々確認した方が良いかもしれない。

 トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズの中心メンバーである、ベンモント・テンチのルーツを探ってみたところ、彼の曽祖父ジョン・ウォルター・テンチは、南北戦争時に南軍の騎兵少佐として活躍したことが分かった。その肖像はゲインズヴィルのテンチ家のリビングに飾ってあり、レコード・デビューを志したマッドクラッチ(TP&HBの前身)のデモ・レコーディングを見守っていた。ドキュメンタリー映画 “Runnin’ down a dream” にも、一瞬だけ映るシーンがある。
 更に調べると、ジョン・テンチ少佐の二人の弟も共に、南北戦争に従軍していることが分かった。彼らの活躍の場は主に西部戦線だが、ここだけに注目しては南北戦争の全体は見渡せない。と、言うわけで東部戦線も含めた南北戦争の展開を、自分の備忘録も兼ねて記すことにした。

 私が歴史に魅力を感じる時、たいてい魅力的な人物が登場する。それがロバート・E・リーであり、ストーンウォール・ジャクソンなのだが、さらにもう一人、ジェブ・スチュアートを忘れるわけにはいかない。

 1833年バージニア州生まれ。本名ジェイムズ・イーウェル・ブラウン・スチュアート(James Ewell Brown Stuart)。合衆国陸軍士官学校ウェスト・ポイントでの愛称は「ビューティ」(「いいやつ」であり、美男という意味ではない)だったが、騎兵として任務につくころには、名前のイニシャルをつなげて、「J.E.B」と呼ばれるようになっていた。

 スチュアートが士官学校に在籍中、校長だったリーと個人的に親交を深めた。たびたびリーの自宅を訪問し、その妻や娘たちにも好意を持たれている。さらに、リーの長男,通称ルーニーや、甥のフィッツヒューとは、親友の間柄だった。
 何と言っても、スチュアートはリーを父のように慕い、リー自身もスチュアートをもう一人の息子として愛していた。1859年、ハーパーズ・フェリーでジョン・ブラウンの蜂起が勃発したとき、その鎮圧にあたったリーの副官に、スチュアートは志願している。

 南北戦争開戦時、スチュアートはリーと同じように、故郷バージニアと行動を共にした。奴隷制度に関しても、リーと同じく個人的にはあまり賛成ではなかったようだ。
 彼は騎兵連隊の将としての才能に恵まれていた。万事積極的で、見通しと鼻が利き、頭の回転が速くて、冒険を好む。その活躍は少数の機敏な騎兵で、北軍の大軍を翻弄するという派手なもので、戦争前半の南軍の善戦におけるスチュアートの役割は大きなものだった。
 リーはスチュアートの使い手としては最高の指揮官で、次々に困難ではあっても、スチュアートの好きそうな派手な任務を与え、成果を得た。騎兵という戦力の特色である偵察行動はほぼ完璧で、リーにとって右腕がストーンウォール・ジャクソンであれば、その両目こそがジェブ・スチュアートだった。
 マクレラン率いる北軍がリッチモンドを落とそうとした半島作戦では、なんとスチュアートの騎兵は北軍の布陣全体の周りをぐるりと一周してみせるという離れ業をやってのけ、その名が知れ渡った。その派手な行動は同時に、リーに北軍の状況の詳細情報をもたらし、南軍を勝利へと導いた。
 メリーランド作戦でも機敏に働き、アンティータムの戦いは北軍の勝利ではあったものの、何度か北軍本体の間をすり抜けてみせた。大規模な戦闘で南軍が負けはしたものの、マクレランの詰めの甘さと共に、スチュアートの活躍が南軍の精神的損害をいくらか軽減したに違いない。

 派手な活躍の上に、明るい人柄でリーにも愛されたスチュアートは、異例の速さで出世した。彼は1862年にたったの29歳で少将にまでなっている。頭の固い南軍のお歴々方の中には、それを苦々しく思っていた者もあるようだが、ジョーゼフ・ジョンストンなどは好意的だった。これは、スチュアートの性格の明さや、やや子供じみた英雄的な事を好む屈託のなさのせいでもあるだろう。
 万事、派手で華やかな事が好きなスチュアートは、自分の騎兵連隊の衣装も華麗に飾り、駐屯地では陽気な楽団を招いては士気を高めた。
 彼は連隊の指揮官ではあったが、周囲の副官も同世代の仲間で、フィッツヒュー・リーもその一人だった。さながら騎兵首脳部は若者のロック・バンドのような乗りで、スチュアートこそ適任のフロント・マンだった。
 
 スチュアートを見るにつけ、歴史には時々この手の人物が現れることに気づかされる。若く、勢いを駆った軍事的才能に恵まれ、瞬く間に戦績を上げるタイプだ。その存在は輝かしい陽性のものと言えるだろう。
 古代ギリシアのアレクサンドロス大王、古代中国の霍去病、中世イングランドのブラック・プリンスやヘンリー五世、そして日本では源義経などがその典型だろう。  
 彼らにもう一つ共通することは、その戦績の後に続く安定した時代を謳歌することなく、または負けた側に属した人も居る。そして、全員が若くして亡くなった(ブラック・プリンスは若死と言うべきかは微妙だが、国王になることなく父王より先に没した)。
 ジェブ・スチュアートもまた、南北戦争の終結を見ずに、わずか31歳で戦死する運命にある。

(この項つづく)

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