ゲイタレード2009/03/04 21:43

 むかしむかし、私が子供のころ。外国から来た「スポーツ・ドリンク」として、ゲイタレードは眩しい存在だった。
 その後、日本の飲料メーカーも続々とスポーツ・ドリンクを発売し、ゲイタレードは押されぎみとのこと。それでも、今でもよく見かけるし、テレビCMも格好良い。

 ゲイタレードのふるさとは、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズと同じ、フロリダ州ゲインズヴィルだ。
 マイク・キャンベルはフロリダ大学進学のためにゲインズヴィルにやってきたのだが、トムさんに出会ったが最後、強引にバンドに引き込まれて、進学は実現せずじまいだった。その、マイクが行き損ねたフロリダ大学の研究室で、ゲイタレードは生まれた。大学のフットボール・チーム,フロリダ・ゲイターズのために、開発されたのだ。
 「ゲイタレード」という名前は、「ゲイターズ」と、「エイド(飲み物を表す語)」の合成である。
 ゲイタレードのパッケージ・デザインは、ゲイターズのオレンジ地に緑のワニというデザインを写したもの。



 「ゲイターズ」はフットボールだけではなく、フロリダ大学のスポーツ・チームに共通の名前でもある。
 バスケット・ボール・チームも「フロリダ・ゲイターズ」。彼らのホーム・アリーナがオコネル・センターで、RDADに収録された、TP&HBのデビュー30周年記念ライブが行われた所というわけ。
 マイクがこのライブで、ゲイターズのマスコットをデザインしたギターを弾いている。
 "You wreck me" のみならず、スローで抒情性豊かな"Southern Accents"でも、あのワニギターが活躍。それはサービスであると同時に、南部という、彼らのルーツを表現する手段なのかも知れない。

ジェブ・スチュアート(その1)2009/03/08 22:02

 このブログに、なぜ南北戦争記事が上がるのか。忘れそうになるので、時々確認した方が良いかもしれない。

 トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズの中心メンバーである、ベンモント・テンチのルーツを探ってみたところ、彼の曽祖父ジョン・ウォルター・テンチは、南北戦争時に南軍の騎兵少佐として活躍したことが分かった。その肖像はゲインズヴィルのテンチ家のリビングに飾ってあり、レコード・デビューを志したマッドクラッチ(TP&HBの前身)のデモ・レコーディングを見守っていた。ドキュメンタリー映画 “Runnin’ down a dream” にも、一瞬だけ映るシーンがある。
 更に調べると、ジョン・テンチ少佐の二人の弟も共に、南北戦争に従軍していることが分かった。彼らの活躍の場は主に西部戦線だが、ここだけに注目しては南北戦争の全体は見渡せない。と、言うわけで東部戦線も含めた南北戦争の展開を、自分の備忘録も兼ねて記すことにした。

 私が歴史に魅力を感じる時、たいてい魅力的な人物が登場する。それがロバート・E・リーであり、ストーンウォール・ジャクソンなのだが、さらにもう一人、ジェブ・スチュアートを忘れるわけにはいかない。

 1833年バージニア州生まれ。本名ジェイムズ・イーウェル・ブラウン・スチュアート(James Ewell Brown Stuart)。合衆国陸軍士官学校ウェスト・ポイントでの愛称は「ビューティ」(「いいやつ」であり、美男という意味ではない)だったが、騎兵として任務につくころには、名前のイニシャルをつなげて、「J.E.B」と呼ばれるようになっていた。

 スチュアートが士官学校に在籍中、校長だったリーと個人的に親交を深めた。たびたびリーの自宅を訪問し、その妻や娘たちにも好意を持たれている。さらに、リーの長男,通称ルーニーや、甥のフィッツヒューとは、親友の間柄だった。
 何と言っても、スチュアートはリーを父のように慕い、リー自身もスチュアートをもう一人の息子として愛していた。1859年、ハーパーズ・フェリーでジョン・ブラウンの蜂起が勃発したとき、その鎮圧にあたったリーの副官に、スチュアートは志願している。

 南北戦争開戦時、スチュアートはリーと同じように、故郷バージニアと行動を共にした。奴隷制度に関しても、リーと同じく個人的にはあまり賛成ではなかったようだ。
 彼は騎兵連隊の将としての才能に恵まれていた。万事積極的で、見通しと鼻が利き、頭の回転が速くて、冒険を好む。その活躍は少数の機敏な騎兵で、北軍の大軍を翻弄するという派手なもので、戦争前半の南軍の善戦におけるスチュアートの役割は大きなものだった。
 リーはスチュアートの使い手としては最高の指揮官で、次々に困難ではあっても、スチュアートの好きそうな派手な任務を与え、成果を得た。騎兵という戦力の特色である偵察行動はほぼ完璧で、リーにとって右腕がストーンウォール・ジャクソンであれば、その両目こそがジェブ・スチュアートだった。
 マクレラン率いる北軍がリッチモンドを落とそうとした半島作戦では、なんとスチュアートの騎兵は北軍の布陣全体の周りをぐるりと一周してみせるという離れ業をやってのけ、その名が知れ渡った。その派手な行動は同時に、リーに北軍の状況の詳細情報をもたらし、南軍を勝利へと導いた。
 メリーランド作戦でも機敏に働き、アンティータムの戦いは北軍の勝利ではあったものの、何度か北軍本体の間をすり抜けてみせた。大規模な戦闘で南軍が負けはしたものの、マクレランの詰めの甘さと共に、スチュアートの活躍が南軍の精神的損害をいくらか軽減したに違いない。

 派手な活躍の上に、明るい人柄でリーにも愛されたスチュアートは、異例の速さで出世した。彼は1862年にたったの29歳で少将にまでなっている。頭の固い南軍のお歴々方の中には、それを苦々しく思っていた者もあるようだが、ジョーゼフ・ジョンストンなどは好意的だった。これは、スチュアートの性格の明さや、やや子供じみた英雄的な事を好む屈託のなさのせいでもあるだろう。
 万事、派手で華やかな事が好きなスチュアートは、自分の騎兵連隊の衣装も華麗に飾り、駐屯地では陽気な楽団を招いては士気を高めた。
 彼は連隊の指揮官ではあったが、周囲の副官も同世代の仲間で、フィッツヒュー・リーもその一人だった。さながら騎兵首脳部は若者のロック・バンドのような乗りで、スチュアートこそ適任のフロント・マンだった。
 
 スチュアートを見るにつけ、歴史には時々この手の人物が現れることに気づかされる。若く、勢いを駆った軍事的才能に恵まれ、瞬く間に戦績を上げるタイプだ。その存在は輝かしい陽性のものと言えるだろう。
 古代ギリシアのアレクサンドロス大王、古代中国の霍去病、中世イングランドのブラック・プリンスやヘンリー五世、そして日本では源義経などがその典型だろう。  
 彼らにもう一つ共通することは、その戦績の後に続く安定した時代を謳歌することなく、または負けた側に属した人も居る。そして、全員が若くして亡くなった(ブラック・プリンスは若死と言うべきかは微妙だが、国王になることなく父王より先に没した)。
 ジェブ・スチュアートもまた、南北戦争の終結を見ずに、わずか31歳で戦死する運命にある。

(この項つづく)

ジェブ・スチュアート(その2)2009/03/09 23:39

 日本語で南北戦争の本を読もうとしても、選択肢は限られる。日本語で伝記を読むことができるのはせいぜいリンカーンくらいで、その他は皆無と言って良い。
 英語の本となれば、もちろん星の数ほどの本がある。ジェブ・スチュアートに関しては、Emory M. Thomasの、” Bold Dragoon / The Life of J.E.B. Stuart” を選んだ。
 表紙こそ劇画調だが、中身はいたってしっかりとした伝記になっている。スチュアートの誕生から、ウェストポイント時代、合衆国陸軍時代の活躍、そして南北戦争、その死までを、多くの資料を駆使して描いている。小説のような面白さもあるし、出典もしっかりしている。これはかなりの良書かも知れない。



 スチュアートの人生の物語において、印象に残るのは彼を取り巻く人々との関係である。
 まず、父として敬愛したリーとの関係。リーもスチュアートをもう一人の息子として愛していた。スチュアートの活躍をリーは褒めつつも、ハラハラしていたような感覚が、行間から伝わってくる。スチュアートは至って明快で、リーの手となり、足となり、そして何よりも目として働き、喜々として飛び回っていた。
 ある時、野外指令部に居たリーの元に、スチュアートが報告にやって来た。その時点では、リーにはスチュアートに与えるべき指示が無い。スチュアートは優秀な軍人としての素質の一つを生かし、すぐその場の地面に横なって睡眠を取り始めた。
 しばらくして、方針を定めるに至ったリーが「スチュアートは…」と言うと、眠っていたはずのスチュアートが、「はい、将軍。」と言って、きちんとリーの目の前に立っていた。

 スチュアートとは対照的に、非常に無口でおよそ愛想というものないストーンウォール・ジャクソンとの関係はと言うと、意外なことに親友の間柄だった。スチュアートの方が9歳も年下だ。上司と部下の間柄だったこともある。
 ジャクソンがその戦績に似合わぬみすぼらしい軍服を着ていると聞いて、美しい軍服を進呈した若い友人とは、スチュアートのことである。自分の連隊の成りを美しく飾り立てるスチュアートの趣味だが、ジャクソンもこの贈り物には大いに喜んだ。
 1862年初秋のメリーランド作戦終結後、南軍は各所で長期宿営地を築いていた。
 ある晩おそく、スチュアートは仲の良い副官のジョン・ペラム(若くて美しい容姿をしていた)と共に、ジャクソンのキャンプにやって来た。
 スチュアートはジャクソンのテントに入ると、ジャクソンが寝ているベッドに入り込んだ。寒い夜で、二人はずっと上掛けを巡ってバトルを繰り広げることになった。
 翌朝、スチュアートが起きてみると、ジャクソンが外で焚き火にあたっていた。
「おはようございます、ジャクソン将軍。いかがですか?」そうあいさつしたスチュアートに、ジャクソンが言った。
「スチュアート将軍、私はいつだって君に会えれば嬉しいけどね。まぁ、もうすこしマシな時間ってものがあるだろうが、とにかく会えれば嬉しいよ。ただ…」ジャクソンは足をさすりながら続けた。
「拍車がついたままのブーツで私のベッドに乗り込んで、夜じゅう騎兵隊の馬みたいに引きずりまわすのは止めてくれ。」

 同世代の誰よりも早く出世したスチュアートだが、彼を補佐する連隊の首脳陣も同世代の、友人たちがほとんどだった。そして、リーの長男ルーニーとも親友の仲で、ルーニーがスチュアートの騎兵連隊を訪問するとの報に接すると、さっそく「早く来いよ、一緒に寝うぜ」と、快活な手紙をよこした。
 ストーンウォール・ジャクソンの副官だったA.P.ヒルは、ジャクソンとの意見が合わずによく衝突を起こしていた。そのヒルもまた、スチュアートの親友だった。スチュアートは、愚痴るヒルの聞き役であり、ジャクソンとの間のとりなし役でもあった。

 妻のフローラは、まるでスチュアートの女性版のような人物だった。
 彼女は軍人の娘で社交界の花になろうとしたばかりの頃に、スチュアートと出会っている。特に美人というわけではないが、頭が良く、ギターを巧みに弾きこなし、さらに乗馬の名手だった。スチュアートが専門である乗馬の手ほどきをしようと思ったら、それどころではなかったのである。
 二人の間には三人の子供がおり、長男は父の名を継いでジェブと呼ばれた。娘の一人は、南北戦争中に幼くして病死し、その報に接したスチュアートを気絶せしめた。
 末の娘の名はバージニアだが、ミドル・ネームの「ペラム」は、前述のジョン・ペラムが若くして戦死したのを惜しんでつけたものだ。

 このようにスチュアートには、軍人としては良いことかどうか分からないが、死に対して繊細すぎる所があった。内心はともかく、動揺を外に表さないリーの域には、さすがに達していないのだろう。
 ペラムが死んだときや、親友のヴォン・ボークが重傷で意識不明に陥った時など、彼らの額に口づけして別れを悲しんでいる。
 スチュアートのこういう面が愛されたのであり、素直な感情の表れがまた、積極的な軍事作戦行動の源泉にもなっている。それは両刃の剣であり、この事がのちのゲティスバーグで、南軍の敗戦の一因として記憶されることになる。

Whatever2009/03/11 23:05

 野球が好きだ。
 テレビで見るのが好きで、やっていれば見てしまう。しかも世界一決定!…などと言われると、見ないわけにはいかない。
 週末からの野球中継にがっついていると、某飲料メーカーのアルコールCMを何十回とみるはめになった。即ち、オアシスの"Whatever" をほとんど一生分聞いたに違いない。

 "Whatever"は、オアシスが1994年に発表したシングル曲とのこと。
 出だしのメイン・メロディがニール・イネスの"How sweet to be an idiot"とそっくりだと言うのは、有名な話。詳しい経緯は知らないが、今では作曲者にニールの名前もクレジットされているそうだ。
 のちに、ニールはラットルズでの"Shangri-La" で、"Wahtever"を分かりやすく入れ込んだ。これは仕返しというよりは、いかにも彼らしいジョークなのだろう。

 確かに、出だしのコードとメロディは全く一緒。
 そして、"Whatever"という曲は、この第一主題を膨らまして一曲にしたに近い構造をしている。
 ともあれ、はっきりしているのは、"Whatever"が間違いなく名作であるということだ。
 ポピュラー音楽は、音も数も、コードも、リズムも限りがある。似た曲が存在するのは当然であって、大事なのはそれをどう聞かせるか。どう、説得力を持たせるか。

 しかも、ニール・イネスと、オアシス(の、眉毛兄弟)。…あまりにもビートルズが好き過ぎる両者が似るのは、ある意味で当然なのかも知れない。
 もしくは、どこかでニールの曲を聴いていたはずが、それと分からずに、頭の中に浮かんだメロディと錯覚するのも、向いている方向が同じである以上、あり得る現象と言えるのではないだろうか。
 さらに、"Whatever"の最大の特徴であるストリングスには、ELOで活躍した、ウィルフレッド・ギブスンが参加しているそうだ。
 ますますもって、ベクトルはビートルズに向いており、この曲が名曲である事を含めて、すべてが必然のように思える。

 ビデオを見ると、兄弟もだいぶ若い。私はオアシスに全然詳しくないので、他のメンバーはよく分からない。ストリングスの中に、ウィルフレッドの姿があるのかどうかは、さらに分からない。

3cm×4cmの幸せ2009/03/14 23:59

 私がトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズの存在を知ったのは、ジョージがきっかけで、もちろんザ・トラベリング・ウィルベリーズあってのことだった。
 最初に知識としてウィルベリーズの存在を知り、当時ほとんど洋楽だけだったMTVジャパンで、ウィルベリーズのビデオを発見できるまで、何十時間、何か月も粘った。そしてやっと"Handle With Care" のビデオを録画し、アルバム2枚を入手した。再販される前に市場に正規で出回っていた最後の盤に近かっただろう。
 しかし、当時はインターネットが発達する少し前で、それ以上にウィルベリーズに触れる機会はなかった。心底ウィルベリーズに惚れ込んだ私には、歯がゆい時代だった。
 特に、お気に入りの人となったトム・ペティに関しては、日本人のファンは自分一人きりに違いないと思いこむに難くない、情報飢餓状態だった。しかも、学生なので、CD1枚たりともた易くは入手できない。
 今では様々なメディアを通じて知り得る、ジョージとトムさんの友情で結ばれた楽しいエピソードの数々も、当時は知ることも叶わず、想像するしかなかった。

 そのころ、ビートルズのリバイバル・ブームが起こった。アンソロジー・プロジェクトが始まったのだ。
 そしてある日、私は書店でNewsweekの表紙に惹きつけられた。若きビートルズの四人の顔。私はなんとなくページをめくって、立ち読み…いや、英語は出来なかったので「立ち見」をした。
 その中に、ビートルズ時代と解散後の四人の事績をまとめた表があり、いくつか小さな写真があった。そして、私が目を見張ったことに、そこにはジョージと肩を組む金髪のお兄さん ― トム・ペティの写真があったのだ。

   

   せいぜい3cm×4cm程度の小さな写真だが、瞬時に購入するに十分な力を持っていた。それまで、ジョージとトムさんが同じ枠に収まっている画像は、CDジャケット程度しか見たことなかったのだから。
 この小さな小さな写真に、私は心ときめかせ、幸せな気持ちになった。きっと、この写真のトムさんとジョージと同じくらい、素敵な気分だったに違いない。

 この写真のキャプションには、ウィルベリーズ兄弟として、ジョージとトムさん、そしてディランの名前しか載っていない。スペースのせいだろう。日本の雑誌では、きっとこうはならなかっただろう。ジェフとロイにはちょっと気の毒だけど、特に当時の私には十分だったんだよね。

Get Up And Go2009/03/17 23:03

 野球を見て、オアシスを一生分聞かされたら、ラットルズが聞きたくなった(経緯は3月11日の記事を参照)。

 一応、ラットルズとは何か。日本語では、「ラトルズ」とも言う。
 The Rutlesは、イギリス人のコメディアンで、モンティ・パイソンの一人であるエリック・アイドルと、友人で仕事仲間でもあったニール・イネスがでっち上げた、架空の(?)ロックバンドである。要するに、ビートルズをそっくり真似た、パロディ・バンドである。
 パロディとは言え、クリエイターであるエリック・アイドルの作り上げたラットルズ像は実に良くできている。何せ、本家本元ビートルズの一人が、一味として加担していたのだから(もちろん、エリックの親友ジョージ)。モキュメンタリー "All you need is cash"など、ビートルズ・ファンなら見て絶対に損はしない。しかも、ポール・サイモン,ミック・ジャガーが本人役で登場し、他にも変な変装をしたアノ人とか、コノ人とが出没する。
 音楽は、ニールが全て作っており、いかにもビートルズっぽく、しかも名曲ぞろいというタダならぬ出来だ。ラットルズのアルバムは、私のお気に入りの一つである。
 ラットルズとして録音したのはニール・イネスと、リッキー・ファター、ジョン・ハルシー、そしてオリー・ハルソール。前者3人は、それぞれモキュメンタリーでも、ジョンもどき,ジョージもどき,リンゴもどきとして役柄を演じたが、ポールもどき役のオリー・ハルソールだけは、演技をしなかった。彼は歌も演奏も完璧で、しかも左利きだったのだが、残念ながらコメディアンではなく、演技は無理だったのである。
 しかも、ポールもどきともなると、キー・パーソンとしてのいじり甲斐もある。そこは、エリックがみずから口パクでポールもどきを演じて見せた。エリック自身も非常に優秀なミュージシャンではあったが、音楽制作はニールに任せていたし、オリーの声が気に入っていたのである。

 "Get Up And Go"は、"Get back"のパロディ・ソングで、イントロは完全に一緒。それにしても良い曲だ。モキュメンタリーでは、ルーフ・トップ・コンサートをこの曲で再現した。
 この映像のどこかに、ロン・ウッドが映っているらしい。例によって、私はうまく確認できていない。



 それにしても、この映像のエリック・アイドルは冗談抜きで格好良い。髪型も髭もばっちりきまって、細身の体にダーク・スーツが完璧。私はLet It Be期のポールが一番格好良いと思っているが、ラットルズもその点は同じようだ。

H.E. Early Tracks Vol. I2009/03/20 23:10

 去年発売されたホウイ・エプスタインのアルバム、[Early Tracks Vol. I ]を、遅ればせながら入手した。

 Howie Epstein - 日本語の表記では「ホウイ」が多いが、私が発音するときは「ハウイ」の方が多い。1955年ミルウォーキー生まれ。トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのベーシストであり、素晴らしいバック・ボーカルも聞かせてくれる才能豊かなミュージシャンだった。
 私が初めてTP&HBに触れたときの編成は、ハウイが居た - トムさんの言うところの「オリジナル・ファイブ」のころだった(結成当時の「オリジナル」ではないが、トム自身のTP&HB原風景であり、ベスト・メンバーらしい)。ビートルズ・ファンである私は、TP&HBの美しいコーラス・ワークに心を奪われた。それは、ハウイの素晴らしい声があってのことだった。
 まるで恋に落ちるがごとき勢いで、トムはハウイをバンドに引き込んだ。トムには、自分に必要な人と才能を正確に見極め、確実に手中に収める才能がある。
 トムと同時に歌うと、どっちがトムで、どっちがハウイか分からなくなるほどの、完璧なブレンド。しかもハウイには独特の響き - 地声でうたっているのに、倍音の多い響きで、高音を出すという才能があった。トムが惚れ込むのも無理もない。
 マイクも、音楽の面でハウイを語るとき、トムとの完璧なコーラスワークを挙げた。
 TP&HBにとって欠かせない重要人物だったハウイだが、悲しいことに2003年にドラッグのオーバードウズで亡くなった。1999年のアルバム[ Echo ] のころには、衰弱の度合を深めつつあったハウイを思い、ベンモントは"Swingin'"での歌声を示唆して、言葉を詰まらせた。

 [Early Tracks Vol. I]は、友人のPerry Lamekが、ハウイの若いころの録音をまとめてCDにしたもの。ハウイのMySpaceから、購入サイトにアクセスできる。



 このCDは手作り感満点の安っぽい作りである上に、70年代にハウイが自宅でカセット・テープに吹き込んだものなので音質も悪い。ところがその内容たるや、メジャー商業ベースで、大成功しているスターのデモ・トラックじゃないかと思うほどのシロモノなのだ。
 ハウイはティーンエイジャーのはずだが、その歌声は殆ど玄人で、いささかギョっとさせられる。しかも彼が作った曲はどれも明るく、ドライブ感満点で、エッジが利いている。凄まじい勢いで音の激流が、小さすぎる器になだれこんで溢れてしまうような ― 圧迫感さえある。
 そして、恐らくハウイ自身が最も力を入れたであろうポイント ― (オーバーダブによる?)コーラスの精緻な美しさ。ベース,ドラム双方が入っていない曲がほとんどだが、どうしても聞くのを止められない。

 ハウイ、しかもまだ少年のハウイ。「鳥のように歌う」- ミュージシャンとしての才能をすでに開花させ、TP&HBという最高のバンドに加わるための条件を、すでに備えていた。
 こういう人を、いわゆる「音楽の神様に愛された者」と言うのだろう。往々にして、この手の人はその神様に早いうちに命を召し上げられる ― ああ、そんな馬鹿な。そんな酷いことがあってたまるか。
 若きハウイの音楽に感動し、嬉しくなり、元気になって、そして彼の不在がとてつもなく悲しい。悲しい、悲しいエコーがいつまでも響いている。

N響アワーの司会2009/03/22 22:28

 N響アワーは、毎週日曜日の夜9時からNHK教育テレビで放送している、クラシック音楽番組である。この司会を13年つとめた作曲家,池辺晋一郎が交替することを、今日はじめて知った。

 私の記憶にあるもっとも古いN響アワーは、芥川也寸志となかにし礼が、ピアノの蓋にワイングラスか何かを置いてしゃべる「粋な時間」の風景だった。あまりにも古くて、別の番組と混同しているかも知れない。
 印象的だったのは、日本におけるモーツァルト研究の第一人者,海老沢敏先生が司会を担当していた時。私の高校,大学の校長,理事長であり、先生でもあったので身近な感じがした。

 そして、池辺晋一郎。これは名人選だった。彼の話は軽妙で分かりやすく、親しみやすくて、くだらないダジャレがつきまとう。特に、壇ふみとのコンビネーションが一番面白かった。壇ふみが「私のチャイ様!」などと言い出すので何かと思ったら、「チャイコフスキー様」のことだそうだ。
 私としては、池辺晋一郎にいつまでも担当していてほしいのだが、そうは行かないのだろう。4月からは池辺晋一郎と同じく作曲家の西村朗。バリ・ガムランの要素を取り入れた曲想などで知られる。年齢は、ベンモント・テンチと同じ。変に軽い人材でもないし、固すぎることもない。池辺晋一郎によると、話も面白いそうなので、期待している。

 池辺晋一郎の曲を日常的に耳にすることはなかなか無い。現代クラシックとはそうしたものである。ただ、彼の場合映画やテレビの音楽も数多く手掛けている。中でも有名なのが、大河ドラマ「独眼竜政宗」だろう。私もこの曲が大好きである。



 ひとことで言って格好良い。特にムーグシンセサイザーの(矛盾する表現のようだが)泥臭い使い方や、カリヨンなども加えたパーカッションの強烈さ。そして全体にズルズルした拍子の取り方で、重さを格好良さで表現している。18秒目に現れる和音の急ブレーキなど、特にたまらない。
 iTunesで一曲買い出来れば、必ずゲットするだろう。

南北戦争を読む2009/03/25 23:00

 私がアメリカの歴史に興味を持ったきっかけは、ボブ・ディランだった。彼の自伝を読んで、自分のアメリカ史に関する知識の無さを痛感し、これはいかんと思ったのだ。
 しかし、アメリカの歴史を知るための手頃な本当言うのが、なかなか難しい。結局、アメリカの大学で歴史の教科書として用いられている本を読むことになった。日本語訳が出ていたのは本当に幸いだ。

アメリカの歴史(全6巻):メアリー・ベス・ノートン他著(三省堂)
 一冊が4000円以上するしとっくに絶版だが、自治体の図書館などにはだいたい置いてある。アメリカという国の成り立ちを理解するうえで非常に有益な、多面的な視点が秀逸。文章も読みやすく、図解なども見やすい良書。
 しかし、面白いのはせいぜい19世紀ぐらいまでで、20世紀になるとほとんど現代社会学の本になってしまい、娯楽としての歴史にはなっていない。

 アメリカの歴史全体像は、上記の本で把握することができるが、南北戦争に割かれる紙面は限られる。そこで、南北戦争にフォーカスした資料を探すのだが、これが大変なのだ。英語でならそれこそ無尽蔵ではないかというくらいあるが、日本語となるとぐっと選択肢が狭まる。
 私が入手したものを、紹介してみよう。もっと沢山、日本語の資料が出ることを祈りつつ…スチュアートなんて、特に面白そうだと思うんだけどな。

ウィキペディア
 「いきなりウィキかいッ!」と突っ込まれそうだが、やはり手軽で情報量が豊富なので便利。まずはこのサイトを駆使して南北戦争の基礎を固めないと、本を読んでも分からない。幸い英語の記事の日本語訳もたくさんある。もちろん、英語記事の確認も大事。デイヴィッド・ファラガットと、TP&HBの関係などは、英語記事にしか載っていなかった。
 ただ、ウィキペディアには注意するべき点も多い。これは今のところ研究論文の資料としては使えない。不正確な情報も多いので、気をつけなければならない。

戦争指揮官リンカーン:内田義雄著(文春新書)
 電信を用いて積極的に戦況に関わった、大統領リンカーンを活写した新書。主役はもちろんリンカーンだが、南北戦争を総合的にまとめた本としてもよく書かれている。南北戦争本の入門編としては最適だろう。
 リンカーンが、単に正直なだけの人物ではなく、優秀な大統領として十分計算と腹芸の効く「やり手」であるところなど、なかなか面白い。

南北戦争の歴史:B.I.ワイリー著 (南雲堂)
 上記「戦争指揮官リンカーン」の資料であり、日本語訳も出てくるありがたい本…の、はずだったが、これは「看板に偽りあり」。原題は「The Road to Appomattox アポマトックスへの道」。南部連合が負けるべくして負けたということを、デイヴィス(南部連合国大統領)の短所をはじまりとして、延々と愚痴のように書き連ねて説明している。
 これはこれで資料的価値があるのだが、歴史を娯楽としている身としては、全然面白くない。残念ながら、私はほとんど参考にしていない。

南北戦争 49の作戦図で読む詳細戦記:クレイグ・L・シモンズ著 (学研M文庫)
 アメリカの海軍兵学校で教鞭をとる著者が、南北戦争の主な戦闘を図解したテキストが元。これは素晴らしい!一番面白い資料で、何度か繰り返して読んだ。詳細な各戦闘の展開図に、魅力的で分かりやすい文章、各登場人物の人となりも分かるような解説など、「歴史の面白さってこれだよね!」と思わずにはいられなかった。このブログの南北戦争,テンチ家の兄弟についての記事において、最も役に立っている。
 なお、この本の翻訳者である友清理士氏は、イングランド国王リチャード三世関係の本の翻訳にも携わっており、そのHPにまとめられたリチャード関係記事はかなり見ごたえがある(私は、リチャード三世を容姿の醜い悪逆非道の人物としてのみ認識している人は、ビートルズのファンでありながら、ジョージの凄さを認識していない人に近いな…と、ちょっと思っている)。

Robert. E. Lee :Roy Blount, Jr.著 (Penguin LIVES)
 ロバート・E・リーの伝記。短いので、読みやすい。ただ、ゲティスバーグ以降がちょっと駆け足過ぎか。それでも、リーの生涯を簡潔にまとめてある。資料をもとに、冷静な筆致を心がけているところも良い。ストーンウォール・ジャクソンや、ジェブ・スチュアートの活き活きとした記述も見られる。
 ちなみに、私がある日の英会話教室において、アメリカ人講師に「今読んでいる本はなんですか?」と尋ねられた時、鞄から取り出したのが、この本だった。講師、びっくり仰天&大爆笑。

Bold Dragoon, The Life of J.E.B. Stuart :Emory M. Thomas著 (University of Oklahoma Press)
 スチュアートの記事の時に出てきた本。元気なジェブ君の大冒険。最後はけっこう泣ける。

ルパン vs 布団2009/03/28 23:29

 昨日、テレビでルパン三世を見かけた。春の選抜もたけなわ、甲子園でも、ルパンは大人気だ。
 大野雄二による「ルパン三世のテーマ」は、日本のアニメーションという枠のみならず、すべての映画,ドラマなどのテーマ曲として最高の域にあると思う。大好きな曲だ。

 ところで、「ルパン三世のテーマ」を聴いた後に、デレク&ザ・ドミノスの "Layla" を聴くと、不思議な既視感(既聴感?)に襲われる。この両者、もちろん似ているわけではないはず。兄弟どころか、従兄弟ほどもにも関係ないが、それでも全くの他人とも思えない。
 そこで、まずはYouTubeで、「ルパン三世のテーマ」から。



 名曲、名曲。
 では、続いて "Layla"を…いや、ここはこっちの方が面白いや。エリックかけブトンの、「あのこはだレイラ」。



 やっぱりルパンと、(だ)レイラは遠い親戚かもしれない。