曽我兄弟 / 曽我物語 ― 2012/05/20 22:26
久しぶりに箱根に行ったので、仇討ちで有名な、曽我兄弟とゆかりの深いところを訪ねてみた。
「仇討ち」というと、時代劇では美談になっているし、昨今の推理小説などでも、同情すべき犯人の犯行動機としてしばしば採用されるが、要するに「私刑(リンチ)」である。…と言うと身もふたも無い。とにかく、日本人は「仇討ち」にある種の美を見いだすようで、元禄赤穂事件はその最たる物だろう。
残念ながら、私はいわゆる「忠臣蔵」がどうも好きではない。その一方で、妙なことに「曽我兄弟の仇討ち」に「はまっていた」時期がある。しかも、小学生のころだ。
事の発端は、平安時代末期(元禄など、他によく知られた仇討ちに比べて極端に古い)。伊豆半島を舞台に起きた、同族同士の土地争いである。
伊豆の有力な武士のであった伊東祐親(すけちか)が、甥である工藤祐経(すけつね)の所領を横領してしまい、それを恨みに思った祐経が、祐親とその長男,河津祐泰(すけやす)の殺害を謀った。祐親は難を逃れたものの、祐泰は落命し、当時五歳と三歳の息子が残された。 祐泰の妻は二人の息子を連れて、曽我祐信に再嫁したため、兄弟は「曽我兄弟」として名が知られるようになり、兄,十郎祐成(すけなり)と、弟,五郎時致(ときむね)は父の仇を討つ機会を待つ。
そして父の死から十七年後。十郎が数えで二十二歳、五郎が二十歳の時、鎌倉に幕府を開いた源頼朝が、富士の裾野(現在の静岡県裾野市,御殿場市)で大規模な巻狩(まきがり。大人数を動員する狩猟。大規模なスポーツ・イベントのようなもの)を催した。この際、曽我兄弟も参加し、建久三年(1193年)5月28日、工藤祐経の寝所を二人で襲い、仇を殺害した。
その後、当然大勢の武士との乱闘となり、兄十郎は討死。弟五郎は捕縛され、頼朝の面前で尋問された後に処刑された。
「曽我物語」はこの仇討ちを題材に、南北朝時代ごろには成立していたらいし。私は子供向けの古典文学全集を、小学生の時に読み、「曽我物語」にはまった。
ことの発端からすれば、曽我兄弟の祖父である伊東祐親が工藤祐経の所領を横領したのが悪い。祐経にしてみれば、仇討ちの対象にされるのは迷惑だったろう。
一方、曽我兄弟の仇討ちは、単に「親の仇」という単純な話ではないようだ。時は平安末期。武力という実力を伴った武士が、土地を守るために争いを重ねていた時代である。
また、事の発端となった伊豆には、平治の乱で流刑にされた源頼朝が住んでおり、源氏と平氏、どちらにどう接近して自分の所領を守るか、御家人と呼ばれるようになる武士達の微妙な駆け引きの中に、若い曽我兄弟が巻き込まれた観がある。
実際、弟五郎は頼朝の舅である北条時政を烏帽子親としているし、兄弟を陰に陽に支援する人物の中に、畠山重忠や、和田義盛、梶原景時など、そうそうたる顔ぶれが登場する。特に景時などは、「義経物」とは違って、曽我兄弟を支援する側にあり、物語が変わるとキャラクター造形も変わってきて、面白い。
いわゆる「陰謀説」では、曽我兄弟は最終的に頼朝殺害を意図していたことになっている。これがあながち突飛ではないのは、兄弟の祖父,伊東祐親は頼朝に殺害されているからだ。
「幕府」という新しい仕組みがまだ定まらず、「武士道」という独特の倫理観も確立していない時代。単なる「仕返し」ではない、その時代人の「事情」が渦巻き、若い兄弟の青春を飲み込んだ。そういう単純なようで、複雑な「曽我物語」に、私ははまったのかも知れない。
勇猛で直情的な五郎の方が、一般には人気があるようで、歌舞伎の題材などにもなっているが、私は冷静で優しい兄,十郎の方が好きだった。
能には、「曽我もの」とよばれる曲目が幾つかあるが、現在よく上演されるのは、「調伏曽我」と、「小袖曽我」だ。特に後者は謡曲や仕舞をお稽古する人は、かならずお世話になる曲で、特にキリの仕舞は有名だ。「二人静」とならんで、二人で舞う「相舞」の代表格で、いわゆる「初めての発表会」にもよく舞われる。
「曽我もの」は後に歌舞伎にも取り上げられた。しかし、「助六」に代表される歌舞伎の「曽我もの」はデフォルメ,創作が加わり過ぎて原型をとどめて居らず、別に「曽我」を名乗らなくても良さそうな物になっている。私は、実際の事件により近く、表現も簡素な能の方が好きだ。
箱根神社は、五郎が少年時代を過ごした場所で、曽我兄弟とは縁が深い。ここは平安末期、神仏混淆の「権現」だったため、五郎は出家する目的で、ここで稚児として過ごしたのだ。後に、出家を嫌って脱走し、兄のもとに身を寄せて元服する。
兄弟は富士の巻狩へ出向く際にも、箱根権現を訪れ、本懐を遂げることを祈った。後に、箱根権現の境内には、「曽我神社」が建立され、今に至る。
また、国道一号線の最高地点付近には、「曽我兄弟の墓」なるものがある。脇のすこし小さな塔は、十郎の妻女の、虎御前の墓ということになっている。
実際には、これらは曽我兄弟の死よりずいぶん後に作られた五輪塔で、兄弟とは関係ないらしい。しかし、大きな二つが並び、小さなものが寄り添う姿は、曽我兄弟と虎御前にしたくもなる風情がある。
私は「曽我兄弟」にはまった小学生の時分、彼らが育った「曽我の里」に行って、彼らの墓に参っている。城前寺にある墓がそれで、おそらくこちらの方が信憑性が高い。
箱根の峠から見下ろす富士山とその裾野は穏やかで、美しかった。800年前、若い兄弟が本懐を遂げ、短い生涯を終えたときも、同じようにここは美しかったことだろう。
「仇討ち」というと、時代劇では美談になっているし、昨今の推理小説などでも、同情すべき犯人の犯行動機としてしばしば採用されるが、要するに「私刑(リンチ)」である。…と言うと身もふたも無い。とにかく、日本人は「仇討ち」にある種の美を見いだすようで、元禄赤穂事件はその最たる物だろう。
残念ながら、私はいわゆる「忠臣蔵」がどうも好きではない。その一方で、妙なことに「曽我兄弟の仇討ち」に「はまっていた」時期がある。しかも、小学生のころだ。
事の発端は、平安時代末期(元禄など、他によく知られた仇討ちに比べて極端に古い)。伊豆半島を舞台に起きた、同族同士の土地争いである。
伊豆の有力な武士のであった伊東祐親(すけちか)が、甥である工藤祐経(すけつね)の所領を横領してしまい、それを恨みに思った祐経が、祐親とその長男,河津祐泰(すけやす)の殺害を謀った。祐親は難を逃れたものの、祐泰は落命し、当時五歳と三歳の息子が残された。 祐泰の妻は二人の息子を連れて、曽我祐信に再嫁したため、兄弟は「曽我兄弟」として名が知られるようになり、兄,十郎祐成(すけなり)と、弟,五郎時致(ときむね)は父の仇を討つ機会を待つ。
そして父の死から十七年後。十郎が数えで二十二歳、五郎が二十歳の時、鎌倉に幕府を開いた源頼朝が、富士の裾野(現在の静岡県裾野市,御殿場市)で大規模な巻狩(まきがり。大人数を動員する狩猟。大規模なスポーツ・イベントのようなもの)を催した。この際、曽我兄弟も参加し、建久三年(1193年)5月28日、工藤祐経の寝所を二人で襲い、仇を殺害した。
その後、当然大勢の武士との乱闘となり、兄十郎は討死。弟五郎は捕縛され、頼朝の面前で尋問された後に処刑された。
「曽我物語」はこの仇討ちを題材に、南北朝時代ごろには成立していたらいし。私は子供向けの古典文学全集を、小学生の時に読み、「曽我物語」にはまった。
ことの発端からすれば、曽我兄弟の祖父である伊東祐親が工藤祐経の所領を横領したのが悪い。祐経にしてみれば、仇討ちの対象にされるのは迷惑だったろう。
一方、曽我兄弟の仇討ちは、単に「親の仇」という単純な話ではないようだ。時は平安末期。武力という実力を伴った武士が、土地を守るために争いを重ねていた時代である。
また、事の発端となった伊豆には、平治の乱で流刑にされた源頼朝が住んでおり、源氏と平氏、どちらにどう接近して自分の所領を守るか、御家人と呼ばれるようになる武士達の微妙な駆け引きの中に、若い曽我兄弟が巻き込まれた観がある。
実際、弟五郎は頼朝の舅である北条時政を烏帽子親としているし、兄弟を陰に陽に支援する人物の中に、畠山重忠や、和田義盛、梶原景時など、そうそうたる顔ぶれが登場する。特に景時などは、「義経物」とは違って、曽我兄弟を支援する側にあり、物語が変わるとキャラクター造形も変わってきて、面白い。
いわゆる「陰謀説」では、曽我兄弟は最終的に頼朝殺害を意図していたことになっている。これがあながち突飛ではないのは、兄弟の祖父,伊東祐親は頼朝に殺害されているからだ。
「幕府」という新しい仕組みがまだ定まらず、「武士道」という独特の倫理観も確立していない時代。単なる「仕返し」ではない、その時代人の「事情」が渦巻き、若い兄弟の青春を飲み込んだ。そういう単純なようで、複雑な「曽我物語」に、私ははまったのかも知れない。
勇猛で直情的な五郎の方が、一般には人気があるようで、歌舞伎の題材などにもなっているが、私は冷静で優しい兄,十郎の方が好きだった。
能には、「曽我もの」とよばれる曲目が幾つかあるが、現在よく上演されるのは、「調伏曽我」と、「小袖曽我」だ。特に後者は謡曲や仕舞をお稽古する人は、かならずお世話になる曲で、特にキリの仕舞は有名だ。「二人静」とならんで、二人で舞う「相舞」の代表格で、いわゆる「初めての発表会」にもよく舞われる。
「曽我もの」は後に歌舞伎にも取り上げられた。しかし、「助六」に代表される歌舞伎の「曽我もの」はデフォルメ,創作が加わり過ぎて原型をとどめて居らず、別に「曽我」を名乗らなくても良さそうな物になっている。私は、実際の事件により近く、表現も簡素な能の方が好きだ。
箱根神社は、五郎が少年時代を過ごした場所で、曽我兄弟とは縁が深い。ここは平安末期、神仏混淆の「権現」だったため、五郎は出家する目的で、ここで稚児として過ごしたのだ。後に、出家を嫌って脱走し、兄のもとに身を寄せて元服する。
兄弟は富士の巻狩へ出向く際にも、箱根権現を訪れ、本懐を遂げることを祈った。後に、箱根権現の境内には、「曽我神社」が建立され、今に至る。
また、国道一号線の最高地点付近には、「曽我兄弟の墓」なるものがある。脇のすこし小さな塔は、十郎の妻女の、虎御前の墓ということになっている。
実際には、これらは曽我兄弟の死よりずいぶん後に作られた五輪塔で、兄弟とは関係ないらしい。しかし、大きな二つが並び、小さなものが寄り添う姿は、曽我兄弟と虎御前にしたくもなる風情がある。
私は「曽我兄弟」にはまった小学生の時分、彼らが育った「曽我の里」に行って、彼らの墓に参っている。城前寺にある墓がそれで、おそらくこちらの方が信憑性が高い。
箱根の峠から見下ろす富士山とその裾野は穏やかで、美しかった。800年前、若い兄弟が本懐を遂げ、短い生涯を終えたときも、同じようにここは美しかったことだろう。
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