ヴィックスバーグ陥落2010/10/24 22:26

 ミシシッピー川沿いの南軍の町ヴィッグスバーグを東方から攻め落とすべく、北軍が渡河を成功させたのは、1863年4月30日。グラントはすぐにヴィックスバーグに向かったわけれはない。
 まずは背後のヴィックスバーグには見向きもせず、北軍はミシシッピー州の州都ジャクソンへ向かった。北部連邦にとって、ミシシッピー川を押さえることもさることながら、ミシシッピー州そのものを完全に掌握することも重要だった。南部連合側としても、テネシー戦線でやや手持無沙汰になってたジョセフ・ジョンストンを派遣したが、時すでに遅し(そもそも軍勢不足でもあった)。5月14には早々にジャクソン陥落となった。

 ただちにグラントは進路を西へと転じ、ヴィックスバーグへ向かった。南軍のヴィックスバーグを守るペンバートン中将は、チャンピオン・ヒルおよび、ビッグ・ブラッグ川で防御しようと努めたが、数に勝る北軍には敵わず、5月中旬にはペンバートンもヴィックスバーグの防御壁内に引っ込み、本格的な籠城戦となった。
 アメリカと言う若い国にとって、本格的な籠城戦の経験はどれほどあるのだろうか。歴史をたどることは即ち戦争をたどることでもあるのだが、その中で籠城戦と言うのは盛り上がるものだ。
 初々しいことに、グラントは5月19日,22日の両日、防御壁の強行突破を試みた。が、無論失敗。町が餓えて干上がるのを待った。南軍のジョンストンもヴィックスバーグ救出に向かわなければならないのだが、その場合は攻撃する北軍をはるかに上回る戦力が必要だ。西部戦線の南軍にそれは望めなかった。
 北軍は、遠くから砲撃も加えたのだが、これが直接的な打撃になったというよりは、心理的な影響が強かったようだ。たしか、大坂冬の陣でも同様のことがあった。

 7月3日、いよいよヴィックスバーグはグラントの北軍に対して、投降を申し出た。そして翌日7月4日、南軍は市街から出て投降した。これは、ゲティスバーグからリーの南軍が撤退したのと、同じ日だった。

 ヴィックスバーグ陥落をもって、北軍は大規模な「アナコンダ作戦」を「整えた」。即ち、モービルやニューオーリンズのような南部の主要な港を北軍海軍が掌握し、さらにミシシッピー側を押さえたことにより、南部の物資や財源となる農作物の運搬,輸出が不能となり、南部の経済活動が著しく停滞することになった。
 腹が減っては戦が出来ぬ。南部は体力を失い、戦争ができる状態ではなくなりつつあった。
 リンカーンにしてみれば、恐ろしいリーの北進を追い払い、南部湾岸とミシシッピー川を掌握した今、戦争終結について、多少楽観的な見通しも立ったであろう。
 南北戦争の凄いところだと思うのだが、まだこの後、2年も ― つまり、それまでかかったのと同じだけの時間が ― 戦争終結にかかってしまうということである。

コメント

_ dema ― 2010/10/27 21:10

ヴィックスバーグ陥落は、戦略的にはゲティスバーグの敗戦よりも大きかったですね。
南部が東と西とに分断されてしまったのですから。
テキサスやミシシッピー、アーカンソー、ルイジアナが、リッチモンドとの連絡を絶たれてしまったというわけです。たしかに半分になってしまった南部がしぶとく抵抗したのは驚嘆するべきことです。
ところで、アーカンソーで思い出しましたが、雨が降らない土地だそうですね。
「あー、乾燥」
どうもすいません。

_ NI ぶち ― 2010/10/30 00:11

>demaさん
 ヴィックスバーグを、南部連合が総力を以て死守していたら、戦争はもっと長引いたでしょうかね。むろん、それほどの戦力は南部に残されていませんでしたが…。
 ひとは、時としてしょーもないだじゃれを言いたくなるものです。それが生命というものです…たぶん。

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