チャタヌーガの戦い(テンチ家の兄弟 その9)2011/01/28 22:40

 1863年9月のチカマウガの戦いによって、ブラッグ率いる南軍は再びテネシー州チャタヌーガに迫り、ローズクランズ率いる北軍を包囲した。もしチャタヌーガが南軍の手に落ちるような事になったら、せっかくヴィックスバーグ陥落によって得た西部戦線における北軍の優位性は、ひどく危ないものになりかねない。
 北部連邦大統領リンカーンは、職業軍人ではなく、要するに戦争については素人で、本職の軍人,将官連中にややうるさがれる傾向もあったが、彼には戦闘より高次元な政治判断として必要な戦略が分かっていた。だからこそ、この局面で大きな決断を行ったのである。
 まず、冬の到来によって膠着状態に入った東部戦線でのリーとの戦いから、フッカー(ゲティスバーグ直前に、ポトマック軍総司令官を退いた男)の軍を引き抜き、チャタヌーガ救援に向かわせた。さらに、ヴィックスバーグを陥落させたユリシーズ・グラントを西部戦線総司令官に任じ、チャタヌーガに派遣した。ローズクランズも、フッカーもグラントのその指揮下に入る。

 10月、グラントがチャタヌーガに来た時、町の守備を担当していたのはジョージ・H・トーマス。チカマウガで北軍の総崩れをぎりぎりの所で防いだ「チカマウガの岩山」である。彼はよく守っていたが、チャタヌーガが背にしているテネシー川の上流を南軍に抑えられていたため、補給路を断たれた状態にあった。
 そこで、グラントはまず川から陸の南軍に攻撃を仕掛けることによって、補給路を確保した。10月27日のことである。

 背後の安全と補給を確保すると、グラント率いる北軍は、かなり有利な状況になった。フッカーの援軍,さらにヴィックスバーグ方面からはグラントの忠実な部下であるシャーマンも到着し、その兵力は70000。一方、南軍はせっかく東部戦線から派遣されたいたロングストリートの15000をノックスヴィル(チャタヌーガから北東に約200km弱)に派遣してしまっており、40000に減っていた。
 ただでさえ兵力・火力に劣る南軍がどうしてこのような兵力の分散を行ったかと言うと、ロングストリートとブラッグの信頼関係のせいだった。あまりにも両者の関係が悪く、この不和のもたらす悪影響を避けるために、ロングストリートは肝心のチャタヌーガから離れていたのである。この時点ですでに、南軍には勝機は無いように思われる。

 11月23日グラントはまず、フッカーとトーマスに南軍包囲軍の中央と左翼に攻撃を仕掛け、双方の高台を占拠した。南軍側に、あまり戦意がなかったようだ。
 今度は25日、シャーマンが南軍のはるか右翼の先から攻撃を仕掛けた。この戦闘はかなりの激戦になったが、結局ミッショナリー・リッジという丘の尾根を北軍が一気に昇りつめて落してしまい、このことで南軍は総崩れになった。ブラッグが居る南軍の総司令部がミッショナリー・リッジにあったため、総大将もろとも捕虜になる危険すらあったのだ。
 南軍はチャタヌーガ攻略どころではなく、再びジョージア州チカマウガ付近まで後退した。これ以降、西部戦線において南軍が北部へ攻勢をかけて進むことはなくなった。



 チャタヌーガの戦いから以降は、ディープ・サウス最大の都市アトランタをめぐる戦闘が西部戦線の主な動きになる。地図で示したように、チャタヌーガはアトランタへの玄関口となった。その距離は200km程度しかない。
 アトランタの南西に示したのが、ニューナン。テンチ家の兄弟の故郷である。おそらくこの町はアトランタと運命を共にするであろう。テンチ家の兄弟が所属するジョージア第一騎兵連隊もチャタヌーガの戦いに参加した。まさに彼らは、ジョージアに帰り、故郷と愛する家族たちを、ヤンキーから守る戦いへと向かう事になる。