ベントンヴィルの戦い / テンチ家の兄弟(その10)2015/03/11 22:27

 またもや間が開いてしまったが、南北戦争も大詰めである。

 東部戦線では南部連合国首都ヴァージニア州リッチモンドの約30kmのピーターズバーグにロバート・E・リー率いる南軍が布陣し、それに対して北軍のグラントは持久戦に持ち込んでいた。
 一方、西部戦線は、北軍を率いるシャーマンがジョージア州サヴァンナ,即ち大西洋岸に達し、彼らはそこから北上しはじめた。1865年1月、ノースカロライナ州ウィルミントンが陥落。いよいよ、シャーマンはヴァージニア州へと進もうとしている。

 もはや西部戦線(だった)南軍は壊滅状態だった。残った兵たちをまとめる役目が、ジョーゼフ・ジョンストンに回って来た。彼は前年のアトランタ陥落以降その任を解かれていたのだが、この土壇場に来て、また引っ張り出される事になったのだ。
 ジョンストンのもとに集まった南部連合軍は21000。上級将官たちは、P.G.T.ボーレガードに、グラグストン・ブラッグ,ウィリアム・ハーディ,D.H.ヒルなど、これまでの戦いに名を連ねたお歴々である。

 シャーマンが率いる北部連邦軍はノースカロライナ州を北上し、ヴァージニアのグラントとの連携を意図していた。それを阻止するべく、ジョンストン率いる南軍は、3月19日、ベントンヴィルで北軍に攻撃を仕掛けた。
 まず、南軍の騎兵が北軍の左翼への攻撃を行った。当初北軍はそれほど大きな部隊の攻撃とは思っていなかったが、続いて歩兵が攻撃を仕掛け、北軍は退却を余儀なくされた。
左翼が退却したとは言え、シャーマンが率いる北軍は南軍の約3倍の兵力である。すぐに援軍が南軍の攻撃を押し返した。
 3月21日には、シャーマンは逆に南軍の左翼に攻撃を仕掛けた。南軍が北軍の左翼を集中的に攻撃下以上、南軍自身の左翼は当然手薄だったのだろう。シャーマンにとっては、この残存兵の集まりを壊滅させ、降伏に持ち込むチャンスだったが、彼は判断を誤った(自分で認めている)。
 シャーマンは攻撃を停止させ、もう追撃する余力のないジョンストンの南軍を置いて北進を続けることにしたのだ。

 南軍の損失は2000。その兵力は10000を切ってしまった。万事休すだった。

 さて、ここでまた久しぶりの人物が登場する。ジョン・ウォルター・テンチ(ベンモント・テンチの曾祖父)と、ルービン・モンモランシー・テンチ。テンチ家の兄弟である。
 彼らが所属していたジョージア第一騎兵連隊は壊滅状態で、この頃にはウィーラーの騎兵に編入されていたようだ。
 ウィーラーもベントンヴィルの戦いで騎兵を率いているので、おそらくテンチ家の兄弟も参加していただろう。その後も、テンチ兄弟はジョンストンの指揮下に残ることになった。
 テンチ家の兄弟が騎兵として南軍に身を投じたのが1861年開戦当時。その6月には末の弟ジェイムズが戦死している。あれから4年。テンチ兄弟の南軍騎兵生活も最終局面を迎えていた。