十日で70kmの後退 ― 2012/07/24 21:54
1864年5月15日、レサカにおける大規模な会戦が停止すると、南軍司令官ジョンストンは、南へと移動した。すでに彼らはテネシー州を捨て、ジョージア州に入っている。どこかで、シャーマン率いる北軍を食い止めなければ、そのままズルズルとアトランタまで進撃されてしまう距離に入っていた。
一方、シャーマンも南軍のどこに戦力をつぎ込めば、突破口が開けるかという決断はしかねていた。これは東部戦線との大きな違いだが、とにかく広大な西部を舞台とする戦いは、どこに敵の主力がいるのかが掴みにくく、味方も用心のつもりで戦力を分散しがちだった。
このことは南北双方に言えるのだが、状況が元々の戦力で勝る北軍に有利なのは変わらない。
北軍は斥候を出しては、南軍の部隊に遭遇し、相手が塹壕に腰を落ち着けて迎え撃とうとすれば、それを避けるという動きを繰り返した。南軍のジョンストンは戦力のわりに積極攻撃に出ないシャーマンに対して、リーがかつて得意としたような、「誘い込んで、防御態勢をとりつつ、相手を滅多打ちにする」という行動には出られないでいた。彼の配下の司令官が慎重だという表現もできるが、やはりこれも広大な西部戦線ならではの慎重さなのだろう。
戦争初期は、騎士道精神で華々しく打って出る将官が多く居た(とくに南軍)が、この戦争後期になると、大砲と塹壕が主役の、近代戦の恐ろしさを思い知り、行動が慎重になるのも、無理からぬことだった。
5月20日ごろ、シャーマンは手探りで攻撃を仕掛けることに見切りをつけ、いったん軍勢を南西方向に迂回させ、南軍の左翼側に回り込む作戦に出た。ところが、この時ジョンストンはこのシャーマンの動きを察知したのだ。両軍は25日にダラス(ジョージア州。テキサス州ではない)の東6kmほどの、ニューホープ教会で遭遇した。
この時、南軍に襲いかかったのは、、かつてのポトマック軍司令官、ジョセフ・フッカーの軍団だった。フッカーはこの時期、自分よりもシャーマンの方が評価が高く、上の司令官になっていたことに、不満を抱いていた。その上、このニューホープでは、北軍が予想したよりも南軍の部隊が大きく、さらに、密林の中を進む羽目に陥り、かなりの損害を出した。フッカーにとっては散々である。
南軍にとって残念なのは、ここで一気に押し切ることは無く、塹壕に入って守りに入ったことだった。
それを見たのか、シャーマンがもう一押しして、南軍を撃退しようとしたのが、5月27日のピケッツビルの戦いだが、北軍は地勢に不案内で、局地的には負け戦となった。
ここでやや南軍にも「勝ち」の字がつきつつあったが、実際にはレサカから南へ、十日で70kmも後退していた。アトランタへはあと35kmしかない。マラソンコースよりも短い距離だった。
ダラスに本拠を置いていた北軍シャーマンは、ここから東進して、アトランタを突くことを、諦めていなかった。そこで6月上旬、アトランタの北30kmほどのマリエッタに南軍が駐在しているのを見るや、シャーマンは攻撃を仕掛けた。
この際、南軍の「闘う司教」こと、レオニダス・ポーク中将(聖職者だった)が砲弾の直撃を受けて戦死した。ジョンストンはマリエッタにこだわることをやめ、主力を町から引き上げさせ、北側のケネソー山へ主力を移した。
一方、シャーマンも南軍のどこに戦力をつぎ込めば、突破口が開けるかという決断はしかねていた。これは東部戦線との大きな違いだが、とにかく広大な西部を舞台とする戦いは、どこに敵の主力がいるのかが掴みにくく、味方も用心のつもりで戦力を分散しがちだった。
このことは南北双方に言えるのだが、状況が元々の戦力で勝る北軍に有利なのは変わらない。
北軍は斥候を出しては、南軍の部隊に遭遇し、相手が塹壕に腰を落ち着けて迎え撃とうとすれば、それを避けるという動きを繰り返した。南軍のジョンストンは戦力のわりに積極攻撃に出ないシャーマンに対して、リーがかつて得意としたような、「誘い込んで、防御態勢をとりつつ、相手を滅多打ちにする」という行動には出られないでいた。彼の配下の司令官が慎重だという表現もできるが、やはりこれも広大な西部戦線ならではの慎重さなのだろう。
戦争初期は、騎士道精神で華々しく打って出る将官が多く居た(とくに南軍)が、この戦争後期になると、大砲と塹壕が主役の、近代戦の恐ろしさを思い知り、行動が慎重になるのも、無理からぬことだった。
5月20日ごろ、シャーマンは手探りで攻撃を仕掛けることに見切りをつけ、いったん軍勢を南西方向に迂回させ、南軍の左翼側に回り込む作戦に出た。ところが、この時ジョンストンはこのシャーマンの動きを察知したのだ。両軍は25日にダラス(ジョージア州。テキサス州ではない)の東6kmほどの、ニューホープ教会で遭遇した。
この時、南軍に襲いかかったのは、、かつてのポトマック軍司令官、ジョセフ・フッカーの軍団だった。フッカーはこの時期、自分よりもシャーマンの方が評価が高く、上の司令官になっていたことに、不満を抱いていた。その上、このニューホープでは、北軍が予想したよりも南軍の部隊が大きく、さらに、密林の中を進む羽目に陥り、かなりの損害を出した。フッカーにとっては散々である。
南軍にとって残念なのは、ここで一気に押し切ることは無く、塹壕に入って守りに入ったことだった。
それを見たのか、シャーマンがもう一押しして、南軍を撃退しようとしたのが、5月27日のピケッツビルの戦いだが、北軍は地勢に不案内で、局地的には負け戦となった。
ここでやや南軍にも「勝ち」の字がつきつつあったが、実際にはレサカから南へ、十日で70kmも後退していた。アトランタへはあと35kmしかない。マラソンコースよりも短い距離だった。
ダラスに本拠を置いていた北軍シャーマンは、ここから東進して、アトランタを突くことを、諦めていなかった。そこで6月上旬、アトランタの北30kmほどのマリエッタに南軍が駐在しているのを見るや、シャーマンは攻撃を仕掛けた。
この際、南軍の「闘う司教」こと、レオニダス・ポーク中将(聖職者だった)が砲弾の直撃を受けて戦死した。ジョンストンはマリエッタにこだわることをやめ、主力を町から引き上げさせ、北側のケネソー山へ主力を移した。
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