伶楽舎 / C.W. Nicol2012/06/02 23:11

 この木曜日と金曜日は、連続して演奏会に出かけた。

 まずは5月31日木曜日、四谷区民ホールにて、伶楽舎の雅楽コンサート。「散手と貴徳 ~管絃で聴く、番舞を観る~」



 「散手(さんじゅ)」も「貴徳(きとく)」も、太食調(たいしきちょう)の舞楽として有名で、組み合わせて一セットとされている。双方とも、面をかけ、大きな鉾を持って舞うので、非常に舞としては良くにている。しかし、「散手」は唐楽(とうがく。中国系)で、演奏に笙が入っていかにも雅楽といった感じのゴージャスな響きがするのに対し、「貴徳」は高麗楽(こまがく。朝鮮半島系)で、笙は入らず、カラっとした響きを持っている。
 さて、舞楽として双方とも有名だが、どういう訳だか「管絃」(舞なし。琵琶と箏が加わる)での演奏は記録にすら残っていないのだという。しかし、一部ながら弦の譜が残されており、最初は「管絃」も演奏されていたのではないだろうか ― という、面白い考察から、今回の演奏プログラムになったとのこと。
 こういう創造的で、でも突飛ではなく、あくまでも古典の良さを再現しようとするプログラムは良い。テーマもはっきりしているし、比較しやすい演奏で、飽きさせない。演奏会の後半に華麗な舞楽を鑑賞できるのもとても良かった。

 なぜ、「散手」も「貴徳」も、舞楽としては名曲として有名なのに、「管絃」としての演奏は廃れたのか。伶楽舎の結論は「よくわからない」とのことだったが、私は伶楽舎の再現演奏を聴いて、とても単純なことではないかと思った。
 即ち、双方とも舞楽に比べると、管絃は物足りなく、音楽としての面白みに欠けているような気がするのだ。特に「貴徳」に対してそういう感想を持った。
 なにせ、雅楽の歴史は長い。その長い期間に、「イマイチな曲」は廃れ、「名曲」だけが残っていくというのは当然だろう。そもそも、記録方法が限られていた古代,中世は、本当に「名曲」と認識された音楽しか、記録されなかったのかも知れない。
 「散手」と、「貴徳」は、舞楽が名作なだけに後生に伝えられたが、どちらかが、もしくは双方とも、管絃は特に演奏するに値せず ― という淘汰の波にのまれ、運命を共にしたのかも知れない。

 伶楽舎の次回の雅楽コンサートは、12月。「天上の音楽、地上の楽 (源博雅をめぐって)」と題する予定。出ました、博雅三位。何年か前、各メディアで「陰陽師」がはやったことがあるが、それで彼に興味を持った方には、良いかも知れない。
 私は「陰陽師」を全く受け付けなかったが…。

 6月1日金曜日は、C.W ニコルさんのレクチャーコンサート「C・Wニコルの世界 - 語り継ぎたい物語、歌い継ぎたい音楽」
 レクチャー・コンサートというわけで、C.W. ニコルさんの活動を紹介するDVDと、それに関するお話、そして自身の思い出と、それにまつわる歌を披露してくれた。
 ニコルさんの自然に関する活動は、ここでは割愛する。当人の著作や、メッセージに直接触れる方が良いだろう。

 歌は、ニコルさん自作の、日本語と英語の曲や、スコットランドやアイルランド、ウェールズと言った、ケルト民族に伝わるトラディショナル・ソングなど。いずれも素朴で、でも吸引力のある素晴らしい演奏だった。
 特に印象深かったのは、ニコルさんが作った "Swim away (Salmon Song)"。カナダの少数民族の人々と鮭が遡上してくる川を渡った体験を元に作ったもので、その少数民族の間でおおいに人気を博したと言う。
 そして、ロックファンの私には、やはりトラディショナルの "Wild monuntain thyme" と、"Oh Shenandoah"。前者はザ・バーズ、後者はディランの演奏でお馴染みだ。

 ニコルさんのレクチャー・コンサートで実感したのは、彼のプレゼンテーション能力の高さだ。何を人に伝えるにしても、根拠と自信は努力と積み重ねで獲得し、それをいかに伝えるかには、また別の才能が必要になる。ただ素朴な歌を歌うだけではない、自分の考えもまるごと、人に伝えようとするという作業は、誰にでも簡単にできることではないだろう。
 人にはそれぞれ、自分の意見があり、その正義感が強い物になればなるほど、他者との衝突は激しく、互いを傷つけるものになる。しかし、それでいちいち争っていたのでは、一体なぜ人間には、発達した思考力、叡智が備わっているのか分からない。
 そういう、人間の難しさと、可能性を感じたコンサートだった。