ニューマーケット2011/04/30 21:34

 英国史上最年少の首相であるウィリアム・ピット(小ピット 1759-1806)は、ナポレオン・ボナパルトのことを、「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」と評したそうだ。更に、せっかく当たった大金を、混乱のためだけに浪費したとも言える。
 ともあれ、ナポレオンによってもたらされたヨーロッパにおける体制の混乱は、ウィーン会議(1814-1815)以降、「ウィーン体制」の名で秩序付けられ、一定の安定期を見るに至った。大ざっぱに言えば、ヨーロッパをナポレオン戦争以前の線引き状態に戻したのだ。そのついでに、強権を持ついくつかの君主はその「属国」(と、思っている)支配を幾分強めている。
 しかし、歴史はすでにフランス革命を経験し、産業革命が起こっていた。知識階級や、民衆の間には自由主義,民族主義の潮流が生まれ、19世紀半ばには多くの反体制運動 ― 革命が勃発した。
 その一つが、1848年ドイツの3月革命である。巨大権力である神聖ローマ帝国皇帝の支配下からドイツの小公国が離脱し、統一ドイツを目指した運動だ。この試み、1848年時点では失敗しているが、20年後に統一ドイツ帝国が出現することになる。

 フランツ・シーゲルは1824年バーデン公国に生まれた軍人だった。ドイツ1848年革命当時は若い大佐として、革命軍を率いて活躍した。この時の革命は道半ばで頓挫したため、シーゲルは多くの革命家たちと同様に亡命し、1852年にアメリカに移民してきた。
 彼は1861年に南北戦争が始まると、北軍大佐として従軍し、1862年には少将に昇進した。しかし彼の南北戦争における戦績は必ずしも華やかとは言えない。多くのドイツ系移民兵士にとって、誇りであり拠り所でもあったシーゲルだが、相手も悪くストーンウォール・ジャクソンだったりしたため、あまり軍上層部を満足させるような結果は残せなかった。
 軍の最高司令官であるハレックなどは容赦なくシーゲルを切り捨てようとしていたが、ドイツ系移民の票も軽視できないリンカーンは、シーゲルに居場所を与え続けていた。かくして、シーゲルは1864年、ウェストバージニア方面指揮官に、任命されたのである。

 グラントは、1864年の春から再びリーの南軍と対決するために、同時に二方面での攻撃作戦を計画した。一つが、失敗に終わったバミューダ・ハンドレットであり、もう一つがシーゲル率いる6000の兵による、シェナンドア渓谷からの南部への補給路断絶作戦だった。
 バミューダ・ハンドレッドとほぼ同時期の1864年5月15日、シーゲルの北軍は、南軍ブレッキンリッジ少将率いる4000と、ヴァージニア州ニューマッケットで衝突した。兵力が不足しがちな南軍では、当然リーからの援軍は望めなかった。一方、戦場の近くにあった陸軍士官学校の士官候補生たち(15~21歳)250名が、南軍に参加して10名の死者を出した。
 しかし土砂降りの中で始まったこの戦いは、南軍の勝利に終わった。主な原因は、戦意の差だろう。将たるシーゲルも、この戦いの意義を理解していたとは言い難く、いともたやすく退却してしまったのである。
 シーゲルはその後も北軍の指揮官を務めたが、翌年、評価を得ることなく退任している。

 グラントが意図したような、リーの南軍本体への横合いからの攻撃は、こうして失敗に終わった。グラントにしてみれば、バトラーもシーゲルも、役立たずとしか言えなかっただろう。
 しかしその一方で、彼は自分が集中するべき作戦を改めて確認したのかもしれない。すなわち、基本的に兵力・補給不足に悩む南軍においては、リーだけが脅威であって、その軍に食いつき、どんなに手ひどい反撃を受けても、絶対に放さないことだった。