4月1日ブラブラチャチャチャ!2011/04/01 00:00

ブラタモリ 第3シリーズはロックンロールでブラタモリ!

第1回 リヴァプール
 ビートルズの故郷でブラタモリ!
 粋な港湾都市も、昔は沼地?!タモリさん大興奮、リヴァプールの港湾施設に潜入!知られざるリヴァプール発展の悲しきルーツとは?巨大教会のてっぺんから、地下ライブハウスまでタモリさんが伝説の町を味わいつくす!
 ブラタモ写真館:ビートルズの顔パネル(観光地にある、顔を突っ込んで写真を撮るアレ)

第2回 ニューヨーク
 ビッグアップルでブラタモリ!
 マンハッタン島のお値段とビーズの関係は?タモリさん、ブルーノート・デビュー!グランドセントラル駅で、タモリさんの大暴走モノマネ電車!ディランのはずが、グリニッジビレッジで久保田アナが思わず赤面!
 ブラタモ写真館:グリニッジビレッジの恥ずかしい店

第3回 ロンドン
 大英帝国からブラタモリ!
 世界最古の地下鉄にタモリさん大興奮!ロイヤルアルバートホールで、あの大物ロッカーに遭遇!アビーロードの横断歩道に高低差はあるのか?シティの中世城壁跡を探せ!久保田アナあこがれのアフタヌーンティー。
 ブラタモ写真館:アビーロードを渡りまくるオヤジ63名

第4回 サンフランシスコ・ロサンゼルス
 西海岸でブラタモリ!
 高低差の聖地でタモリさん大感激!坂ならではの建築現場。カメラ初潜入、アルカトラズの深ーい秘密。ゲイの町でなぜか大歓迎!巨大!ロサンゼルス港で日本行きコンテナを追う!ハリウッドボウルをタモリが貸切?!
 ブラタモ写真館:サンフランシスコ 急勾配坂での路駐

第5回 東京
 関東ローム層でブラタモリ!
 武道館は江戸城内?帰りに混雑するあの門の正体とは!ビートルズのホテルは江戸城の裏鬼門だった!ガード下の小さなエレキ博物館。タモリはギターより電車?武道館のコンサート設営現場に潜入。あのビートルズ公演時の看板が!
 ブラタモ写真館:ジミヘンギターの木くず(本物か?)

第6回 ゲインズヴィル
 TP&HBの故郷でブラタモリ!
 知られざる巨大地下水源!世紀の対決、ワニ vs タモリイグアナ!マッドクラッチ・ファーム跡地を探せ!テンチ家のお茶会にお呼ばれ。大学とともに発展してきた町の歴史を歩く。タモリさんのぺティ・モノマネがラジオで大反響!
 ブラタモ写真館:大アマゾンの半魚人顔パネル

バミューダ・ハンドレッド2011/04/04 22:55

 1864年春東部戦線において最大の主戦場は、リー自ら率いる南軍がラピダン川をはさんで北軍(指揮官はミードやバーンサードだが、実情としてはグラントが自ら率いていると言って良い)と対峙する地点だが、グラントの作戦はこれだけではなかった。南軍最大の悩みは戦力不足だが(悩みもなにも、勝利要素として一番重要な点)、さらに戦力を分散させるために、グラントは同時に3か所での攻撃を計画したのである。
 リーとの直接対決となす最大の作戦は後に述べるとして、まずはバミュード・ハンドレッド方面作戦。

 1864年5月初頭、ベンジャミン・バトラー少将が率いる北軍は、ジェイムズ流域軍と呼ばれる。南部連合首都リッチモンドの補給路と、補給拠点ピーターズバーグを攻略すべく、バトラーは25000の兵を率いジェイムズ川とアポマトックス川の合流点、バミューダ・ハンドレッドに、水路から上陸した。ここからバトラーは西進し、南に位置するピーターズバーグを脅かし、北方向のリッチモンドへの補給路を遮断するのが任務だった。
 しかし、作戦というのものは、たったひとつの目標があれば十分で、ふたつ以上の結果を求めてろくな戦闘になったためしがない。しかも、司令官のバトラーは有能だから少将として采配をふるっているのではなかった。バトラーの本職は軍人ではなく、政治家だった。彼はリンカーン再選を支持したことで、その報酬のような形で少将に任じられたようなものだったのだ。グラントにとっては迷惑だが、バトラーを腕利きの下級司令官に補佐させることによって、この方面の作戦を成功させようといとしていた。
 対する南軍は、ピーターズバーグの北側に陣取っていたのが、ジョージ・ピケット率いる2500。ゲティスバーグの戦いにおける「ピケットの突撃」で知られるあのピケットである。
 5月7日、バトラーはジェイムズ流域軍のうち、ピケットの3倍以上にあたる8000でリッチモンドへつながる鉄道を破壊しようとしたが、ピケット率いる2500に阻まれ、不成功に終わった。北軍はそのままいったんバミューダ・ハンドレッドの陣地に戻っている。ゲティスバーグで壊滅的な損失を生む激戦を経験したピケットと、その兵たちは、バトラーとは格が違った。

 仕方なく、バトラーは方向転換する。今度はピーターズバーグを背にして、北西方向のリッチモンドへ攻撃をしかけることにしたのだ。
 しかし、今度はP.G.T.ボーレガード少将の南軍がバトラーの前に立ちふさがった。ボーレガードは第一次マナッサスの戦いなどでその名がある通り、バトラーとは違って歴戦の将軍である。
 ボーレガードはさすがにリッチモンドへの生命線を握っているとあって、兵をかきあつめて20000ほどの戦力を持つことができた。これはバトラーが繰り出した兵力とほぼ互角だった。
 バトラーは攻撃側として先攻するべきだったが、議論に時間を費やしている間に、ボーレガードが攻撃を開始した。5月16日、両軍が激突。戦闘そのものはほぼ互角で終わっった。

 しかし、その結果もたらされた状況は、北軍にとって著しく不名誉なものだった。ボーレガードに押し戻される形でバトラーの軍は後退し、結局もといたバミューダ・ハンドレッドの陣地に戻ってきた。北軍がアポマトックス川とジェイムズ川に挟まれた陣地に戻ると、ボーレガード率いる南軍はその西側に塹壕を掘り、強固な防衛線を築いた。これをハウレット線と言うのだが、このせいでバトラーの20000もの大軍が袋詰めにされたような状況に陥った。グランドに言わせれば、バトラーたちは「きつくコルクで栓をした瓶の中」にとじこめられたようなものだった。
 このためバトラーは無論、グラントとリーの直接対決を援護することもできなかった。一方ボーレガードは負担が軽くなり、援軍を多少なりとも、リーの元に送ることができたのである。のちに北軍はコールドハーバーでリーの防御戦に大敗するのだが、その責任の一端は、この政治家将軍の失敗にあるのかも知れない。

通勤の友2011/04/08 23:58

 地震のあと、首都圏の鉄道は電力の関係で本数を減らすなどしたため、通勤環境がすこし変わった。通勤に必要なもの、音楽と読書。本にはお金をかけまいと思っているので、普段なら英語の本を読む。日本語を読むのに比べて数十倍の時間がかかり、なおかつ内容が理解できないので、2回読む。経済的なのだ。しかしこの状況下では、できるだけつまらないストレスは軽減した方が良いと考えた。このため、最近はもっぱら日本語で歴史小説を読んでいる。
 もっとも、新しい本ばかり買うのは金銭的な問題があるので、以前に読んだ本も再読している。つい先日まで、司馬遼太郎の「関ヶ原」と「城塞」を連続して読んでいた。大坂方の真田左衛門佐が、娘を城から落とし、徳川方の伊達政宗に後を頼んだ話がある。
 小説では政宗が重臣,片倉小十郎(景綱ではなく、その子重綱。重長とも言う)に、「養女にでもしてやれ」と何気なく言い、結局片倉が真田の娘を妻にする(蛇足だが、政宗と重綱は衆道の間柄だった。衆道ってなに?…の人は、辞書参照。「しゅどう」と読む)。
 政宗のセリフはともかく、このいきさつは史実らしい。私は面白い話だと思っている。だが私の記憶では、ドラマ「独眼竜政宗」では再現されなかった。どうしたことだろうか。左衛門佐を登場させる余裕がなかったのだろうか。
 長々と書いたのは、要するに私はやはり歴史が好きだなと、再認識したからだ。歴史の本と音楽さえあれば、長く混雑した通勤さえべつに苦ではないし、むしろ目的地に到着したら読書を中断するのが惜しいとすら思う。

 通勤中のストレス軽減のため、音楽の聴き方もいつもとは少し違う。普段なら聞こうとするアーチストの、アルバムを選んで聴いているのだが、地震後の状況ではいつギュウ詰めになってiPod操作不能に陥るかわからない。そこで、特に好きなアーチスト ― 最初はウィルベリーズ、次にTP&HB, 今はジョージ ― の音楽を全て、アルバムごとに連続再生するという設定にしている。アルバムの再生順はランダムだ。
 ウィルベリーズはともかく、TP&HBはものすごい曲数で、驚いた。おそらく、ディランの次に多い。新旧音質両方や、イケナイものも収録されているせいだろう。TP&HBをすべて聴き終わるのに、なんと20日近くもかかった。

 今は、ジョージを連続して聴いている。その中で、"Got My Mind Set On You" がやけに印象に残った。ヒット曲なので、複数のアルバムに収録されているので、何回も聴くことになる。
 何度聴いても、ポップで明るくて、でも格好良くて、クールで、完璧なプロデューシングが施されていると、感心する。まずは、ジョージ(偽)がクルリと一回転することで有名な、ビデオから。



 原曲は、ルディ・クラークが作り、ジェイムズ・レイが録音した、60年代初頭の曲だ。ジョージによれば、「原曲は、うるさい女性コーラスが叫んでいる」そうだ。



 …確かに、女性コーラスがうるさい。コーラスが入る前の方が、おしゃれで良い。
 それにしても、この曲をカバーして、あれほどのものにしてしまうジョージがすごい。そして、プロデューサーのジェフ・リンの手腕。エコーも控え目だし、耳障りな電子音も聞こえてこない。全てがセンス良く、程よく、でも端正なだけじゃない格好よさが凝縮されている。全米1位も当然だろう。
 この曲をシングルカットすることを最初にジョージへ勧めたのは、当時まだ子供だったダーニとのこと。彼の音楽的センスというよりは、子供のもつ本能的な判断能力の賜物と言うべきだろう。

Six Degrees of Separation2011/04/11 21:53

 あの地震から、ちょうど一ヶ月を迎えた。
 私の中で、地震前と地震後で、三月が二分されている。前半についての記憶がほとんどない。地震が起きてから、これまでに経験したことのない、思うこと、感じること、実感すること、行動することなどが連続的に起こり、首都圏に暮らす私にとってはいつもの日常でありながら、どこかが「違う日常」を送りつつある。生まれてからずっとすごしてきたこの世が、どこかで違っている。奇妙な気持ちがする。

 改めて、地震とそれに伴う困難に苦しめられている方々にお見舞いを申し上げたい。そして、突然絶たれた余りにもたくさんの命に、せめて今は安らぎがあらんことを祈る。
 この国には、「一つになろう、日本!」とか、「みんなで一体になってがんばろう!」…といった肩に力の入ったメッセージの連呼に、違和感や疑問を持つ人も居るだろう。一体化を強制されることに対する拒否感は、よく分かる。
 ただ、これほどの大惨事が起きると、決して他人事ではないことだけは、記憶しておくべきだろう。直接の生命や、生活上の被害は受けずとも、経済活動への影響は、確実に私たちの身辺へ、そして世界へと波及している。
 実際、私の仕事の取引先でも山陽地方の事業所がストップしたり、中部付近の客先が北関東分の製造を肩代わりしたりしている。私もそれらへの対応でいくつものプレゼン資料を作り、対策会議をいくつも持つ必要に迫られているのだ。世界は意外に狭い。

 世界は意外と狭いという事の論証に、Six Degrees of Separation(六次の隔たり)という仮説がある。知りあいの知り合いをたどると、6人で世界中の人間でつながりを持つことになるという話だ。いくつかの実験も行われているようだが、いずれも5人から7人あたりを、答えにしている。条件という複雑な要素もあるので、単純には証明できない話だが、面白い仮説だ。<br>

 私と、トム・ペティの間には何人居るだろうか?
 マイク・キャンベルに私の友人MayuさんとToshiさんがインタビューを行っているので、「面識がある」というだけでも可とすれば、私から3人目でトム・ペティにたどりつく。そうすると、ボブ・ディランにジョージ・ハリスン、リンゴ・スターなど、とにかく多くのロックスターたちが4人目に位置することになる。
 もう一つの経路を考えてみる。以前、とある雅楽の演奏会に行った。古典と現代曲がその演目だった。終演後、私は演奏者である芝祐靖先生を、楽屋に訪ねた。楽屋のドアをノックして開いてみると、そこには演奏された現代曲の作曲者,一柳慧(いちやなぎとし)氏が居た。私は彼に芝先生はどこにいらっしゃるのかと尋ねた。この一柳慧が、小野洋子の最初の夫である。そして、小野洋子の三人目の夫がジョン・レノンだ。芝先生を介して、私から4人目にジョン・レノンが居ることになる。
 クラシック界で見てみる。私の亡くなった伯母(血の繋がりはない)はチェリストだった。彼女の友人が小澤征爾なので、彼にはたったの2人でつながる。そうすると、世界の名だたるクラシックミュージシャンの多くが、3人目か4人目でつながる。

 「六次の隔たり」仮説は、現在存命中の人のみを対象にしているのだろうか?その点はよく分からない。
 試みに、思いきって私から何人でベートーヴェンにつながるのかを調べてみた(ゆうべ、N響がベートーヴェンだったので…)。
 私を音大に合格させた偉大なる師は、ピアニスト,内田光子の友人だ。内田光子の師がヴィルヘルム・ケンプ(ドイツ 1895-1991)。ケンプの師がカール・バルト(ロシア 1847-1922)。バルトの師がハンス・フォン・ビューロー(ドイツ 1830-1894)。ビューローの師がフランツ・リスト(ハンガリー 1811-1886)。リストの師がカール・チェルニー(オーストリア 1791-1857)。チェルニーの師が、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(ドイツ 1770-1826)である。
 私からベートーヴェンまで8人。リストはベートーヴェンに直接会ってキスされているので、7人と数えることもできるだろう。
 全てのピアノ弾きにとって、状況は私とほぼ同様であろう。リストの弟子たちが、現代ピアニストたちの源流を成しており、すなわち師をたどっていけば、大抵ベートーヴェンにたどりつく。私のように内田光子につながらなくても、日本洋楽草創期のピアニストたちの師の多くが、リストの孫弟子だからだ。

 最近は、ツイッターや、フェイスブックなどの登場で、直接の面識にこだわらなければ、世界はますます小さくなっているそうだ。
 だからと言って、世界が変わるわけでもラブ&ピースの理想世界ができるわけでもない。ただ、自分がどこかでジョージ・ハリスンやトム・ぺティにつながっていると思うと、少しだけ、嬉しい気持にはなれるだろう。それって、悪くないよね。

graham nash david crosby2011/04/14 23:14

 ドン・フェルダーの自伝を読んでもイーグルスへの興味は起きなかったが(あの内容では、当たり前か)、人格者として絶賛されていたグレアム・ナッシュについては、かなり興味をそそられた。彼のアルバムを聴いてみようとしたが、これが意外とレコードショップの店頭に置いていない(最近は極力店頭で買う事にしている)。
 ナッシュのソロ・アルバムの前に、デイヴィッド・クロスビーと組んだアルバムの方が手に入った。1972年、[graham nash david crosby] である。かなり良いアルバムでずっと感想を書こうと思っていたのだが、地震でしばらく忘れていた。



 私はCS&N(Y)のプロフィールには詳しくない。あの人があっちへ行き、この人がこっちへ行き、あの人と組み、人が増えて減って…という経緯がいまいちピンとこない(そりゃ、バーズのメンバーを覚えきれないのだから仕方がない)。ともあれ、CSN&Yがいったん解散した後、クロスビーとナッシュが…いや、アーチスト名の順番としてはナッシュとクロスビーが組ん、でデュオとして制作したスタジオアルバムと思えば良いらしい。
 やはり、なんと言っても二人のコーラスワークが美しい。二人とも美しい高音の持ち主だが、ベルカント系の音色ではないところが好きだ。そして、楽曲の完成度がすばらしい。特に、ナッシュが作った2曲が抜きんでていた。
 まず、"Frozen Smile"。はっちゃけた感じの、元気な曲調。そこに、ナッシュの声。ナイーヴである程度の緊張感を保っている。さらに、ちょっと間の抜けたハーモニカがかぶってきて、非常にバランスが取れている。もしかしたら、このアルバムでは一番好きな曲かもしれない。
 そして、"Immigration Man"。 入国審査での苦労の歌だが、短くもこれまた緊張感のある楽曲構成。とくに、第二,第三ヴァースでのフレージングのバリエーションが格好良い。
 ナッシュの楽曲の良さばかり書いてはいるが、無論クロスビーとの絶妙なコーラスがあっての仕上がり。クロスビー楽曲の、不可思議な雰囲気が、アルバムの重厚感を作り出している。アルバムとして、何度繰り返して聴いても飽きない、すばらしい作品だ。

 アルバムジャケットはなんとも言いようのないものだが、とにかく文字としては、 上段にgraham nash, 下段にdavid crosby とある。私はアーチスト名も、アルバムタイトルも [graham nash david closby] なのだと解釈していたのだが、裏ジャケットを見ると、今度は上段にDAVID CROSBY, 下段にGRAHAM NASH と書いてある。どうやら、順番もこだわらないで良いらしい。

すっきりしたぜ2011/04/20 22:08

 PCを買い替えた。
 私は13年間、3台に渡ってThinkPadを使い続けた。いわばThinkPadファンだったと言える。
 機械として優秀だと信じていたし、何と言ってもあの赤いトラックポイントと打ちやすいキーボードの使い心地は他を圧倒していた。仕事はともかく、プライベートで使うPCはThinkPadと、思い定め、一種の忠誠心を持っていた。
 1台目も2台目も、いわば使いつぶしたような形で引退し、3台目を購入する頃には、IBMがPC部門をレノボに売却していた。それでも、ThinkPadはかわらずThinkPadであり続けるというメッセージを信じていた。だから3台目も迷わずにThinkPadを購入したのだ。
 しかし、レノボThinkPadと、Windows Vistaの組み合わせの使い心地ときたら、どうであろう。3年ほど前に購入したその日から、ひと時たりとも満足したことがない。常にイライラしどおしで、ずっと我慢してきた。一つも良いところが見い出せないではないか。
 それでも私は耐えた。ThinkPadを疑うということをしなかった。しかし ― もう私の我慢も限界だった。あまりの動きの悪さは想像を絶する。インターネットを閲覧するにも何分もかかり、エクセル表一つを立ち上げるのにもひどく待たされる。立ち上がったところで、やれエラーだなんだと、らちが明かない。しまいには、PCそのものを立ち上げるのに何時間もかかるのは、どうしたことだろうか。
 その上、なにやら怪しい音がPCからジリジリと上がり始めると、私はもう耐えられなくなった。どうしてPC一つを立ち上げるのに、こんなに時間をかけ、忍耐力を総動員し、ストレスと戦わなければならないのだ?おかげで、各種データの集積も進まなければ、歴史の勉強も進まない。ましてやブログの更新なんてできやしない。ここにきて、私の怒りは限界を超えた。
 一体、ThinkPadへの忠誠心なんて、何か意味があるのか?こだわって何か良い思いをしてきただろうか?トラックポイントというツール以外のところで、どれほど不快な時間を過ごしているだろうかと思うと、たちまちバカバカしくなってしまった。  第一、これまで使ってきたThinkPadは3台とも、一度はクラッシュして記憶喪失になっているのだ。そのたびに私の使い方が悪かったのだとか、個体差はあるものだと、いちいちThikPadをかばってきたが、冷静に考えればこんな頻度でクラッシュするはずがない。

 ThinkPadはもうやめよう。 ― こうして、私はとうとう13年の長きにわたるパートナーシップにけりをつけることにした。

 突然、気持ちが軽くなった。もうThinkPadとは決別しようと決めて、何日もしないうちに家電店に向かい、ある程度のスペックと、キーの打ちやすさだけで、さっさと決めて新しいPCを購入した。
 あっけないほど、快適なPCライフがやってきた。あのThinkPadに対するこだわりと忠誠心は一体なんだったのだろうか。すっかり分からなくなった。きっと、これで良かったんだ。
 まだメーラーも、iTunesも、ホームページ作成ソフトも入っていないので、本格始動とは行かないが、きっとこれで良かったんだ…

 ThinkPadなんて別れてやって、すっきりしたぜ!
 ザ・バーズの "I'll feel a whole lot better" の邦題は「すっきりしたぜ」。  



 踊りまくる演出は曲に合っていないが、とにかく格好良い。ギターを一生懸命弾きながらコーラスをつけているロジャー・マッグインと、デイヴィッド・クロスビーの初々しさがまた、格好良い。

 もちろん、こちらのトム・ペティ・バージョンも大事。私が最初に聴いたのも、こちらのバージョン。

CFG on Blu-ray2011/04/22 23:51

 新しいPCを購入するにあたり、当然いくつかスペック上の条件を設定し、その条件を満たした、東芝,NEC,富士通いずれかのうち、もっともキーボードが叩きやすいものを選んだら、すんなりと決まった。
 さて、そのスペック上の条件において、重要なもののひとつが、Blu-ray再生であった。無論、プレイヤーも無いのに購入してしまった、[Concert for George] を観賞するためである。
 これでさらに、鮮明で美しいCFGが鑑賞できる。そう、客席で奥さんといちゃついているスティーヴ・ウィンウッドも、さらにくっきりと見えるに違いない…!

 オリジナルの[CFG]は、それこそディスクに穴が開くぐらい何回も見ている。とりあえずBlu-rayプレイヤーを入手して最初にしたのは、Blu-ray限定特典映像を見ることだった。
 もとから充実している[GFC]のエクストラ映像に、さらにドラマーたちのインタビューが加わっている。これがBlu-ray特典である。
 確かに、[CFG]におけるドラマー勢揃いは圧巻だった。特に "Wah Wha" の、ドラマー3人,パーカッション3人という打楽器セクションの迫力は、他に類を見ない規模だった。[CFG]を見た多くの人が、あのシーンに圧倒されているのを、何度も見ている。
 彼らのうち、リンゴ,ジム・ケルトナー,レイ・クーパーと言う、とくにジョージと親しかったドラマーたちのインタビューはとても興味深い。特に、ケルトナーのコメントは、ドラマー必見だろう。彼らの楽しそうなやりとりは、Blu-ray版を入手して、楽しんでもらいたい。最後にちょっとしたウィルベリーズ・ネタが挟まっているのには、クスリとさせられる。

 ドラマーたちの大活躍は、"Wah Wah" がもっともわかりやすいのだが、[CFG]におけるこの曲といえば、何と言ってもトム・ペティの神業的位置取りの妙こそ、必見である。
"Wah Wah"動画はこちら

 ダーニの後方、ややクラプトン寄り…。しつこくカメラに入ってくるトム・ペティ!アンディを録ろうとしても、なぜか金髪がチラチラする。

 しかも、なぜかエリックを見て大爆笑



 ダーニを見てもおじさんニコニコニコニコ…



 しまいには、センターでバンドリーダーのように、ふんぞり返る。



 途中でギター弾くのをやめて鼻を掻いてたり、いいかげんにストロークしたりしてるけど、やっぱり美味しい "Wah Wah"のトムさんなのでした。

変名のはなし2011/04/25 21:57

 変名というものがある。事情があって自分の正体を隠したいときに、意図的につける第二,第三の氏名のことだ。
 日本史上、幕末の活動家たちも ― 私は「志士」という名称があまり好きではない。「志士」の名にふさわしい人物も居た一方、ただのフーリガンもどきも居た。そもそも、「志士」の大半が攘夷を叫んでいたのだが、明治維新によって定まった方向はそれとは違う ― ともあれ、彼らも反対勢力から身を守るために、よく変名を用いていた。
 自分の好きな花を名前にする詩人が居る一方で、「春山花輔」と、「花山春輔」などというふざけた変名を用いたコンビも居る。井上聞多と伊藤俊輔 ― 有名な御神酒徳利のことだが、とにかくまじめにこの変名を使ったかどうか、極めて疑わしい。もっとも、この一本ネジの抜けた感じだからこそ、ひとりは刺客に襲われて「ほぼ死体」になったのかも知れない(死ななかったけど)。

 反対勢力に命を狙われないまでも、自分の名を伏せたいと思う場合もある。ミステリーの女王,アガサ・クリスティは、ロマンス小説を書くときに「メアリ・ウェストマコット」というペンネームを用いた。既にミステリー作家として有名になっていた以上、別ジャンルでは変名を用いて、この分野での実力を試したかったのだろう。もっとも、日本翻訳版では、最初からクリスティの名前が出ていたそうだが。

 ジョージ・ハリスンも、何度か変名を用いている。
 最も初期の変名として有名なのは、「ビートルズ・アンソロジー」でも紹介されている、カール・ハリスン。ビートルズがレコードデビューする前、「芸名をつけたほうが格好良い!」…程度の認識で、それぞれに変名を作った。ジョージが自分につけたのが、このカール・ハリスン。カールとは、ジョージが敬愛するカール・パーキンスから取っていることは、言うまでも無い。



 ジョージとジェフ・リンの間の人たち、どっかで見たような顔だが…誰だっけ?
 このカール・ハリスンという変名、いかにも子供っぽいネーミングセンスで、微笑ましい。

 ジョージ自身が知らぬところで、勝手に変名がつけられたいたケースもある。



 クリーム最後のアルバム,[Goodbye] の "Badge" にクレジットされている、ランジェロ・ミステリオーソ L'Angelo Misterioso というのは、ジョージのことだ。イタリア風のネーミングで、「ミステリアスな(ナゾの)天使」…とでも言うべきか。とにかく、あまりふるったネーミングセンスとは言いがたい。クラプトンがつけたのだろうか。

 ジョージを敬愛していたニッキー・ホプキンズのアルバム、[The Tin Man Was a Dreamer] でのジョージは、ジョージ・オハラ George O'Hara とクレジットされている。


 どうもこれは、ジョージが自分でつけた変名っぽい。頭に "O'" をつけた、アイルランド風のネーミングは、ハリスン家がリヴァプールに移住したアイルランド人の末裔であることを意識しているのだろう。

 ジョージの変名として、最大(?)のものは、もちろんウィルベリー・ネームだ。

 

 [Vol.1] のジョージは、「ネルソン・ウィルベリー」。ブラジルのF1チャンピオン,ネルソン・ピケから取ったという話もあるが、どうなのだろう。後にダーニが、「アイルトン・ウィルベリー」を名乗るので、あながち間違っていなさそうだ。もっとも、私もジョージと同じくモンティ・パイソンのファンなので、ホレイショ・ネルソン提督("Kiss me Hardy.") 説も捨てがたい。
 無論、ウィルベリー兄弟全員がそれぞれ変名を名乗っている。トム・ペティの、チャーリー・T・Jr. のファミリーネームは何なのか。これは、[Conversations with Tom Petty] で明らかになっている。

 ぼくはチャーリー・T。デレク・テイラー書いた膨大な量の「ウィルベリー一家の歴史」によればそうなる。アルバムには入れられなかったけど。たしか、マイケル・ペイリンが解説を書いているんだよね。でも、デレク・テイラーは本当に膨大な「ウィルベリーズ顛末」を書いていたんだ。  それによると、ウィルベリー一族の父親の名前はチャールズ・トルスコット・ウィルベリー Charles Truscott Wilbury(笑)。それで、ぼくはチャールズ・トルスコットにしたら面白いだろうなと思って、チャーリー・Tになったわけ。

 [Vol.3] になると、ジョージはスパイクに、そのほか,ブーとか、マディとか、どんどんへんてこな名前になっていく。
 別に変名を作らなくても、刺客に狙われるわけではないし、本当にシリアスな意味でレコード契約上の問題も、実は無かったのかもしれない。それでも、ジョージとその大親友たちは、きっと変名を作って楽しんだことだろう。音楽そのものにとっては、実にどうでも良いことだが、そんなどうでも良い事に本気で取り組み、全力で楽しむジョージは、改めて素敵だと思う。

年下の男の子2011/04/28 22:38

 最近、キャンディーズの「年下の男の子」という曲を、よくテレビから聞く。その歌詞の冒頭はこうだ。

 「真っ赤なリンゴをほおばる ネイビーブルーのTシャツ
  あいつはあいつは かわいい 年下の男の子」

 恋愛対象の男性が、真っ赤なリンゴをほおばる姿というのは、そうそう簡単にはお目にかかれないな…と、思ったら一人いた。
 ウィルベリーズのインタビューで、やおらリンゴをかじり始める、末っ子ウィルベリー君…。動画はこちら









 リンゴをかじっているのは、トムさんだけかと思ったら、もう一人居た。









 調子に乗ってもうひとつ!







ニューマーケット2011/04/30 21:34

 英国史上最年少の首相であるウィリアム・ピット(小ピット 1759-1806)は、ナポレオン・ボナパルトのことを、「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」と評したそうだ。更に、せっかく当たった大金を、混乱のためだけに浪費したとも言える。
 ともあれ、ナポレオンによってもたらされたヨーロッパにおける体制の混乱は、ウィーン会議(1814-1815)以降、「ウィーン体制」の名で秩序付けられ、一定の安定期を見るに至った。大ざっぱに言えば、ヨーロッパをナポレオン戦争以前の線引き状態に戻したのだ。そのついでに、強権を持ついくつかの君主はその「属国」(と、思っている)支配を幾分強めている。
 しかし、歴史はすでにフランス革命を経験し、産業革命が起こっていた。知識階級や、民衆の間には自由主義,民族主義の潮流が生まれ、19世紀半ばには多くの反体制運動 ― 革命が勃発した。
 その一つが、1848年ドイツの3月革命である。巨大権力である神聖ローマ帝国皇帝の支配下からドイツの小公国が離脱し、統一ドイツを目指した運動だ。この試み、1848年時点では失敗しているが、20年後に統一ドイツ帝国が出現することになる。

 フランツ・シーゲルは1824年バーデン公国に生まれた軍人だった。ドイツ1848年革命当時は若い大佐として、革命軍を率いて活躍した。この時の革命は道半ばで頓挫したため、シーゲルは多くの革命家たちと同様に亡命し、1852年にアメリカに移民してきた。
 彼は1861年に南北戦争が始まると、北軍大佐として従軍し、1862年には少将に昇進した。しかし彼の南北戦争における戦績は必ずしも華やかとは言えない。多くのドイツ系移民兵士にとって、誇りであり拠り所でもあったシーゲルだが、相手も悪くストーンウォール・ジャクソンだったりしたため、あまり軍上層部を満足させるような結果は残せなかった。
 軍の最高司令官であるハレックなどは容赦なくシーゲルを切り捨てようとしていたが、ドイツ系移民の票も軽視できないリンカーンは、シーゲルに居場所を与え続けていた。かくして、シーゲルは1864年、ウェストバージニア方面指揮官に、任命されたのである。

 グラントは、1864年の春から再びリーの南軍と対決するために、同時に二方面での攻撃作戦を計画した。一つが、失敗に終わったバミューダ・ハンドレットであり、もう一つがシーゲル率いる6000の兵による、シェナンドア渓谷からの南部への補給路断絶作戦だった。
 バミューダ・ハンドレッドとほぼ同時期の1864年5月15日、シーゲルの北軍は、南軍ブレッキンリッジ少将率いる4000と、ヴァージニア州ニューマッケットで衝突した。兵力が不足しがちな南軍では、当然リーからの援軍は望めなかった。一方、戦場の近くにあった陸軍士官学校の士官候補生たち(15~21歳)250名が、南軍に参加して10名の死者を出した。
 しかし土砂降りの中で始まったこの戦いは、南軍の勝利に終わった。主な原因は、戦意の差だろう。将たるシーゲルも、この戦いの意義を理解していたとは言い難く、いともたやすく退却してしまったのである。
 シーゲルはその後も北軍の指揮官を務めたが、翌年、評価を得ることなく退任している。

 グラントが意図したような、リーの南軍本体への横合いからの攻撃は、こうして失敗に終わった。グラントにしてみれば、バトラーもシーゲルも、役立たずとしか言えなかっただろう。
 しかしその一方で、彼は自分が集中するべき作戦を改めて確認したのかもしれない。すなわち、基本的に兵力・補給不足に悩む南軍においては、リーだけが脅威であって、その軍に食いつき、どんなに手ひどい反撃を受けても、絶対に放さないことだった。