テンチ家の兄弟(その6)2008/11/25 21:51



 1862年春、シャイロー作戦の失敗後、南軍テネシー軍を率いることになったブラッグは、北軍に対する牽制部隊のみを残し、テネシー州コリンスから南へ撤退。鉄道を使って、大胆にもメキシコ湾岸のモビールへ大移動。さらにジョージア州アトランタを経由して、ディケーターに陣取る北軍の東側に回り込む作戦に出た。
 東部戦線のリーやその配下ストーンウォール・ジャクソンや、ジェブ・スチュアートばりの、大回転。それが成功するかどうかは、その後の展開を記すときに譲る。

 いくら北軍のビュエルがノロノロしているとは言え、この作戦には危険が伴う。この大移動を成功させるには、南軍の残留組がいかに北軍を撹乱し、動きを止めるかにかかっていたようだ。
 それを示唆しているのが、ジョン・ウォルターと、ルーベン・モンモランシーのテンチ兄弟が所属するジョージア州第一騎馬連隊の動きである。

 ブラッグのテネシー軍主力は6月に南下を開始し、大回りして7月末チャタヌーガに終結した。さらに、そこで一か月の充電時間を稼いでいる。
 その間、記録されているジョージア州第一騎兵連隊の動きは、以下の3件。

 1862年 7月 13日 マーフリーズボロ(ナッシュビルの南東。青■印)
 1862年 7月 21日 ナッシュビル付近
 1862年 8月 23日 ビッグヒル(ノックスビルの南東赤■印)

 マーフリーズボロは、この年の末から翌年にかけて有名な戦いがあるので、区別する必要がある。7月13日の一週間後にナッシュビル付近で活動しているということは、ナッシュビル陥落後、北軍をなやませたゲリラ的な攻撃が行われていたことがうかがえる。
 マーフリーズボロでは、ルーベン・モンモランシー・テンチが負傷している。ただし、彼はのちにホィーラーの騎兵連隊と行動を共にしているので、このときの負傷の程度はさほどひどいものではなかったようだ。
 8月23日のビッグヒルは、テネシー州と、ノース・カロライナ州の州境付近に位置する、山間部の町。今では、観光の町になっている。近くの町であるノックスビルも翌年の末にひと戦あったところ。
 つまり、テンチ家の兄弟とその騎兵部隊は、テネシー州を東西に移動しながら、南軍の主力が北部侵攻する準備を整えるまでの時間を稼いでいたようだ。

 そのころ、東部戦線ではリーがマクレランの半島作戦を挫折させ、さらに第二次ブルランの戦いで大勝利を挙げつつあった。
 南軍は勢いに乗っていた。西部戦線のブラッグも、その勢いに乗りたかったことだろう。しかし、彼はリーのように名将として名を残すこともなかったし、主導権を一瞬でも握ることはできなかった。
 テンチ家の兄弟は、そんな西部戦線に身を置いている。

(つづく)