モノカシー / ベン・ハー ― 2012/01/25 22:01
南北戦争の記事を書くのは非常に久しぶりなので(最後に「ピーターズバーグ包囲」を書いたのが、去年の10月31日。ぜーんぶジョージのせい♪)、なぜこの音楽雑記ブログにこんな話題を連載しているのか、再確認したほうがよさそうだ。
トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのキーボードプレイヤー,ベンモント・テンチはフロリダ州ゲインズビルの名士の家の出身、いわゆるお坊ちゃま。彼の曽祖父ジョン・ウォルター・テンチはジョージア州ニューンナン出身。二十歳そこそこで、二人の弟とともに南部連合軍ジョージア州騎兵第一連隊として南北戦争開戦時から終戦まで、転戦を重ね、最終階級は少佐だった。その肖像画はテンチ家のリビングルームに飾ってあり、マッドクラッチがデモ録音をしたときの写真にも、その姿はとらえられている。
ベンモントのひいおじいさんの足跡をたどってみようかと思うついでに、南北戦争のことなど勉強してみたくなり、そもそもロックが好きなのにその母国の歴史を分かっていないのは問題がある…ということで、南北戦争を追う記事を細々と書き続けているというわけ。
1864年6月、東部戦線ではロバート・E・リー率いる南部連合ヴァージニア軍は、首都リッチモンドの手前を守るピーターズバーグで、ユリシーズ・グラント率いる北部連合ポトマック軍の包囲によって動きを封じられていた。
兵力・物資ともに圧倒的優位にある北軍に包囲され、長期戦に持ち込まれては、南軍に勝ち目は無い(欧州各国による調停のチャンスはとっくに消えていた)。そこで、リーは逆に北部連邦の首都ワシントンD.C.を急襲することによってグラントの包囲を緩めさせようと試みた。
無論、南軍は兵力が足りない。その少ない兵力からジュバル・アーリー中将に9000の兵力を与え、西回りでヴァージニア州とウェスト・ヴァージニア州境を走るシェナンドー渓谷沿いに北上し、あわよくばワシントンを突く。兵力と現状の厳しさに対して、かなり大胆な作戦だった。
アーリーの軍勢は、もちろん東からワシントンに向かうほうが近道だったが、そちらはグラントに包囲されているのだ。一方で、さらにシェナンドー渓谷沿いの穀倉地帯を押さえることは、兵糧作戦面でも重要だという利点もあった。
アーリーのバレー方面作戦(シェナンドー「渓谷」沿いなので、このように呼ばれる)は、当初順調に推移し、ポトマック川を渡ってメリーランド州に入った頃には、増援部隊も加わって15000になっていた。7月9日、アーリーはルー・ウォレス少将率いる北軍7000と戦闘を行った。場所は、ワシントンの北西約60km, フレデリックの町のほどちかく、モノカシー。
ウォレスの北軍は、構成兵士からして精鋭とは言いがたく ― 要するに、急ごしらえの寄せ集めだった。さらにアーリーの狙いがワシントンなのか、ボルチモアなのかが判別できないとあって、かなり不利だった。一方、アーリーは兵糧を確保しながらの進撃で、勢いがある。戦闘は南軍の勝利に終わった。
しかし、ウォレス率いる北軍は、アーリーの進撃を丸一日止めたことになる。この一日でもって、グラントはワシントンの守備を固めることができた。この小さな戦闘の一日が、ワシントンを守ったと言えるかもしれない。
このモノカシーの戦いで敗軍の将となったルー・ウォレスについて。
彼は西部戦線シャイロー(1862年4月)における北軍苦戦の責任を負うべき人として認識されているところがあり、1864年当時もあまり北軍内で優遇されてはいなかった。モノカシーの戦いに臨むのも、ほかに手の空いた人が居なかったというのが実情らしい。シャイローに関してはウォレスにも言い分があるのだが…
ウォレスは軍人としてよりも、むしろ小説家としての方が圧倒的に有名だ。何度も映像化されたベストセラー小説「ベン・ハー:キリストの物語」の作者なのだ。戦後、政治の世界に身を置き、州知事や大使を歴任したが、その中で「ベン・ハー」を出版し、作者として後世に名を残すことになる。軍役における彼の鬱憤が、この作品に反映されているという見方もあるそうだ。
1870年代末にニューメキシコで起こった、「リンカーン郡戦争」(戦争といっても、武装した一般市民(カウボーイや、アウトローたちを含む)の勢力抗争)の事後処理にもウォレスは携わっている。その経過で、有名なビリー・ザ・キッドに恩赦を与え、証言を得ようとしたが(つまり取引)結局、ビリー・ザ・キッドはアウトローのままだったため、恩赦は取り下げている。
やはり、ウォレスは軍人よりも、政治家よりも、小説家として大成したと言ってよさそうだ。
トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのキーボードプレイヤー,ベンモント・テンチはフロリダ州ゲインズビルの名士の家の出身、いわゆるお坊ちゃま。彼の曽祖父ジョン・ウォルター・テンチはジョージア州ニューンナン出身。二十歳そこそこで、二人の弟とともに南部連合軍ジョージア州騎兵第一連隊として南北戦争開戦時から終戦まで、転戦を重ね、最終階級は少佐だった。その肖像画はテンチ家のリビングルームに飾ってあり、マッドクラッチがデモ録音をしたときの写真にも、その姿はとらえられている。
ベンモントのひいおじいさんの足跡をたどってみようかと思うついでに、南北戦争のことなど勉強してみたくなり、そもそもロックが好きなのにその母国の歴史を分かっていないのは問題がある…ということで、南北戦争を追う記事を細々と書き続けているというわけ。
1864年6月、東部戦線ではロバート・E・リー率いる南部連合ヴァージニア軍は、首都リッチモンドの手前を守るピーターズバーグで、ユリシーズ・グラント率いる北部連合ポトマック軍の包囲によって動きを封じられていた。
兵力・物資ともに圧倒的優位にある北軍に包囲され、長期戦に持ち込まれては、南軍に勝ち目は無い(欧州各国による調停のチャンスはとっくに消えていた)。そこで、リーは逆に北部連邦の首都ワシントンD.C.を急襲することによってグラントの包囲を緩めさせようと試みた。
無論、南軍は兵力が足りない。その少ない兵力からジュバル・アーリー中将に9000の兵力を与え、西回りでヴァージニア州とウェスト・ヴァージニア州境を走るシェナンドー渓谷沿いに北上し、あわよくばワシントンを突く。兵力と現状の厳しさに対して、かなり大胆な作戦だった。
アーリーの軍勢は、もちろん東からワシントンに向かうほうが近道だったが、そちらはグラントに包囲されているのだ。一方で、さらにシェナンドー渓谷沿いの穀倉地帯を押さえることは、兵糧作戦面でも重要だという利点もあった。
アーリーのバレー方面作戦(シェナンドー「渓谷」沿いなので、このように呼ばれる)は、当初順調に推移し、ポトマック川を渡ってメリーランド州に入った頃には、増援部隊も加わって15000になっていた。7月9日、アーリーはルー・ウォレス少将率いる北軍7000と戦闘を行った。場所は、ワシントンの北西約60km, フレデリックの町のほどちかく、モノカシー。
ウォレスの北軍は、構成兵士からして精鋭とは言いがたく ― 要するに、急ごしらえの寄せ集めだった。さらにアーリーの狙いがワシントンなのか、ボルチモアなのかが判別できないとあって、かなり不利だった。一方、アーリーは兵糧を確保しながらの進撃で、勢いがある。戦闘は南軍の勝利に終わった。
しかし、ウォレス率いる北軍は、アーリーの進撃を丸一日止めたことになる。この一日でもって、グラントはワシントンの守備を固めることができた。この小さな戦闘の一日が、ワシントンを守ったと言えるかもしれない。
このモノカシーの戦いで敗軍の将となったルー・ウォレスについて。
彼は西部戦線シャイロー(1862年4月)における北軍苦戦の責任を負うべき人として認識されているところがあり、1864年当時もあまり北軍内で優遇されてはいなかった。モノカシーの戦いに臨むのも、ほかに手の空いた人が居なかったというのが実情らしい。シャイローに関してはウォレスにも言い分があるのだが…
ウォレスは軍人としてよりも、むしろ小説家としての方が圧倒的に有名だ。何度も映像化されたベストセラー小説「ベン・ハー:キリストの物語」の作者なのだ。戦後、政治の世界に身を置き、州知事や大使を歴任したが、その中で「ベン・ハー」を出版し、作者として後世に名を残すことになる。軍役における彼の鬱憤が、この作品に反映されているという見方もあるそうだ。
1870年代末にニューメキシコで起こった、「リンカーン郡戦争」(戦争といっても、武装した一般市民(カウボーイや、アウトローたちを含む)の勢力抗争)の事後処理にもウォレスは携わっている。その経過で、有名なビリー・ザ・キッドに恩赦を与え、証言を得ようとしたが(つまり取引)結局、ビリー・ザ・キッドはアウトローのままだったため、恩赦は取り下げている。
やはり、ウォレスは軍人よりも、政治家よりも、小説家として大成したと言ってよさそうだ。
コメント
_ dema ― 2012/02/22 17:23
_ NI ぶち ― 2012/02/24 23:48
>demaさん
おかげさまで、ただオフにしっぱなしだったのを、忘れてただけです(笑)。
ジャクソンも死んじゃうし、スチュアートも死んじゃうし、リーは包囲されてるし、うーん、つまら~ん…などと思っていたのですが、よくよく読んでみると、確かにこのアーリーの作戦は凄いですね。やっぱり南北戦争きっての名将はリーなんだと、実感しました。そう、やっぱりリーはすげぇ!
アーリーじゃなくて、ジャクソンがこの襲撃の将だったら、どうなっていたでしょうね。もっと早くワシントンを衝いたかも知れません。
私はそもそも、「ベン・ハー」のウォレスが軍人だったことを知りませんでした。人間万事塞翁が馬。何がどうなって名を残すか分かったもんじゃありません。
おかげさまで、ただオフにしっぱなしだったのを、忘れてただけです(笑)。
ジャクソンも死んじゃうし、スチュアートも死んじゃうし、リーは包囲されてるし、うーん、つまら~ん…などと思っていたのですが、よくよく読んでみると、確かにこのアーリーの作戦は凄いですね。やっぱり南北戦争きっての名将はリーなんだと、実感しました。そう、やっぱりリーはすげぇ!
アーリーじゃなくて、ジャクソンがこの襲撃の将だったら、どうなっていたでしょうね。もっと早くワシントンを衝いたかも知れません。
私はそもそも、「ベン・ハー」のウォレスが軍人だったことを知りませんでした。人間万事塞翁が馬。何がどうなって名を残すか分かったもんじゃありません。
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ずっとコメントがオフになっていたので、嫌がらせでもあったのかな?なんて思ってしまいました(笑)
アーリーのワシントン襲撃は、いかにもリーらしい大胆な作戦ですね。こんなことをやるのはリー以外考えられません。
リーがギャンブルをするための最後の手駒がアーリーだったといえるでしょう。
ウォレスの立場を考えると、劣勢の兵力で、敵の攻撃目標がはっきりしない状況で防御行動を取るのはたしかにむずかしいです。
でも、考えてみれば、一連のウィルダネスキャンペーンでのリーも、まったく同じ立場でした。いわゆる「機動防御」ですね。そして、彼は完璧に北軍を防ぎきりました。それを考えるとやっぱりリーはすげえ!
リンカーン郡戦争にウォレスが関わっていたというのは初めて知りました。