ゲティスバーグの二日目2010/05/05 22:40

 ゲティスバーグの戦いと言っても、ゲティスバーグの町中で市街戦が展開されたわけではない。実際の戦場は、主に市街の南側だった。ゲティスバーグの戦い二日目、1863年7月2日の戦闘は、南軍のリーがロングストリートが北軍の西側を南下させて、南端から順々に攻撃を仕掛けることから始まった。
 始まったとは言っても、この南軍の攻撃はのっけからつまづいていた。リーは速攻を期して午前中には作戦実行に移りたかったが、発令そのものが昼近くであり、さらに万事慎重なロングストリートの性格を反映して、攻撃開始は午後四時ごろまでずれこんでいた。

 兵力の量で勝る北軍のミードにしてみれば、手堅い陣地を敷いてひたすら南軍の攻撃を跳ね返し続ければ、負けることはなかった。しかも南軍の攻撃開始が遅れていたのだから、防御態勢を取る北軍には準備をする時間がたっぷりあった。
 ところが、南北に長い北軍陣地の中で、南の方に位置するダニエル・シックルズの軍団がまるまる、前夜にハンコックの指示で固めてあったセメタリー・リッジからずっと前進して、南軍がやってくる街道までせり出していたのである。防御態勢を整えねばならない北軍にとって、この突出は明らかに「破れ目」となる弱点だった。
 ポトマック軍総司令官であるミード自ら、シックルズの元に駆けつけて命令不服従を責めるという体たらくだったが、何にせよ既に手遅れだった。ロングストリートは攻撃を開始し、おもにリトル・ラウンドトップ(小円丘)と呼ばれる丘を中心に大激戦となった。
 シックルズの独断行動の理由は、いくつか挙げられている。しかし、彼自身が招いた激戦の結果、シックルズは右足を吹っ飛ばされた。このため、彼は軍法会議にかけられることもなく、独断行動の理由ははっきりしないままだった。
 どうもこのシックルズという人物、戦前は娼婦同伴で州議会にやってきたり、妻を置き去りにしてその娼婦とイギリス旅行に行ったり、妻の浮気相手を堂々と射殺しておいて、社交界のコネを駆使し、マスコミを味方につけて無罪になるなど、女性の身としては好きになれないと言うことは、一応コメントしておく。

 とにかく、シックルズの独断のせいで北軍は思わぬ苦戦を強いられることになった。南軍ロングストリートの攻撃も、決して怒涛の如くではなかったのにも関わらずである。しかも南軍の北側から攻撃するユーエルの第二軍は攻撃のタイミングを計りかねていたし、そもそも南軍は全軍が勢ぞろいもしていなかった(第一軍ピケット師団と、スチュアートの騎兵隊が未着)。
 北軍の中央部で防御を担当していたハンコックはてんてこ舞いだった。シックルズ支援のために自軍を割いていたし、今度は南軍第三軍A.P. ヒル配下の師団が攻撃をしてくる。
 これを跳ね返すためにハンコックの指示で反撃に出た第一ミネソタ連隊は、死傷率82パーセントというべらぼうな壊滅状態だった。それでも、この犠牲は無駄にならず、北軍は持ちこたえた。のちの「ピケット・チャージ」と比較してみると、同じ壊滅状態でも、最終的に勝つか負けるかで、印象がだいぶ変わる。
 
 北側で攻撃のタイミングを計っていたユーエルも日没近くに攻撃を開始したが、結局北軍の防御戦線を打ち破るまでには至らなかった。ミードは、攻撃される箇所が発生するたびにそこへ兵力を移動させるという、対処戦略を展開したに過ぎないが、兵力に勝る方が防御に徹するとすれば、これが最善だったのだろう。
 とにかく、両軍ともに膨大な死傷者を出した。南軍は全力で攻めたし、シックルズの「破れ目」というチャンスもあった。しかし、北軍は守り切った。