ピケッツ・チャージ2010/05/28 23:49

 ゲティスバーグの一日目は、南北両軍とも衝突が始まり、一気に押しきれたであろう南軍がそれをやり切らずに終了。
 ゲティスバーグの二日目は、南軍の攻撃がやや遅く、チャンスはあったが活かし切れず、北軍が守って終了。
 ゲティスバーグの三日目は、戦力がそろったところで、南軍が最後の攻撃を仕掛ける ― 大まかにいえばそういう流れだろうか。

 とにかくゲティスバーグは南北戦争最大の、派手な戦闘であり、ここを境にして南軍が一気に劣勢へと立たされた(ように見える)ため、熱心に研究され、文献も多く、Wikipediaなどにも実に詳細な記事が載っている。これらを読んでいると大まかな流れが分からなくなりかねないので、南北戦争ビギナーとしては、極力視点を引いて見ている。
 その中でも三日目は、やはり「ピケットの突撃(Pickett's Charge)」が象徴的で、分かりやすい場面だ。

 ゲティスバーグの二日目は、南軍が北軍陣地の左右両翼から攻撃をしかけたものの成果が上がらなかった。その日 ― 1863年7月2日の夜には、南軍のいずれの部隊も二日間の戦闘で疲労し切っていたが、ロングストリートの第一軍旗下,ジョージ・ピケット少将の師団が、新たに到着していた。
 この、まだ元気でフレッシュなピケットの師団を戦闘に、北軍陣地の中央を突破しようというのが、リーが立てた三日目の作戦である。ピケット師団の直接の上司であるロングストリートは、かなり強硬に反対した。彼にはこの攻撃に勝機を見出すことができなかったのである。かと言ってロングストリートが、他に具体的に勝てる何かの案を持っていたのかと言うと、そうでもなさそうだ。
 私が参考にしている書籍「南北戦争 49の作戦図で読む詳細戦記」の記述では、「ピケットは計画を聞いてかなり乗り気になっていた。」とある。
 結局 ― そして無論,最高指揮官であるリーの作戦は、翌7月3日、実行に移された。
 すなわち、ピケット師団を先頭にして、北軍中央への集中突撃が行われたのだ。ピケット師団のほかにも師団はあったし、総じて言えばロングストリート指揮下の数師団がこの突撃を行ったのだが、主力であり、先頭を切ったピケットの名を取って「ピケットの突撃」と呼ばれている。

 しかし、ロングストリートは乗り気ではない。ここからして、すでに幸先悪い。負けを予感するロングストリートに同情を覚える一方で、いったん突撃が決定となって、それが実行の段階になったら躊躇するべきでもない。ロングストリートの評価の難しさは、この辺りにあるのだろう。
 とにかく、突撃を補佐するために重要な要素である、集中砲撃はいくらか中途半端だった(それでも、旧来の戦闘に比べてると凄まじい砲撃だったが)。
 ピケット師団は、ルイス・アーミステッド准将が先頭に立って突撃を行い、一時は北軍の防御線を突破した。そこが、「南軍の最高到達点 The high-water mark of the Confederacy」と言われている。しかし、針の一突きが「突破した」だけで、さらに進むことはできず、むしろここが「限界地点」だったと言うべきだろう。
 北軍は防御陣地を立て直し、前日に続いてハンコックの軍団を中心になって、南軍を防いだ。アーミステッド准将はこの突撃で致命傷を負い、間もなく死亡した。
 「ピケットの突撃」に参加した南軍兵士はあわせて12000人。死傷者はその半数にも昇り、特にピケット師団の実に8割以上は無事では済まなかった。

 南軍の中央突破作戦は失敗に終わった。半減となった兵士たちが戻ってくるのを、リーは自ら出迎えた。彼は作戦の失敗と、このゲティスバーグでの敗戦を痛いほど味わっただろう。
 ピケット自身は生きて帰還したが、その師団の壊滅的な被害とともに、彼の心理状況も粉砕されていた。彼は突撃を命じたリーを許さず、その感情を表す言葉も、実際に発している。果たしてこれが、当初は「乗り気だった」軍司令官のあるべき姿だろうか。一方で、それほどまでにこの作戦の結果の悲惨さは、凄まじかったとも言える。

 ところで、この日の戦闘はピケットの突撃が行われた、中央部だけではなかった。7月3日の早朝、南軍ユーエルに対していた北軍の右翼が攻撃を仕掛け、南軍を押し戻していた。
 一方、南軍本体への合流が著しく遅れていたスチュアートの騎兵も、7日2日の夜には到着しており(スチュアートを愛していたリーも、さすがにこの時ばかりは、騎兵隊長への不満を露わにした)、翌3日は北軍の背後の撹乱を意図していたが、逆に北軍騎兵に妨害され、ピケットの突撃を助けることにはならなかった。