文弱の徒、三たび防研へゆく ― 2012/08/12 21:14
文弱(ぶんじゃく):文事ばかりにふけって弱々しいこと
私の曾祖父、明治期の海軍士官だった山川有典(やまかわありつね)について調査するために、防衛省防衛研究所に初めて行ったのは、去年の6月のこと。ここまでのお話は、以下の記事を参照。
2009年12月20日 真白き富士の嶺
2011年 6月10日 文弱の徒、防研へゆく
去年は二回防研へ行っているので、今回は三回目となった。
ラブ&ピースでロックンロールな私にとって、東京恵比寿の防衛省防衛研究所は、いつも緊張する。緊張の割に、入館のセキュリティがゆるいのは相変わらず。
しかし、今回はレッスンの後に行ったので、背中にウクレレのケースを担いでいる。これはまずい。何かの映画で、殺し屋がヴァイオリンケースに銃を隠しているという話がなかったか?どうしよう、私の背にあるこの細長い物、中身は木です。名前はマーティン・フリーマン…あ、いや、アフガン帰りの軍医ではなくて…
無意味にアタフタする必要もなく、普通に戦史資料室に入れた。ただし、この部屋は手前のロッカーに鞄を預けなければならない。資料保護のためだろう。私のユークはロッカーに入らず、結局資料室に預けることになった。
私の曾祖父山川有典が海軍兵学校を明治29年に卒業した後、どんな海軍人生だったのかをたどるのが、私が防研を訪れた目的なのだが、これが中々難しい。職員の方によると、昭和の資料なら色々とあるのだが、明治時代の資料は少なく、網羅的ではないというのだ。
しかも、山川が士官をしていた時代は、日清戦争から日露戦争前後の緊張感のある時期で、情報公開もやや消極的だったのだと言う。
そして、経歴を追うことが困難な一番大きな理由は、山川が早く死んだため、その遺児(私の祖父)の家に、彼の記録がきちんと残されていないことらしい。
そんな中で、なんとかポツリポツリと拾い得た情報によると、まず少尉任官と同時に、軍艦常磐の回航員となり、英国に派遣されている。帰国後、佐世保第二艇隊付。明治32年中尉任官。明治34年大尉任官。この時、砲艦操江の航海長。日露戦争が開戦となり、明治38年葛城航海長、3月に日本丸航海長に異動。北海の哨戒任務にあたる。
戦後明治39年に少佐任官。この時は、日進の航海長。最後に確認できた情報は、明治41年航海長として松島に乗艦、練習艦隊を組んで長期航海の帰り、台湾の馬公で松島が爆沈し、これによって死亡した。
この経歴の隙間を埋めることは、相変わらず出来ないでいる。
視線を変えて、松島爆沈事故をしらべてみると、意外なことが分かった。
これまで、親戚から聞いた話では、曾祖父の遺体の所在は分からない ― つまり、馬公の海の底だということになっていたのだが、海軍の「死体捜索及救助」という資料の中に、松島爆沈の四日後、収容された遺体として、海軍少佐山川有典の名前を発見したのだ。
さすがに、ドキリとした。時代がかった毛筆で、収容遺体リストの中に、彼の名前。まるで、自分の体の八分の一を発見してしまったかのような、体のどこかがズキンと痛むような、不思議な感覚 ― 。
防研の職員の方などが、気の毒そうな顔をして、「遺族のかたですか」などとしんみり言っても、私にはそういう自覚がない。曾祖父とは言え、祖父が一歳の時に亡くなっているし、私にとってはまるっきり歴史上の人物だ。
しかし、彼の遺体を「発見」したときの、独特の感覚が、まだ残っている。
山川有典の遺体と共に、遺品もいくらか引き上げられ、それもリストになっている。軍服や、短剣、外套などに混じって、預金通帳があったらしい。海軍支給の外套に関しては、その後祖父が使ったらしく、ボタンだけが私の手元に残っている。

そして、私が一番興味を持っているのは、引き上げられた遺品の中に「写真 十一枚」とあることだ。この写真、一体何が映っていたのだろうか。外套を祖父が着用し、そのボタンを私が所有している以上、山川の郷里のどこかには、この写真十一枚もあるのではないかと思って居る。
防研の次は、この写真探しをしようではないかと、思っている。
山川少佐を含めた松島爆沈事故死亡者は、どうやら台湾で火葬・埋葬されたらしい。そして生存者や、遺物の一部は、軍艦常磐で佐世保へと送られた。
常磐 ― 山川少佐が、少尉になったとき、英国に派遣されたのは、この常磐を回航するためだった。明治海軍士官としての彼は、常磐で出発し、常磐で帰ってきたのだろうか。
常磐の回航 ― つまり、山川がまだ少尉になったばかりの時の資料が、今回の防研訪問で一番の驚きだった。
明治31年、常磐回航委員が英国に派遣されるわけだが、その時「旅行免状交付ノ義ニ付上申」という書類が作成された。要するに、パスポートの申請を、海軍省がまとめて行ったのだ。中佐・齋藤孝至以下、パスポートが必要な人員全ての名前が、漢字とカタカナの振り仮名をつけて記載されている。パスポートには、アルファベット表記があるからだろう。
振り仮名のある資料を目にするのは、これがはじめてだった。
山川有典
私はこの曾祖父の名前を、「ありつね」と教えられていた。「典」という字を「つね」と読む例を他に知らなかったため、不思議に思っていた。
ところが、今回見た、海軍省の資料では、「アリノリ」と記載されていたのだ。まず、これがびっくり。曾祖父は早く死んだため、この名前の呼び方に関する誤解が、訂正されないままきたらしい。
それよりもびっくりしたのは、「山川」という姓。つまり、私の母の実家は、「やまかわ」だと、固く信じていたし、少佐の子孫はだれもが「やまかわ」と名乗っている。しかし、海軍省の資料には…
ヤマガワ
姓の読み方まで違った…。
日本の戸籍には、振り仮名がない。イメージとしての文字を登録しているだけで、実はどう読むかは登録されていないのだ。そして、少佐の遺児(祖父)の代から、名字の読み方が変わってしまい、誰も気付いていなかったらしい。
いやはや、これはびっくりした。やはり、一次資料というものは、迫力が違う。インターネットのおかげで物調べは楽になったが、やはり古い毛筆の資料であっても、一次資料を自分の目で確認するのは、たいへん有意義だということを、思い知った。
私の曾祖父、明治期の海軍士官だった山川有典(やまかわありつね)について調査するために、防衛省防衛研究所に初めて行ったのは、去年の6月のこと。ここまでのお話は、以下の記事を参照。
2009年12月20日 真白き富士の嶺
2011年 6月10日 文弱の徒、防研へゆく
去年は二回防研へ行っているので、今回は三回目となった。
ラブ&ピースでロックンロールな私にとって、東京恵比寿の防衛省防衛研究所は、いつも緊張する。緊張の割に、入館のセキュリティがゆるいのは相変わらず。
しかし、今回はレッスンの後に行ったので、背中にウクレレのケースを担いでいる。これはまずい。何かの映画で、殺し屋がヴァイオリンケースに銃を隠しているという話がなかったか?どうしよう、私の背にあるこの細長い物、中身は木です。名前はマーティン・フリーマン…あ、いや、アフガン帰りの軍医ではなくて…
無意味にアタフタする必要もなく、普通に戦史資料室に入れた。ただし、この部屋は手前のロッカーに鞄を預けなければならない。資料保護のためだろう。私のユークはロッカーに入らず、結局資料室に預けることになった。
私の曾祖父山川有典が海軍兵学校を明治29年に卒業した後、どんな海軍人生だったのかをたどるのが、私が防研を訪れた目的なのだが、これが中々難しい。職員の方によると、昭和の資料なら色々とあるのだが、明治時代の資料は少なく、網羅的ではないというのだ。
しかも、山川が士官をしていた時代は、日清戦争から日露戦争前後の緊張感のある時期で、情報公開もやや消極的だったのだと言う。
そして、経歴を追うことが困難な一番大きな理由は、山川が早く死んだため、その遺児(私の祖父)の家に、彼の記録がきちんと残されていないことらしい。
そんな中で、なんとかポツリポツリと拾い得た情報によると、まず少尉任官と同時に、軍艦常磐の回航員となり、英国に派遣されている。帰国後、佐世保第二艇隊付。明治32年中尉任官。明治34年大尉任官。この時、砲艦操江の航海長。日露戦争が開戦となり、明治38年葛城航海長、3月に日本丸航海長に異動。北海の哨戒任務にあたる。
戦後明治39年に少佐任官。この時は、日進の航海長。最後に確認できた情報は、明治41年航海長として松島に乗艦、練習艦隊を組んで長期航海の帰り、台湾の馬公で松島が爆沈し、これによって死亡した。
この経歴の隙間を埋めることは、相変わらず出来ないでいる。
視線を変えて、松島爆沈事故をしらべてみると、意外なことが分かった。
これまで、親戚から聞いた話では、曾祖父の遺体の所在は分からない ― つまり、馬公の海の底だということになっていたのだが、海軍の「死体捜索及救助」という資料の中に、松島爆沈の四日後、収容された遺体として、海軍少佐山川有典の名前を発見したのだ。
さすがに、ドキリとした。時代がかった毛筆で、収容遺体リストの中に、彼の名前。まるで、自分の体の八分の一を発見してしまったかのような、体のどこかがズキンと痛むような、不思議な感覚 ― 。
防研の職員の方などが、気の毒そうな顔をして、「遺族のかたですか」などとしんみり言っても、私にはそういう自覚がない。曾祖父とは言え、祖父が一歳の時に亡くなっているし、私にとってはまるっきり歴史上の人物だ。
しかし、彼の遺体を「発見」したときの、独特の感覚が、まだ残っている。
山川有典の遺体と共に、遺品もいくらか引き上げられ、それもリストになっている。軍服や、短剣、外套などに混じって、預金通帳があったらしい。海軍支給の外套に関しては、その後祖父が使ったらしく、ボタンだけが私の手元に残っている。

そして、私が一番興味を持っているのは、引き上げられた遺品の中に「写真 十一枚」とあることだ。この写真、一体何が映っていたのだろうか。外套を祖父が着用し、そのボタンを私が所有している以上、山川の郷里のどこかには、この写真十一枚もあるのではないかと思って居る。
防研の次は、この写真探しをしようではないかと、思っている。
山川少佐を含めた松島爆沈事故死亡者は、どうやら台湾で火葬・埋葬されたらしい。そして生存者や、遺物の一部は、軍艦常磐で佐世保へと送られた。
常磐 ― 山川少佐が、少尉になったとき、英国に派遣されたのは、この常磐を回航するためだった。明治海軍士官としての彼は、常磐で出発し、常磐で帰ってきたのだろうか。
常磐の回航 ― つまり、山川がまだ少尉になったばかりの時の資料が、今回の防研訪問で一番の驚きだった。
明治31年、常磐回航委員が英国に派遣されるわけだが、その時「旅行免状交付ノ義ニ付上申」という書類が作成された。要するに、パスポートの申請を、海軍省がまとめて行ったのだ。中佐・齋藤孝至以下、パスポートが必要な人員全ての名前が、漢字とカタカナの振り仮名をつけて記載されている。パスポートには、アルファベット表記があるからだろう。
振り仮名のある資料を目にするのは、これがはじめてだった。
山川有典
私はこの曾祖父の名前を、「ありつね」と教えられていた。「典」という字を「つね」と読む例を他に知らなかったため、不思議に思っていた。
ところが、今回見た、海軍省の資料では、「アリノリ」と記載されていたのだ。まず、これがびっくり。曾祖父は早く死んだため、この名前の呼び方に関する誤解が、訂正されないままきたらしい。
それよりもびっくりしたのは、「山川」という姓。つまり、私の母の実家は、「やまかわ」だと、固く信じていたし、少佐の子孫はだれもが「やまかわ」と名乗っている。しかし、海軍省の資料には…
ヤマガワ
姓の読み方まで違った…。
日本の戸籍には、振り仮名がない。イメージとしての文字を登録しているだけで、実はどう読むかは登録されていないのだ。そして、少佐の遺児(祖父)の代から、名字の読み方が変わってしまい、誰も気付いていなかったらしい。
いやはや、これはびっくりした。やはり、一次資料というものは、迫力が違う。インターネットのおかげで物調べは楽になったが、やはり古い毛筆の資料であっても、一次資料を自分の目で確認するのは、たいへん有意義だということを、思い知った。
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