文弱の徒、防研へゆく2011/06/10 23:40

文弱(ぶんじゃく):文事ばかりにふけって弱々しいこと

 私は意を決して、防衛省防衛研究所へ行くことにした。
 こちらの記事でも述べたとおり、私の曾祖父は明治期の海軍士官で、少佐だった1908(明治41)年に台湾馬公における軍艦松島の爆沈事故で亡くなった。
 この曾祖父 ― 山川有典に関しては、海軍兵学校第23期卒業生だったことと、松島で死んだことしか、その経歴が分かっていない。歴史好きとしては、日露戦争という大きな出来事もあったことだし、山川がその短い軍歴 ― 12年間に、どこで何をしていたのか非常に興味があった。
 しかし、私の祖父が1歳の時に曾祖父は亡くなっており、親戚筋にはいまいち彼に関する資料がない(本当はあるのかもしれないが、だれも所在について確信がない)。
 そこで思いついたのが、旧海軍の資料を当たるという手段。山川は兵学校出の高等武官だったのだから、すこしは記録があるに違いない。せめて辞令でも見れば、彼がいつ、何に任官し、どこで何の仕事をしていたのかくらいは分かりそうなものだ。
 近代日本史研究関連のホームページによると、どうやらその手の旧陸海軍の資料は、東京恵比寿の防衛省防衛研究所史料閲覧室で見ることができるらしい。

 ところが、いざ防研へ行ってみようじゃないかとなると、私はにわかに躊躇し始めた。
 この私が!音楽と美味しいものと、楽しい歴史と野球とF1が好きな、平和を謳歌するラブ&ピースなロック軟弱女子の私が、防衛省になんて行って大丈夫なのか?門を入る前に腕立て伏せ100回とか言われたらどうしよう。ビリーズ・ブートキャンプをクリアしないと入れてくれないとか?
 素知らぬ顔をして潜入しても、ボブ・ディランとジョン・レノンを信奉する危険人物としてマークされ、尾行が付くのか?防研のHPには「所蔵史料についての質問・相談は、『相談係』へ、気軽にお尋ね下さい。」とか書いてあるけど、「…で、あります!」とか、「チェストー!」とか言う人だったら、会話が成り立たない!
 …とまぁ、要するに行く前から散々びびっていたという次第。

 それ以外にも、心構えをしっかりしなければいけない。
 防研の史料閲覧室に来る人の多くは、十五年戦争の史料を調べて、自分や亡くなった家族,戦友の足跡をたどろうとしている。もしくは、真剣に歴史,戦史を研究している人々なのだ。その重く、深い歴史が詰まった部屋に、たかが自分のひいおじいちゃんが海軍さんだった以外は、「坂の上の雲」を数度読んだだけで、「超ファンですぅ~♪淳さんとか言って超ワラかすよね~」…などとぬかすヤカラが、物知り顔でチャラチャラ振る舞うのは、けしからぬ!…と、半ば本気で思っている。
 誰でも最初は浅学なのだから、別に気にする必要も無いかもしれない。しかし、20年来の友人Aが、知り合って何ヶ月もたっていない相手と結婚すると言いだし、しかもその結婚相手が俄かA通のくせに何でも知ったような顔で、Aネタを弄してAを笑いものにしたら、Aに対する長く深い愛情を持っている人は、どんな気持ちがするか…
…………
 例えにもならない例えで、私の防研に対する気構えは厳しさを増す。

 屁理屈が多い。案ずるより産むが易し。
 意を決して、平日の午後に休暇を取り、防研に向かった。

 恵比寿駅前の雑踏を通り過ぎ、5,6分歩いたところに、防衛省防衛研究所はある。守衛所で住所氏名、史料閲覧室に行く旨を所定用紙に記入し、入館証をもらえば、もう入れる。所持品検査もなければ、金属探知機もなし。トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのコンサートよりユルい。尾行はついて来ない。いや、きっとひとたび私が不審な行動をとれば、木々の間から迷彩服の精鋭が飛び出すに違いない…。
 敷地内は駅前の雑踏が嘘のように、樹木が多く、蚊柱が盛大に立っていた。そして今年最初の蚊に食われた。しかも2カ所。

 大学を思い出すような建物の中に、史料閲覧室はある。閲覧室そのものはこじんまりとしたもので、非常に静か。私が訪ねた午後には、6,7人来ていた。史料は閉架式で、閲覧申請書に見たい史料を書いて、書庫から出してもらう。
 そうは言っても、一体どの史料から見れば良いのかも見当がつかない。まずは、相談係さんに、事情を話してアドバイスをもらった。
 相談員さんは長州でも薩摩でもなく(実際の出身地はもちろん知らない)、穏やかに話を聞いて下さった。幸い、山川は兵学校出身の士官であるため、記録はあるだろうとのこと。ただし、さすがに明治というのは古い。この史料閲覧室に来る人の割合でも、明治関係は少数派のようだ。超有名どころの名将でもないので、山川の経歴を調べるには、やはり名簿や辞令の類と首っ引きになるしかなさそうだ。

 そこで相談員さんが引っ張りだして下さったのが、海軍人事局が作った「海軍高等武官名簿」。現存するのは明治32,36,38,39年の4巻。しかも現物ではなく複写物で、海軍の公式文書ではなさそうだ。海軍エリートたちが、仲間の動静確認のために、やや趣味的に作ったものに見えなくもない。
 ともあれ、ひとたびページをめくれば、明治30年代とあって、「坂雲」ワールド炸裂、綺羅星のごときビックネームがズラリと並んでいる。いきなり伊東閣下ですか!わぁ、東郷元帥が!島村だ、加藤だ、秋山が米国留学中だ!森山だ、佐藤だ、タカラベだスズキカンタローがアボアボアボアボ…落ち着け、自分!Aの長年の友の存在に敬意を払え!

…………

 山川は、明治31年1月少尉,明治32年9月中尉,明治34年大尉,明治39年少佐となり、この名簿作成時期、どの船に乗っていたのかは分かった。
 しかし、その間はどうしていたのかが分からない。海軍士官は非常に異動が多いのだ。肝心の日本海海戦(1905(明治38)年)時となると、3月に軍艦葛城から、日本丸の航海長に転じているので…もし5月の決戦時までそのままだったとしたら、決戦前の哨戒作戦に従事していたことになる。
 そして、山川にとって最後の階級であった少佐になったのが、その死 ― 松島爆沈の1年7ヶ月前。その時は、軍艦日進の航海長だった。その山川がどのような経緯で、翌年の1月には横須賀から松島に乗艦して旅立つことになったのか…?
 「海軍高等武官名簿」は非常に中途半端な形でしか残っていないため、肝心なところが分からない。こうなったら、あとは隙間を埋めるために、辞令をシラミ潰しに見るしかない。

 明治期の海軍辞令は、「辞令」という形で一年ごとに一冊になっている。明治37年までは「辞令」だが、明治38年から44年までは「異動通報」と名称が変わる。明治45年以降,大正・昭和は「海軍公報」となっている。
 山川が少尉になったところから見ても良いのだが、先に松島乗り組みとなった経緯が知りたくて、明治40年の「異動通報」を見始めたのだが、ここで時間切れとなった。
 なにせ人事辞令が全て載っているのだ。海軍書記,軍医、技師、下士官の動向 もあまさず、一時金の支給にいたるまで。さらに、ひどいヘマをやらかした人の軍事裁判結果などもあって、これはこれで興味深い。

 ともあれ、防衛研究所の一日目は時間切れ。再度チャレンジをしなければならないが、今度は何を見るべきかがはっきりしている。ひたすら辞令とのにらみ合いになるだろう。
 昨今はインターネットの利用で物調べも楽になり、誰でも簡単にある程度の知識を得ることができるようになった。私もその恩恵を大いに受けている。でも、その情報は人から与えられるばかりの底の浅い知識に過ぎない。たまには、時間と労力を使って、自分で本物の知を得るのも貴重な体験だ。