シャイロー ― 2008/11/23 00:07
ナッシュビルが、南部連合の州都としては最初に陥落した町となった後、南軍ミシシッピ軍はアラバマ州境付近のコリンスまで主力を下げ、北軍への反撃の機会を狙っていた。
一方、北軍は西部戦線においてはグラントの活躍もあっておおむね勝っていたが、指揮系統が複数存在する、窮屈な状況にあった。
このため、C・ビュエル准将率いるオハイオ流域軍の西進がやや遅れ、ナッシュビル攻略後、シャイローに駐屯したグラントと、その部下シャーマンのミシシッピ軍40000は防御が甘かった。
南軍の将A・S・ジョンストンは、この機を狙って積極的にシャイローを攻略する作戦を提案した。副将を務めるP・G・T・ボーレガードは消極的ではあったが、それに同意した。
ボーレガードが消極的だったのは、隙をついての奇襲をしかけるには、コリンスからシャイローの距離(約30km)が長すぎ、下手をするとビュエルのオハイオ流域軍が到着して逆に大敗する恐れがあったからだった。
1862年4月3日、南軍はシャイローへ向かって北進しはじめたが、翌日の予定だった攻撃開始は不可能で、結局6日の早朝に総攻撃をかけることになった。ボーレガードはそれまでに時間がかかり過ぎたとして、まったく自信がなかった。ところが、彼の心配とはまったく逆に、シャイローのグラントとシャーマンは、南軍の攻撃を予想していなかった。北軍の防御は甘いままだったのだ。
かくして、4月6日の早朝、南軍が攻撃をしかけると、北軍は壊滅寸前にまで追い詰められた。北軍の背後にはテネシー川。まさに背水の陣で必死に抵抗し、シャーマンは本気で負けを覚悟した。
しかし、南軍も手際が悪かった。陣形に問題がって機能的な兵の動かし方ができず、混乱という意味では、北軍とたいした差異はなかった。
しかもあってはならない事態だが、西部戦線における南軍の大将であるA・S・ジョンストンが戦死したのだ。その任務はボーレガードに引き継がれたが、決定的な勝利をその日のうちに収めることが出来なかった。
グラントはまさに近代戦の将軍向きの男らしく、(もちろん負傷も戦死もすることなく)自軍の大混乱にもけっして動揺しなかった。彼は夜にシャーマンと会うと、翌日こそやり返してやろうと申し合わせた。
夜のうちに、ボーレガードが心配したようにビュエルのオハイオ流域軍の先鋒隊がシャイローに到着しつつあった。翌日7日には形成は逆転し、南軍はもといたコリンスまでの撤退を余儀なくされた。
このシャイローの戦いの戦死者は、南軍10700,北軍13000。1862年4月までの時点では、最大の死者数だった。
南軍の大統領デイヴィスは、ボーレガードをテネシー軍の将から更迭し、その後任に個人的なお気に入りだったブラクストン・ブラッグを据えた(一方、ボーレガードは、デイヴィスとの関係が悪かった)。大軍を統べる人物として、ブラッグはかなり評判の悪い人物だったが、1864年までその地位にあった。
一方、北軍はあいかわらず大きく二つの指揮系統が存在した。グラントはミシシッピー河流域の要塞への包囲戦に向かい、オハイオ流域軍のビュエルがさらなる南下をすることになった。
南北戦争の将官にはやたらとこの手の人が多いのだが、ビュエルも慎重居士でその南進のスピードは遅かった。それを見てとったブラッグは、大胆にも主力を鉄道を使って一気に南下させ、さらに東から大回りして、ビュエルの北軍の東側に陣取ったのだ。 ― これがおおまかな説明だが、かならずしも北軍の前からすべての南軍の姿が消えたわけではない。
このあたりは、私が参考にしている資料にはまったく書かれていない。かろうじてテンチ家の兄弟の足跡が、主力の動きとは別のゲリラ的と思われる小競り合いの存在を示唆しているのだ ―。
一方、北軍は西部戦線においてはグラントの活躍もあっておおむね勝っていたが、指揮系統が複数存在する、窮屈な状況にあった。
このため、C・ビュエル准将率いるオハイオ流域軍の西進がやや遅れ、ナッシュビル攻略後、シャイローに駐屯したグラントと、その部下シャーマンのミシシッピ軍40000は防御が甘かった。
南軍の将A・S・ジョンストンは、この機を狙って積極的にシャイローを攻略する作戦を提案した。副将を務めるP・G・T・ボーレガードは消極的ではあったが、それに同意した。
ボーレガードが消極的だったのは、隙をついての奇襲をしかけるには、コリンスからシャイローの距離(約30km)が長すぎ、下手をするとビュエルのオハイオ流域軍が到着して逆に大敗する恐れがあったからだった。
1862年4月3日、南軍はシャイローへ向かって北進しはじめたが、翌日の予定だった攻撃開始は不可能で、結局6日の早朝に総攻撃をかけることになった。ボーレガードはそれまでに時間がかかり過ぎたとして、まったく自信がなかった。ところが、彼の心配とはまったく逆に、シャイローのグラントとシャーマンは、南軍の攻撃を予想していなかった。北軍の防御は甘いままだったのだ。
かくして、4月6日の早朝、南軍が攻撃をしかけると、北軍は壊滅寸前にまで追い詰められた。北軍の背後にはテネシー川。まさに背水の陣で必死に抵抗し、シャーマンは本気で負けを覚悟した。
しかし、南軍も手際が悪かった。陣形に問題がって機能的な兵の動かし方ができず、混乱という意味では、北軍とたいした差異はなかった。
しかもあってはならない事態だが、西部戦線における南軍の大将であるA・S・ジョンストンが戦死したのだ。その任務はボーレガードに引き継がれたが、決定的な勝利をその日のうちに収めることが出来なかった。
グラントはまさに近代戦の将軍向きの男らしく、(もちろん負傷も戦死もすることなく)自軍の大混乱にもけっして動揺しなかった。彼は夜にシャーマンと会うと、翌日こそやり返してやろうと申し合わせた。
夜のうちに、ボーレガードが心配したようにビュエルのオハイオ流域軍の先鋒隊がシャイローに到着しつつあった。翌日7日には形成は逆転し、南軍はもといたコリンスまでの撤退を余儀なくされた。
このシャイローの戦いの戦死者は、南軍10700,北軍13000。1862年4月までの時点では、最大の死者数だった。
南軍の大統領デイヴィスは、ボーレガードをテネシー軍の将から更迭し、その後任に個人的なお気に入りだったブラクストン・ブラッグを据えた(一方、ボーレガードは、デイヴィスとの関係が悪かった)。大軍を統べる人物として、ブラッグはかなり評判の悪い人物だったが、1864年までその地位にあった。
一方、北軍はあいかわらず大きく二つの指揮系統が存在した。グラントはミシシッピー河流域の要塞への包囲戦に向かい、オハイオ流域軍のビュエルがさらなる南下をすることになった。
南北戦争の将官にはやたらとこの手の人が多いのだが、ビュエルも慎重居士でその南進のスピードは遅かった。それを見てとったブラッグは、大胆にも主力を鉄道を使って一気に南下させ、さらに東から大回りして、ビュエルの北軍の東側に陣取ったのだ。 ― これがおおまかな説明だが、かならずしも北軍の前からすべての南軍の姿が消えたわけではない。
このあたりは、私が参考にしている資料にはまったく書かれていない。かろうじてテンチ家の兄弟の足跡が、主力の動きとは別のゲリラ的と思われる小競り合いの存在を示唆しているのだ ―。
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