Tunnel Vision / Body 1152012/05/04 14:58

 ロンドンに関する面白い本を探していたら、知人から「トンネル・ヴィジョン Tunnel Vision」という小説を薦められた。
 2001年の小説で、作者はキース・ロウ Keith Lowe。私は英語で読んだのだが、日本語訳(雨海弘美訳 ソニーマガジンズ)も出ている。文庫になっていないのが惜しい。英語も読みやすく、英語学習者にもお勧めだ。

  

 ロンドンの地下鉄(通称チューブ tube)オタクのアンディは、パリでの結婚式を前に、鉄オタ仲間のロルフと酔った勢いで、とんでもない賭けをしてしまう。即ち、「一日で(始発~終電)、ロンドンの地下鉄全267駅を制覇できるか?」(駅名サインを撮影すればクリア扱い。車内からの撮影も可)。「出来ない」と言うロルフが賭けるのは、マニア垂涎のチケットコレクション。そして、「できる」と豪語したアンディは、パリでのウェディングに必要なクレジットカードやパスポート、そしてユーロスターのチケットを賭けてしまう。
 さぁ、アンディは地下鉄マニア夢の「一日で全駅制覇」を達成できるのか?アンディの幸せな結婚の行方は…?!

 ものすごく面白かった。英語となると読書速度が極端に落ちる私でも、どんどん読めてしまう。ストーリー展開がスリリングで、適度にマニアでオタクで、それでいてバカバカしくて笑える。多分、東京などの地下鉄を多少知っていたほうが楽しめる。ロンドンの地下鉄に乗ったことがあればさらに面白いが、乗ったことが無くても、面白いだろう。誰もがいつの間にか、アンディを追って、ロンドンの地下鉄マップを一生懸命に睨みはじめるに違いない。
 今のところ具体的な話は出ていないが、この作品は映画化されるらしい。結末など、やや映画向きに変更されるかも知れないが、私が好きそうな映画になるだろう。

 登場人物はとても少ないのだが、その中で一番魅力的なのは、アンディの旅の道連れとなる、初老のホームレス,ブライアン。いつもビールを飲んで酔いどれているが、なぜかやたらと体力があり、最初は煙たがっていたアンディも、やがてブライアンを頼りにするようになる。
 小説の中盤で、ブライアンはアンディに、ある話をする。1987年に起きた、地下鉄キングス・クロス駅の火災事故の話だ。

 キングス・クロス駅火災事故は、実際に起きた事件で、私もおぼろげに当時のニュースを記憶している。
 1987年11月18日19時30分。投げ捨てられたマッチが火元となり、古い木製エスカレーターなどが燃えて拡大し、31人の死者を出す大惨事となった。私の記憶にも、「木製のエスカレーター」が残っている。後年、初めてロンドンに行ったときにも、一部木製エスカレーターが残っていたのが印象的だった。
 ブライアンが語るには、31人の犠牲者の身元調査の過程で、どうしても一体だけ身元が判明しない男性の焼死体があったと言うのだ。遺体の整理番号から、「ボディ115」と呼ばれる。警察はあらゆる手を尽くしてこの「115」の身元を突き止めようとしたが、どうしても分からない。
 結局、身元不明のまま、この「115」はとある教会墓地の片隅に、葬られることになった ― ブライアンの話はここで終わっている。

 この挿話がとても印象的だった。ググってみたところ、実際、キングス・クロス駅火災事故の犠牲者の中に、身元不明の「ボディ115」があった。ブライアンの話は、実話なのだ。
 当時、この謎の身元不明遺体「ボディ115」はかなり話題になったらしい。警察は行方不明者から該当者を探そうと、大々的に情報を求めたし、法医学者が再現した「115の顔」も、公表されたそうだ。調査はUK外にまで及んだが、結局わからずじまい。

 ニック・ロウは、1990年発表のアルバム [Party of One](ジム・ケルトナーや、デイヴ・エドモンズも参加)に、"Who was that man?" という曲を収録した。この "that man" とは、まさにキングス・クロス駅の「ボディ115」のことだ。



 曰く、「国じゅうの誰にも知られていないあの男 誰にも愛されず だれも彼のために涙しない … あの男は誰だったんだ?」
 大惨事が題材になっている割には、曲の雰囲気が凄まじく正反対なので、面食らう。その辺りがニック・ロウらしさなのだろうか。

 キングス・クロス駅火災事故と、「ボディ115」に関しては、後日談がある。

 火災から17年後の2004年。「ボディ115」の身元が判明したのだ。ザ・ガーディアン紙の記事はこちら
 「トンネル・ヴィジョン」は2001年の小説なので、身元判明の前ということになる。日本語訳も、身元が判明する前の出版だ。

 「115」の正体は、スコットランド出身,当時72歳のアレクサンダー・ファロンという男性だった。妻に先立たれ、離れて住む四人の娘たちとの連絡も希で、ロンドンではホームレス生活だったが、かといって「誰にも知られていない、誰にも愛されていなかった」というわけではない。
 事故当時、「115」の年齢は「40代から、せいぜい60代」と発表されており、娘たちは自分の父親に該当するとは、まったく想像していなかったのだ。
 長いこと父親との連絡が取れていないことを心配したファロンの娘たちは、1997年ごろから「115」は父だったのではないかと疑い始める。しかし、当時は別に有力な「115候補」が存在しいた。ブライアンの挿話にもこの「候補」が登場する。そして、2004年になってようやく、ファロンが「115」として最有力視されるようになり、検証結果、その身元が判明したのだと言う。
  この「ボディ115」をめぐる話は、2006年に Paul Chambers が [Body 115 : The mystery of the last victim of the King's Cross fire] という本にまとめている。いずれ、この本も読んでみたい。

 暗い挿話の話になってしまったが、とにかく「トンネル・ヴィジョン」は面白い本なので、一読をお勧めする。特に、ロンドンに行く人、行った事がある人、ロンドンに興味がある人、ロンドンに行きたい人、そして東京に限らず、地下鉄が何となく好きな人にもお勧めだ。

 さらにロンドン地下鉄を楽しむなら、2012年1月からBBCが放映した6回シリーズのドキュメンタリー [The Tube] がお勧め。こちらはそのエピソード1。ナレーションを担当しているのは、ザ・マイティ・ブーシュのジュリアン・バラット。