Florence Foster Jenkins2016/12/18 21:29

 映画「マダム・フローレンス! 夢見るふたり」[Florence Foster Jenkins] を見た。

 1944年ニューヨーク。裕福なクラシック愛好家フローレンス・フォスター・ジェンキンス(メリル・ストリープ)は、夫(内縁)兼、マネージャーのシンクレア(ヒュー・グラント)の支えを受けながら、芸術活動への援助を行っている。
 好きが高じて、若い伴奏ピアニスト,マクムーン(サイモン・ヘルバーグ)を高額で雇い、高名な教師による声楽のレッスンを受けるのだが、彼女には歌の才能が完全に欠落しており、要するに自覚の無い音痴だった。
 身内だけの小さな演奏会で歌い、批評家を買収できたうちは良かった。しかし、周囲におだてられて音痴の自覚がないフローレンスは、レコードを制作し、音楽の殿堂カーネギー・ホールで演奏会を開くと言い出す。



 この実在した伝説の音痴,フローレンス・F・ジェンキンスについて、このブログでも記事にした覚えがある。いつのことだったかと確認してみたら、2008年7月だった。このブログを始めたばかりのことだ。

2008年7月1日 伝説の歌姫 フローレンス・F・ジェンキンス

 感動とは、作れる物だと思い知る映画だった。
 私にとってフローレンスは楽しい笑いを提供する「ネタ」だったが、映画を作る人の手にかかると、彼女の一生懸命な姿に情が移り、いつの間にか応援してしまう。
 笑いと感動、華やかな画面、古きニューヨークの風景,調度品,ファッションなども存分に楽しめる。

 メリル・ストリープはさすがの演技力。見ていて安心感がある。そしてヒュー・グラント。こういう、完璧ではないけど、共感を呼ぶ英国男を演じさせると上手い。
 一番良かったのは、マクムーン役のサイモン・ヘルバーグだ。どこかで見た顔だと思ったら、"Big Bang Theory" のひとだった。マクムーンは、雇い主のあまりの音痴さと、それでも「上手い」とおだてる周囲の人々に呆然としつつも、「真実」を暴露することなく、フローレンスを支える側になってゆく。彼の感覚が映画の観客の心情にもっとも近いだろう。

 さて、自覚のない音痴である富豪夫人をおだてて、レコーディングやカーネギー・ホールまで突き進ませてしまった周囲の人々には、罪があるかどうかという問題。

 映画ではフローレンスを音痴ではあるが、音楽を愛する好人物、努力を惜しまず、誠実な人として描いており、そんな彼女を支える人々を好意的に描くのは当然だろう。理解ある友人たちに、下手な歌声を披露しても、寛容の精神と友情で平穏な調和がとれているのなら、それも良いと思う。歌うことが彼女にとって、生きることであれば、なおさらだ。

 しかし、映画でも少し出てくるが、おだてるだけおだてて、金を引き出していく人もいる。
 登場人物のひとりは、「音楽への冒涜だ」と言った。私は「冒涜」などと言う言葉を使うほど大袈裟な話ではないと思う。しかし、フローレンスを後世まで「嘲笑の対照」にしてしまったという、彼女の尊厳に対する責任を思うと、さすがに「一生懸命やっているのだから応援しよう」だけでは済ませられないような気もする。
 もっとも、8年前の記事でも分かるとおり、私も彼女の録音を聞いて笑っている人の一人なのだが。

 メリル・ストリープの演技は上手い。元々は歌の上手い彼女が、音痴になるように、特別なレッスンを受けたという。見事な音痴ぶりを演じてはいるが、それでもまだ、上手すぎた。本当のフローレンス・フォスター・ジェンキンスはあんなものではない。
 録音だけでは分からないが、おそらく声量も足りていなかっただろう。カーネギー・ホールで、どの程度彼女の音痴程度が「響いた」かは疑問だ。



 音楽の殿堂カーネギー・ホール。「カーネギー・ホールには行くにはどうすれば良い?『練習、練習、練習』」という言葉があるが、実際には「金」でも良いらしい。それなりの借り賃を払い、スケジュールさえ合えば、基本的に音楽的レベルには関係なく、演奏会を開くことが出来る。
 音楽ホールなのだから、本来そうであるべきだろう。ただし、「あのカーネギー・ホールで演奏した!」という宣伝文句には、要注意だ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの制作者名最初のアルファベット半角大文字2文字は?

コメント:

トラックバック