Chopin / Ballade No. 12015/01/28 22:00

 冬は、ピアノ弾きにとってキツい季節である。
 何と言っても、手がかじかむ。一生懸命手をこすったり、息をかけたりして温めても、鍵盤上ですぐに冷たくなる。高校生の頃などは、ミトン型の手袋に小さなカイロを入れていたものだ。
 室内を温かくしても、鍵盤が冷たいといことがよくある。象牙だろうが、プラスチックだろうが、冷たい。鍵盤の冷たさが、指に伝わり、また指が冷たい。

 そこで私は考えた。既に完成された楽器であるピアノに、革命的な新機能!鍵盤ヒーター!これさえあれば、いつでも鍵盤はホッカホカ!冬の練習も辛くない!タイマー機能もつければ、毎回練習時間の前に温めておくこともできる!
 仕掛けとしてまず考えられるのは、ピアノの蓋に温熱機能を持たせること。レーシングカーのタイヤウォーマーみたいなイメージ。蓋を閉めれば輻射熱で鍵盤があたたまるというわけ。
 しかし、この場合蓋をあけるとすぐに鍵盤は冷え始める。演奏を始めてからも、しばらくは温かいと助かる。

 そこで考えたのは、鍵盤そのものに温熱機を仕掛けるということ。鍵盤が温まるのだから、これは快適!問題は、各鍵盤に仕掛けると鍵盤が重くなること。それなら、鍵盤の素材から替える必要があるか。しかし、ピアノの鍵盤をなにも上から下まで全て温める必要はないわけで、真ん中くらいだけでも良いのだ。
 楽器メーカーさんだけでこれを開発するのは大変だ。そこで提案したいのは、日本が世界に誇る、ハイテクの無駄遣い!いや、無駄ではないっ!!便座温熱機の技術を駆使するのだ!
 と、言う訳で、日本が誇る楽器メーカーさんと、日本が誇る便座メーカーさんの、イカしたコラボを期待している。

 ええと。
 まぁ、とにかく。寒い時にピアノは辛いという話。
 ショパンのバラードを弾くことにした。最も有名だと思われる1番。通称「バライチ」…というのは、私だけだろうか?
 そもそも、去年からバライチを弾こうと思っていた。その前に、ショパン向けに手を伸ばして準備運動をしておこうという話になり、先にスケルツォの3番を弾いた。スケルツォがまともに弾けるように仕上がったのかどうかは、さておき…
 そうこうしているうちに、某フィギュアスケーターが、今シーズンのショート・プログラムに、バライチを選んだではないか!なんてことだ!まるで、私がスケートに感化されて弾くことにしたみたいじゃないか!

 楽譜は、面倒になったので外版は買わず、一番安い音楽之友社にした。こだわり無し。
 CDは、以前からクリスティアン・ツィマーマンを持っていたので、こちらを参考にする。録音は1988年。ツィマーマンもまだ若いころ。



 せっかくの美形ピアニストなので、動画もどうぞ。



 前から思っていたのだが、このお城みたいな所でのミュージック・ビデオみたいな物は何だろう?
 ともあれ、繊細というよりは骨太で剛胆な演奏。強弱記号などは私の譜面とは違うところもある。pp のところを ff で弾いたりするのでなかなか面白い。
 冒頭とコーダ以外は6拍子で、大きく、流れるように、歌い上げるのがバラードらしさだろうか。シューマンはこの曲を非常に評価しており、ショパンを弾くなら、いつかはバラードと思わせるに十分の魅力をたたえた名曲だ。

 ショパンのバラードと言うと、この曲に関する多くの文章には、「作曲家の祖国であるポーランドの詩人、アダム・ミツキェヴィチの愛国的な詩に啓発されたといわれることもある」と書いてある。
 しかし、このミツキェヴィチに啓発されたという話の根拠は甚だ怪しい。私が見た幾つかの文章では、根拠については言及していない。かろうじて遠山一行さん(先月逝去。合掌)が、「ミツキェヴィチの詩によって書いた、と(ショパンが)シューマンに語ったらしいが」としている。これも曖昧な表現だ。

 こういう時は、自分が持っている楽譜の楽曲解説を見るに限る。幸い私の版は日本版の「解説つき」だ。さっそく冒頭を見てみると、そこには「小説」が載っていた。題名は「ショパンのバラード」。三章立てで、筆者は大嶋某氏。

 「小説」が掲載されているなんて、そんな馬鹿な。私はそう思って何度も見たのだが、この7ページ以上にもわたる文章は、どう見ても小説だ。当時の歴史的,政治的ポーランドの状況や、ショパンの置かれた環境も詳しく記述されているが、同時にワルシャワでの若きショパンと友人達のカフェでのシーンが展開される。
「フレデリック、そこまで一緒にいかないか」
 もちろん、台詞がある。異国へ旅立直前のショパンが友人とビールを飲みに行ったり、ウィーンで嘆いたり。シューマンが「ショパンのバラードはミツキェーヴィチの作品から刺激を受けて書かれたのです」という箇所もあるが、例によって出典がわからない。
 しまいには、死の前年、ショパンが詩人ミツキェーヴィチに会いに行くエピソードが出てくる。曰く、「使用人がトレーに茶を乗せて現れ、テーブルを整えた。」詩人の前でショパンが鍵盤に手を置き、バラードを奏でつつ、この「小説」は終わる。

 なんだこりゃ?

 一体どういうつもりで楽譜の冒頭に小説なんぞ載せたのだろう?音楽之友社という立派な楽譜出版の重鎮が!こういう小説は、同人誌にでも載せれば良いだろう。もちろん、小説の本として上梓しても良い。とにかく、ピアニストが用いる「楽譜」に小説を載せるのは場違いだ。
 妙なことに、この筆者の大嶋某氏は小説のあとに、「ミツキェーヴィチとショパンのバラード」と題する、今度こそ本当の解説を書いている。解説だけ載せれば良いのであって、なぜ小説?小説なんぞ載せずに価格をあと100円下げるか、温熱機つき鍵盤の開発費にでもすれば良いではないか。
 価格が一番安かったからという理由でこれを買った私がバカだった。でも、表紙に「解説付」としか書かない出版社にも問題がある。「大嶋某氏による小説と解説付」とするべきだ。

 ミツキェーヴィチとバラードに関して、ショパン自身が言及がした証拠は、どうも弱いようだ。基本的に、私は根拠とか出典に疎く、べつに明確でなくても良いと思っているのだが、このバラードに関しては、「詩」に触発されたと言われてもピンと来ない。
 ショパンの素晴らしき楽曲に、標題音楽のような「前提」や「説明」は不要ではないだろうか。そもそも、私には標題音楽の解説過多なところが、煩わしい。バラードの素晴らしさは、説明されるのではなく、果てしなく豊かな音楽、音楽それだけに身を沈め、ただ音楽だけを感じれば良いと思うのだ。