チカマウガの戦い2010/12/29 22:28

 ながい睨みあいの合間に騎兵たちのドタバタがあったものの、西部戦線,テネシー方面の南北軍に大きな動きが出たのは、1863年夏のことだ。

 北部連邦リンカーン大統領や、総司令官のハレックが、「早くブラッグ率いる南軍に攻撃しろ」と、催促するのにも疲れ始めた6月、ようやくローズクランズは軍事を南下させ、マーフリーズボロから南軍を撤退せしめた。南軍はまずテネシーとジョージアの州境すぐ北,テネシー川に臨むチャタヌーガまで撤退した、ここは交通の要衝で、戦略的にも重要な場所である。
 せっかくここまで南軍が撤退したのに、どうもローズクランズはやる気に欠けるようで、さらに数週間攻撃を控え、8月になってやっと、南軍に対して北からと、回り込んで西側から攻撃を仕掛けた。西から回ってきた北軍少将の一人が、ジョージ・H・トーマスである。南軍はチャタヌーガを脱し、さらに南下してジョージア州ラファイエットまで下がって行った。
 一見、南軍が負けて退却しているようだが、実はたいした戦闘が行われていない。しかも、南軍にはリッチモンドから派遣されたジョンストンの軍勢と、東部戦線のリーから派遣されたロングストリートの部隊が参加しつつあった。しかも、北軍は南下すればするほど兵站線が長く延び、戦隊もまばらになりつつある。つまり、密集した集中攻撃ができない。状況はやや南軍に有利となりはじめていた。
 特に、西側から南軍に接近していた北軍トーマス少将の部隊は危うい位置に居た。そこで、ブラッグはレオニダス・ポーク少将(ウェストポイントの卒業生だが、その後聖職者になったため、一度退役。南北戦争参加のため、復帰している。ついたあだ名が、「戦う司教(主教)The Fighting Bishop」)に、トーマス部隊の攻撃を命じた。
 しかし、ここで南軍のガンとも言うべき欠点が露呈する。ブラッグというのはどこまでも信頼されていない指揮官らしい。多くの将官がブラッグの指揮を信用しておらず、ポークもその一人だった。結局彼はトーマス部隊の攻撃の好機を捕え損ねた。
 やがて、ローズクランズ率いる北軍も南下し、ジョージア州に入った。かくして、9月19日、ラファイエットの少し北側,チカマウガ川付近で、南北軍が衝突することになった。

 チカマウガからチャタヌーガに至る南北の街道、ラファイエット街道の支配権が、この戦闘の主眼となった。もし街道を南軍に抑え込まれると、北軍は重要拠点であるチャタヌーガへの退路を断たれてしまう。
 まず、戦闘は先行していた騎兵部隊の衝突から始まり、やがて援軍として到着した南軍ロングストリートと、前述ポークの部隊が、北軍マクック,クリッテンデン,トーマスの部隊に集中攻撃を仕掛け、成功した。このため、北軍は総退却を始め、ローズクランズもテネシー州境に程近いロズヴィルまで戻り、さらにチャタヌーガまで逃げ帰った。
 この北軍退却の流れの中、トーマスの部隊がなんとか南軍の猛攻を押しとどめ、北軍の退却を助けた。この防御奮戦により、トーマスには「チカマウガの岩山 Rock of Chickamauga」というあだ名がつけられた。南軍の「ストーンウォール・ジャクソン」と同様の名前だろう。

 東部戦線から援軍に馳せ参じ、やる気満々だったロングストリートは、北軍の撤退を受けて(彼の性格としてはやや例外的に)さらなる追撃を主張した。しかし、ブラッグがそれを渋った。自信がなかったらしい。ロングストリートの言うように、さらに一気呵成に攻撃を仕掛ければ、南軍は要衝チャタヌーガを再度奪還し、北軍をテネシー州の向こうに追いやることもできたかもしれない。
 ともあれ、双方とも16000~18000という大量の死傷者を出したが、この戦い以前とさほど状況はかわらず、勝者の南軍もそれらしい成果を得るには至らなかった。