Tribute to the memory for my friend ― 2016/01/08 20:41
友人のATさんが亡くなったという報に接しました。ご冥福をお祈りします。
ATさんとの出会いは、インターネットでした。彼女は中世の英国王リチャード3世に関する詳細なブログサイトを運営しており、英国史に興味のある私が、そのサイトをたびたに閲覧していたことに端を発します。おそらく、世界でも有数の、リチャード3世サイトでしょう。
はじめはサイトを見るだけだったのですが、ある時、ATさんが記事の中でボブ・ディランに言及したことがあり、彼のファンだということが分かったのです。そこで私からメールを差し上げたところ、実はTP&HBにも興味があり、TP&HBのファンサイトに出入りしていた私のことを知っておられたのです。しかも、ディラン・ファンでもある私の影響で、TP&HBのファンにもなったとのことでした。
それ以来、盛んにメールのやりとりをして、歴史や音楽について語り合いました。ATさんは古楽にも興味があり、いつか私の母校の楽器資料室にご案内しようとか、同じ海外ドラマが好きだったりとか、英語読書に挑戦しているとか、とにかく共通の話題が多かったのです。
ATさんは北日本在住で、首都圏在住の私とお会い出来る機会はなかなかありませんでした。2010年のディラン来日のとき、彼女の街での公演がなかったので、どうにか都合のあう東京公演のチケットを取ろうと、チャットをしながら躍起になったものです。残念ながら、このときのATさんは、ディランを見ることが出来ませんでした。
メールだけではなく、物のやりとりも盛んにしました。私は遠征に行くと必ずお土産を送り、またスティーヴ・フェローニのサイン入りCDが手に入ったときも、プレゼントしました。ATさんも、歴史に関する本や、トム・ペティが愛飲しているお茶を送って下さいました。そして、マンガに関して門外漢の私に、いかにして歴史に関するマンガを入手すれば良いかも、教授して下さいました。
ATさんのブログサイトに関して、歴史の話に花を咲かせる一方、私の、このブログもよくご覧になって下さっていました。ご自身のブログサイトで使っているハンドルネームで、コメントを下さったことも、何度もあります。
2012年、リチャード3世の遺骨がイングランドのレスターで発掘されたという大ニュースがあり、この時も、盛んにやりとりしたものです。
そして2013年、私はディランが約50年ぶりにロイヤル・アルバート・ホールでライブをするという情報を得て、渡英することにしました。そして、リチャードが発掘されたレスターに行くことも心に決めていました。次にしたのは、一度もお会いしたことのないATさんに、一緒に行かないかというお誘いのメールでした。
ATさんのお仕事はとてもお忙しいものでしたが、スケジュールを調整し、同行すると返事を下さいました。ディランのチケットはほとんどソールド・アウトでしたが、私があれこれチケット・サイトを紹介し、どうにか舞台背後の席が取れたのです。
2013年11月、成田空港で初めて会った私たちはロンドンに飛びました。初めて会って、いきなり一緒に海外旅行というのも、ずいぶん思い切った物です。
しかし、とても楽しい旅行となりました。ウェストミンスター寺院や、ロンドン塔のような歴史と縁の深い場所、リチャード3世が創設した紋章院、ナショナル・ポートレート・ギャラリー、RAHの見学ツアー、フォートゥナム・アンド・メイソンでのアフタヌーンティーなど、楽しみが目白押し。そしてもちろん、一番のイベントはレスターでした。
夜が明けきらないロンドンを出発し、朝日がのぼるイングランドの野を列車で走り、レスターへ到着しました。ATさんが手配してくださったタクシーでボズワース古戦場や、ミュージアムも堪能しました。
レスターの街ではリチャードの発掘現場や、彼が通ったであろう道、大聖堂などを訪ねました。
そしてもちろん、ボブ・ディランのコンサートも、もう一つのクライマックスでした。ATさんにとっては初めてのディランのライブ。どこがどうという理屈ではなく、ただ、彼と同じ空間で、直接音楽を聴かせてくれることの感動 ― 私も遠い昔に味わった、あの新鮮な体験に、ATさん感動していました。
旅のあいだじゅう、歴史や音楽、そのほか沢山のことをお喋りしました。
ATさんは一日早く帰国することになっており、私たちはホテルで別れました。気をつけて帰って、というのが最後にお会いしたときの会話です。
帰国してから、私は自分のサイト Cool Dry Place に、旅行記を掲載しました。旅の道連れとして、ATさんが登場します。しかし、私は意識的にATさんの言動について詳細には記載しませんでした。ATさん自身が、帰国後、かならず旅行記を作成するとおっしゃっていたからです。ですから、私があれこれと書くまでもありません。その完成を心待ちにしていました。
その後もメールや物のやりとりは続きました。メールのたびに、旅行記がまだ出来ていないと嘆いておられました。私は、旅の感動が薄れない内に、早く書いた方が良いとアドバイスしたものです。
メールのやりとりは、去年の年賀状が最後になりました。
その後、私から特に連絡することがなかったのです。ATさんのブログサイトは、更新がぱったりと止んでしまいました。更新が休止することはよくあったので、気にも留めませんでした。そのうち、またいつものように更新再開するだとうと思っていました。
私は去年の10月にロンドンへ行きましたが、そのときもATさんのためにお土産を買ってきました。いつもなら帰国後すぐに発送するのですが、今回だけは公私ともに忙しく、すっかり遅くなってしまいました。発送しないまま12月になってしまったので、クリスマス・プレゼントにしようと、私にしては珍しく、それらしい包装をして、発送したのです。
宅配業者から連絡があり、何度不在票をお届けしても連絡がないと知らされました。住所が変わったのだろうかと思い、何度もATさんにメールしたのですが、返信はないまま。年が明けてから、配送業者から品物が私に返送されてきました。
ATさんが亡くなったようだという伝言つきでした。
私は事を確認する術を考えました。一緒に旅行中、更に親しくなる内に、ATさんの職場の話も聞いていたのです。そこで、私はその職場のアドレスを調べてメールを出し、彼女の消息を尋ねました。突然、人の消息を尋ねる私に対して、職場の方はとてもご親切だったのだと思います。思いがけなくも、ATさんのお母様と電話でお話しすることができました。
お母様によると、先月の上旬、突然体調を悪くされ、亡くなったということです。お母様の口調からも、本当に突然だったのだということが分かりました。宅配の返品をしたのは、お母様だったようです。
私は覚悟していたのですが、ちゃんとお母様とお話できたか、分かりません。ただ、お悔やみと、ATさんが良いお友達だったこと、素晴らしいブログサイトを運営されていたこと、イングランド旅行がとても楽しかったことをお伝えし、そして電話を下さったことにお礼をするしかありませんでした。
ロンドンから戻ってすぐに、お土産を発送していれば、ATさんは受け取り、いつものとおり、私にメールを下さったでしょう。今回に限って、そうはなりませんでした。早くを送っていればと思う一方、このタイミングのずれがあったからこそ、お亡くなりになったっことが分かったのだということも、確かです。
ATさんは私よりすこしだけお若い方でした。ごく真面目で、誠実な人柄でした。とても賢く、努力家で、それをいかしたお仕事をして、社会に貢献しておられました。
そして、私の友人でした。頻繁に会うことはないけれど、とても遠いところにいたけれど。歴史と、リチャードと、音楽と、ディランと、TP&HBが好きな、そしてインターネットの時代ならではのつながりを持った、「同士」でした。
ATさんの旅行記は拝見できずじまい。いつか、ジョセフィン・テイの "The Daughter of time" の新訳版を一緒に作りたいという夢も、夢のまま。
悲しみはもちろんですが、何よりも寂しいという気持ちです。悲しみや寂しさは、消えることはありませんが、ただ、私はやがてそれに慣れてゆくでしょう。
このブログは主に音楽に関するエッセイなので、個人的な日記を載せる物ではありません。でも、ATさんに関しては、彼女の不在に慣れてゆく私の、追悼の気持ちとして、想い出として、何かの「しるし」として、書き留めようと思います。
ATさんの魂が安らかでありますように。
ATさんとの出会いは、インターネットでした。彼女は中世の英国王リチャード3世に関する詳細なブログサイトを運営しており、英国史に興味のある私が、そのサイトをたびたに閲覧していたことに端を発します。おそらく、世界でも有数の、リチャード3世サイトでしょう。
はじめはサイトを見るだけだったのですが、ある時、ATさんが記事の中でボブ・ディランに言及したことがあり、彼のファンだということが分かったのです。そこで私からメールを差し上げたところ、実はTP&HBにも興味があり、TP&HBのファンサイトに出入りしていた私のことを知っておられたのです。しかも、ディラン・ファンでもある私の影響で、TP&HBのファンにもなったとのことでした。
それ以来、盛んにメールのやりとりをして、歴史や音楽について語り合いました。ATさんは古楽にも興味があり、いつか私の母校の楽器資料室にご案内しようとか、同じ海外ドラマが好きだったりとか、英語読書に挑戦しているとか、とにかく共通の話題が多かったのです。
ATさんは北日本在住で、首都圏在住の私とお会い出来る機会はなかなかありませんでした。2010年のディラン来日のとき、彼女の街での公演がなかったので、どうにか都合のあう東京公演のチケットを取ろうと、チャットをしながら躍起になったものです。残念ながら、このときのATさんは、ディランを見ることが出来ませんでした。
メールだけではなく、物のやりとりも盛んにしました。私は遠征に行くと必ずお土産を送り、またスティーヴ・フェローニのサイン入りCDが手に入ったときも、プレゼントしました。ATさんも、歴史に関する本や、トム・ペティが愛飲しているお茶を送って下さいました。そして、マンガに関して門外漢の私に、いかにして歴史に関するマンガを入手すれば良いかも、教授して下さいました。
ATさんのブログサイトに関して、歴史の話に花を咲かせる一方、私の、このブログもよくご覧になって下さっていました。ご自身のブログサイトで使っているハンドルネームで、コメントを下さったことも、何度もあります。
2012年、リチャード3世の遺骨がイングランドのレスターで発掘されたという大ニュースがあり、この時も、盛んにやりとりしたものです。
そして2013年、私はディランが約50年ぶりにロイヤル・アルバート・ホールでライブをするという情報を得て、渡英することにしました。そして、リチャードが発掘されたレスターに行くことも心に決めていました。次にしたのは、一度もお会いしたことのないATさんに、一緒に行かないかというお誘いのメールでした。
ATさんのお仕事はとてもお忙しいものでしたが、スケジュールを調整し、同行すると返事を下さいました。ディランのチケットはほとんどソールド・アウトでしたが、私があれこれチケット・サイトを紹介し、どうにか舞台背後の席が取れたのです。
2013年11月、成田空港で初めて会った私たちはロンドンに飛びました。初めて会って、いきなり一緒に海外旅行というのも、ずいぶん思い切った物です。
しかし、とても楽しい旅行となりました。ウェストミンスター寺院や、ロンドン塔のような歴史と縁の深い場所、リチャード3世が創設した紋章院、ナショナル・ポートレート・ギャラリー、RAHの見学ツアー、フォートゥナム・アンド・メイソンでのアフタヌーンティーなど、楽しみが目白押し。そしてもちろん、一番のイベントはレスターでした。
夜が明けきらないロンドンを出発し、朝日がのぼるイングランドの野を列車で走り、レスターへ到着しました。ATさんが手配してくださったタクシーでボズワース古戦場や、ミュージアムも堪能しました。
レスターの街ではリチャードの発掘現場や、彼が通ったであろう道、大聖堂などを訪ねました。
そしてもちろん、ボブ・ディランのコンサートも、もう一つのクライマックスでした。ATさんにとっては初めてのディランのライブ。どこがどうという理屈ではなく、ただ、彼と同じ空間で、直接音楽を聴かせてくれることの感動 ― 私も遠い昔に味わった、あの新鮮な体験に、ATさん感動していました。
旅のあいだじゅう、歴史や音楽、そのほか沢山のことをお喋りしました。
ATさんは一日早く帰国することになっており、私たちはホテルで別れました。気をつけて帰って、というのが最後にお会いしたときの会話です。
帰国してから、私は自分のサイト Cool Dry Place に、旅行記を掲載しました。旅の道連れとして、ATさんが登場します。しかし、私は意識的にATさんの言動について詳細には記載しませんでした。ATさん自身が、帰国後、かならず旅行記を作成するとおっしゃっていたからです。ですから、私があれこれと書くまでもありません。その完成を心待ちにしていました。
その後もメールや物のやりとりは続きました。メールのたびに、旅行記がまだ出来ていないと嘆いておられました。私は、旅の感動が薄れない内に、早く書いた方が良いとアドバイスしたものです。
メールのやりとりは、去年の年賀状が最後になりました。
その後、私から特に連絡することがなかったのです。ATさんのブログサイトは、更新がぱったりと止んでしまいました。更新が休止することはよくあったので、気にも留めませんでした。そのうち、またいつものように更新再開するだとうと思っていました。
私は去年の10月にロンドンへ行きましたが、そのときもATさんのためにお土産を買ってきました。いつもなら帰国後すぐに発送するのですが、今回だけは公私ともに忙しく、すっかり遅くなってしまいました。発送しないまま12月になってしまったので、クリスマス・プレゼントにしようと、私にしては珍しく、それらしい包装をして、発送したのです。
宅配業者から連絡があり、何度不在票をお届けしても連絡がないと知らされました。住所が変わったのだろうかと思い、何度もATさんにメールしたのですが、返信はないまま。年が明けてから、配送業者から品物が私に返送されてきました。
ATさんが亡くなったようだという伝言つきでした。
私は事を確認する術を考えました。一緒に旅行中、更に親しくなる内に、ATさんの職場の話も聞いていたのです。そこで、私はその職場のアドレスを調べてメールを出し、彼女の消息を尋ねました。突然、人の消息を尋ねる私に対して、職場の方はとてもご親切だったのだと思います。思いがけなくも、ATさんのお母様と電話でお話しすることができました。
お母様によると、先月の上旬、突然体調を悪くされ、亡くなったということです。お母様の口調からも、本当に突然だったのだということが分かりました。宅配の返品をしたのは、お母様だったようです。
私は覚悟していたのですが、ちゃんとお母様とお話できたか、分かりません。ただ、お悔やみと、ATさんが良いお友達だったこと、素晴らしいブログサイトを運営されていたこと、イングランド旅行がとても楽しかったことをお伝えし、そして電話を下さったことにお礼をするしかありませんでした。
ロンドンから戻ってすぐに、お土産を発送していれば、ATさんは受け取り、いつものとおり、私にメールを下さったでしょう。今回に限って、そうはなりませんでした。早くを送っていればと思う一方、このタイミングのずれがあったからこそ、お亡くなりになったっことが分かったのだということも、確かです。
ATさんは私よりすこしだけお若い方でした。ごく真面目で、誠実な人柄でした。とても賢く、努力家で、それをいかしたお仕事をして、社会に貢献しておられました。
そして、私の友人でした。頻繁に会うことはないけれど、とても遠いところにいたけれど。歴史と、リチャードと、音楽と、ディランと、TP&HBが好きな、そしてインターネットの時代ならではのつながりを持った、「同士」でした。
ATさんの旅行記は拝見できずじまい。いつか、ジョセフィン・テイの "The Daughter of time" の新訳版を一緒に作りたいという夢も、夢のまま。
悲しみはもちろんですが、何よりも寂しいという気持ちです。悲しみや寂しさは、消えることはありませんが、ただ、私はやがてそれに慣れてゆくでしょう。
このブログは主に音楽に関するエッセイなので、個人的な日記を載せる物ではありません。でも、ATさんに関しては、彼女の不在に慣れてゆく私の、追悼の気持ちとして、想い出として、何かの「しるし」として、書き留めようと思います。
ATさんの魂が安らかでありますように。
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