それ行け、ベンモント!(その2)2008/07/31 23:23

承前
TP&HBがデビューするまでのベンモントに関して、知り得る事を書き連ねてみる気になった。

 地元の小学校卒業後、ベンモントは名門ボーディング・スクール(寄宿舎中等教育学校),フィリップス・エクセター・アカデミーに入学し、ニュー・ハンプシャー州に移った。ベンモントがRDADで「ぼくはニュー・イングランドのボーディング・スクールに行っていたので…」と発言しているのは、この時期のことを指す。

 ボーディング・スクールは、イギリスで言うパブリック・スクール(イートン校などが有名)に相当する。
 特にフィリップス・エクセター・アカデミーは正真正銘の名門。厳格な規律を持つ完全寄宿舎制で、卒業生の多くが一流大学に進学している。ベンモントが在籍した頃はまだ男子校だった。
 学校に寄せられる寄付金の額も半端ではないようで、大多数の生徒が良家の子弟なのだろう。
 ワニが闊歩するフロリダ州ゲインズヴィルから一転、カナダに近い北部ニュー・ハンプシャーへ。ベンモントはこの時、ガス・ストーブの扱いを覚えた。

 ボーディング・スクールが長期休暇になると、ベンモントはゲインズヴィルに戻ってきた。そして年齢制限に抵触しつつも、友人と連れ立ってゲインズヴィルで一番のクラブに、地元バンドを見に行った。それがトムやマイクたちのバンド,マッドクラッチだった。
 ベンモントはランドル・マーシュのドラムに参ってしまい、さらにトムが自分で曲を書いている事に仰天した(Playback )。
 マッドクラッチのファン。その点、ジョージ・ハリスンと、クォリーメン(ビートルズの前身)の関係に似ている。

 1971年にボーディング・スクールを卒業すると、ベンモントはルイジアナ州ニュー・オーリンズのテュレーン大学に進学した。さっそく、髪も髭もボウボウに伸ばし始めた事は、想像に難くない。バンド活動もしている。そのうちの一つのバンド名は、Tuna Fish & Larry … まぐろ。



 ボーディング・スクール時代と同じく、ベンモントは休暇で帰省すると、マッドクラッチのライブを見に行った。そして、RDADに登場したトムとの二回目の邂逅シーンとなる。
 そのいきさつは、はっきりしない。カントムでは、「(トムの)ルームメイトがベンモントを連れて来た」となっているし、RDAD Bookでは、「マッドクラッチのために車を貸してくれた人の家に居たら、ベンモントがやってきた」となっている。
 どちらにしても、ベンモントは髪と髭をボウボウに伸ばし、レコードを抱えていた。トムはこのボウボウが何者であるか気付かず、その変わった名前を聞いてようやく思い出した。

「ベンモント・テンチ…?あのピアノを弾いてたガキじゃないよな?」
「うん、あれはぼくだよ。」 (RDAD)


 面白いのは、トムが「あのときのガキ」を認識したとたんに、バンドに誘った事だ。ニュー・オーリンズでバンドを組んでいるとは言え、トムが聞いたベンモントのプレイは、5年以上前にあの楽器店でのビートルズだけ。
 さらに、リハーサルも無しで、5時間のライブに加われと言う。しかもそのぶっつけ本番が、マイクに言わせると「素晴らしかった」と来ている。

 やはり、トムには一種の天才的な直感力があるのだろう。こと音楽に関しては、自分にとって必要な人を瞬間的に見分け、しかも強引にモノにする。マイクには分かっている限り2回、その手を使っているし、この場合のベンモント,後年のハウイも同様だ。
 ただ、ベンモントはレコードを抱えてマッドクラッチのメンバーに会いに来ており、ただおなじ家の中に居ただけのマイクとは、多少スタンスが違う。

 ともあれ、ベンモントはその才能を証明し、休みのたびにマッドクラッチに加わるようになった。

(つづく)