スティーブンス・フォート2012/03/30 22:52

 1864年7月9日、南軍のアーリーはシェナンドア渓谷を経由しての、北部連邦首都ワシントンDC攻撃の寸前まで来ていた。この日、モノカシーで北軍ウォレス率いる軍勢をアーリーは破りはしたが、この一日は北軍にワシントン防御の時間を与えた。
 ピーターズバーグでリー率いる南軍の包囲にかかっていた北軍のグラントは、手元からホレイショ・ライト率いる軍勢を南からポトマック川経由で、ワシントンへ援軍としてよこしていたし、ワシントンはワシントンでマクック(西部戦線での不首尾のため、ワシントンに引っ込んでいた)を中心として、首都防衛のため砦を守りを固めていたのだ。
 
 南軍のアーリーはモノカシーの翌日から、さらにワシントンへと軍勢を進めた。彼は一部の騎兵を、機動力をもってワシントン急襲にあてたが、こちらはさすがに大きな成果を得なかった。
 一方、歩兵は手堅くワシントン北部の砦(Fort フォート)の攻略にあてた。狙いは、ダイヤ型になっているワシントンDCの北の頂点付近、スティーブンス・フォートである。南軍の攻撃は7月11日から本格化した。
 砦での戦いというものは、攻撃側にとって困難だ。相手は砦にこもって守りを固めている。近づこうとしても、胸壁から狙撃されてなかなか進まない。こういう時の常套手段として、南軍側もスティーブンス・フォートに対して狙撃を行った。
 この時、首都防衛の強い意志をかためた北部連邦大統領エイブラハム・リンカーンが、妻を伴って(!)このスティーブンス・フォートを訪れていた。南軍がワシントンに迫っているという事態に、首都はややパニック気味だったのだ。それをおさえるためにも、大統領みずから悠然と前線に赴く必要があったのだろう。
 フロックコートにトップハット(シルクハット)に身を固めた ― つまり軍服ではない ― リンカーンは、飛んでくる弾丸もものともせずに、最前線の堡塁付近に身を乗り出していた。彼の長身は有名だ。しかも平服で、トップハットときている。南軍兵士やアーリーが、それこそリンカーンであることを知っていたかどうかはともかく、格好の標的となった。
 伝説ではこの時、とある士官がリンカーンに怒鳴ったことになっている。

 "Get down, you fool!" 「しゃがめ、この馬鹿ッ!」

 この話はかなり有名らしいが、その手のエピソードにおいてありがちなことで、作り話だとも言う。
 怒鳴った士官が誰かというと、グラントによってワシントン防衛のために派遣されていたホレイショ・ライトという説もあれば、当時23歳、志願兵として従軍していたオリバー・ウェンデル・ホームズ Jr.だったという説もある。後者は名前を聞いただけではピンと来ないが、後に連邦最高裁判所判事を務めた人物であり、『コモン・ロー』の著者 ― 法律家としては、一級の有名人だ。
 この法律家ホームズは、セオドア・ルーズベルト大統領によって、1902年に連邦最高裁判所判事に任命されたのだが、そのルーズベルトの学生時代の友人で、日露戦争時にアメリカに停戦調停を依頼するよう、交渉したのが金子堅太郎だった。ホームズJr.は、金子が若い頃、その家庭教師を務めたという、妙な縁がある。

 若きホームズJr. が実際にリンカーンに怒鳴ったかどうかはともかくとして、大統領は狙撃されることなくスティーブンス・フォートの視察を終えた。
 アーリー率いる南軍の攻撃は翌7月12日も続いたが、結局この砦を抜くことは出来ず、撤退を決意した。グラントが派遣したライトの援軍をも押し返すことは、もはやアーリーには無理だった。
 南軍は退却を開始し、7月14日には再びポトマック川を渡って、ヴァージニア州へ退いた。

 包囲されているなら、逆に別働隊でもって的の首都を攻撃するという、諸葛孔明ばりの大胆なリーの作戦は、ある程度までは成功していた。実際、ワシントンを中心とした北部連邦にパニックを起こしたし、グラントもライトの軍勢を差し向けなければならなかった。さらに、穀倉地帯であるシェナンドア渓谷付近を南軍が押さえたことで、兵糧攻めの効果が出るのが遅れることになった。
 それでも、リーと、アーリーの作戦はスティーブンス・フォートが限界だった。