Get Back (Part 1) ― 2021/12/06 19:59
ビートルズの映画「ゲット・バッグ Get Back」は、ビートルズのファンなら、必見の映画である。
だが、私にとってなんだか面倒くさい映画である。そもそも、当時 [Let It Be] という映画になった、1969年1月からのセッションは、ビートルズの行き詰まりと、我がジョージのフラストレーションの爆発、ヤケクソなルーフ・トップで終わるという、あまり楽しい展開が期待できないセッションだからだ。
しかも、画面には常にビートルズのメンバーではなく、ひどく非音楽的な人がバンドの輪に割り込んできていて、視界に入るだけでも不快になる。
その上、今回はディズニープラスに加入しないと見られないという、余計な手間がかかる。見る前からなんとなく面倒くさいというのが、正直なところだった。
しかし、腐ってもビートルズ・ファンである。まだ25歳と若々しいジョージを見て、ビートルズの音楽を楽しむために、さまざまなハードルを越える覚悟をもって、私はディズニープラスに加入した。もちろん、用が済めば退会するつもり。
初っぱなからげんなりしたのが、三部構成でパート1だけで2時間以上ある。参ったな。
映画タイトルが入る前、「これまでのビートルズの歩み」が流れるのだが、それらのどれもが魅力的で、こっちを見ている方が楽しいだろうと確信してしまう。
セッション開始初日から数日、髭の生えていないジョージ。改めて見ると、うわぁ若い!美男子!私のジョージはやっぱりハンサム。レス・ポール・スタンダード“ルーシー”を抱えているのだが、ルーシーとあわせて赤系の服を着るおしゃれさんでもある。―― と、思ったら途中でルーシーが転がり落ちたりして、けっこう扱いが雑。
マイクを握ってハウリングを起こし、感電して「キャッ!」となるジョージ。みているこっちもキャッ!
エリック・クラプトンがどれほど素晴らしいか力説するジョージ。しかし「そりゃジャズだ」と落とすポール。このバンドでのジャズの不人気具合が分かる。私もジャズは好きではないが、クラプトンがジャズっぽいと思ったことはないなぁ。
ビリー・プレストンがどれほど凄いか力説するジョージ。ここは後々、重要になるだろう。
とにかく数週間後にはライブ・ショーをやって、テレビ特番を作らなければならない。そのために新曲を揃えなければならいはずだが、どうにもみんな集中力がないようで、ダラダラとセッションが続く。これを、パート1だけでも、あと2時間見るのかと思うと、げんなりする。
そんな中でも、時々見所がある。ビートルズが "All thing must pass" を演奏。ジョンがオルガンを担当しつつ、歌詞にアドバイスをくれる。凄く感動的で、CFGでのポールの演奏の良さの理由が分かった。
”Mighty Quinn"とか演奏しているのも、面白い。ディランはみんなのアイドル。さらにジョージが、自分の精神を安定させるためのようにディランの “Mama, You Been on My Mind” を歌うのが美しい。
最終的にはアコースティックな味付けになる “Tow of Us“ が最初はバリバリのロックンロールだったのが格好良かった。このバージョンでもまともな録音で聞きたくなる。
スペシャル・ショーをやろうという企画はあるものの、誰も具体的で実現可能な案を持っていない。みんなの意見は?と、いちおう民主主義的なやり方をして、結局なにも決まらない。ビートルズは音楽以外のことを実行するには、その才能と経験に乏しく、リーダーが不在。ポールがリーダーのように振る舞っても、誰もそれを認めていない空気が痛い。
スタッフは「ビートルズならどんなに突飛なことでもやってのけるに違いない」という魔法を信じている。どうやら、映画の “A Hard Day’s Night” で、ジョンとポールが驚異のスピードで曲を仕上げていったことの、再現をしてくれると思っているようだ。しかし、ビートルズは変容し、そのようなバンドではなくなっている。理想と現実が乖離し、何も生み出せない、不毛な状態に陥っている。辞めたくもなるだろう。
それを思うと、「コンサート・フォー・バングラデシュ」を、2週間の準備期間でやりとげたジョージは凄かった。具体的な目標、現実的なプラン、誰もが認めるリーダーがいたからこそ、実現できたのだ。
めったに発揮はしないが、やるとなったらリーダーを買って出て、やり遂げてしまう(ウィルベリーズなどもそうだ)ジョージの才能だ。
ともあれ、グダグダするセッション、明らかにジョンとポールに魔法を期待しているスタッフ、さらにジョンとポールの曲に集中して始めると、ジョージのフラストレーションがたまり、ついに「辞める」と言い出す。ニール・アスピノールや、ジョージ・マーティは、ジョージの立場のつらさを分かってくれている様子。
かわりにクラプトンを入れろと言うジョン。そりゃ、ジョージがあれだけ推していたんだから、あり得る話だ。
ジョージが抜けるなり、いままで一生懸命視界に入らないように細心の注意を払っていた、「音楽的ではない人物」が奇声を発して、まったく音楽的ではないカオスになって、最悪だった。
こうして、パート1終了。
最後にジョージの言いようのない、悲しくて美しい “Isnt’ it a pity” が流れるのが上手い演出だ。ジョージは、やめどきなのだ。この収拾の付かなくなったバンドから離れて、彼自身の豊かな音楽世界を表現するべきなのだ。
パート1を見る限り、確かに仲良くやっている表情もあるし、協力もちゃんとしていることもあるが、やっぱり私が最初にこのセッションに持っている嫌な印象を拭い去ることは出来なかった。
さて、パート2,パート3はどう展開するのか?ちょっと時間をかけてみる必要がある。ディズニープラスにお金を払うのが1ヶ月で済めば良いのだが。
だが、私にとってなんだか面倒くさい映画である。そもそも、当時 [Let It Be] という映画になった、1969年1月からのセッションは、ビートルズの行き詰まりと、我がジョージのフラストレーションの爆発、ヤケクソなルーフ・トップで終わるという、あまり楽しい展開が期待できないセッションだからだ。
しかも、画面には常にビートルズのメンバーではなく、ひどく非音楽的な人がバンドの輪に割り込んできていて、視界に入るだけでも不快になる。
その上、今回はディズニープラスに加入しないと見られないという、余計な手間がかかる。見る前からなんとなく面倒くさいというのが、正直なところだった。
しかし、腐ってもビートルズ・ファンである。まだ25歳と若々しいジョージを見て、ビートルズの音楽を楽しむために、さまざまなハードルを越える覚悟をもって、私はディズニープラスに加入した。もちろん、用が済めば退会するつもり。
初っぱなからげんなりしたのが、三部構成でパート1だけで2時間以上ある。参ったな。
映画タイトルが入る前、「これまでのビートルズの歩み」が流れるのだが、それらのどれもが魅力的で、こっちを見ている方が楽しいだろうと確信してしまう。
セッション開始初日から数日、髭の生えていないジョージ。改めて見ると、うわぁ若い!美男子!私のジョージはやっぱりハンサム。レス・ポール・スタンダード“ルーシー”を抱えているのだが、ルーシーとあわせて赤系の服を着るおしゃれさんでもある。―― と、思ったら途中でルーシーが転がり落ちたりして、けっこう扱いが雑。
マイクを握ってハウリングを起こし、感電して「キャッ!」となるジョージ。みているこっちもキャッ!
エリック・クラプトンがどれほど素晴らしいか力説するジョージ。しかし「そりゃジャズだ」と落とすポール。このバンドでのジャズの不人気具合が分かる。私もジャズは好きではないが、クラプトンがジャズっぽいと思ったことはないなぁ。
ビリー・プレストンがどれほど凄いか力説するジョージ。ここは後々、重要になるだろう。
とにかく数週間後にはライブ・ショーをやって、テレビ特番を作らなければならない。そのために新曲を揃えなければならいはずだが、どうにもみんな集中力がないようで、ダラダラとセッションが続く。これを、パート1だけでも、あと2時間見るのかと思うと、げんなりする。
そんな中でも、時々見所がある。ビートルズが "All thing must pass" を演奏。ジョンがオルガンを担当しつつ、歌詞にアドバイスをくれる。凄く感動的で、CFGでのポールの演奏の良さの理由が分かった。
”Mighty Quinn"とか演奏しているのも、面白い。ディランはみんなのアイドル。さらにジョージが、自分の精神を安定させるためのようにディランの “Mama, You Been on My Mind” を歌うのが美しい。
最終的にはアコースティックな味付けになる “Tow of Us“ が最初はバリバリのロックンロールだったのが格好良かった。このバージョンでもまともな録音で聞きたくなる。
スペシャル・ショーをやろうという企画はあるものの、誰も具体的で実現可能な案を持っていない。みんなの意見は?と、いちおう民主主義的なやり方をして、結局なにも決まらない。ビートルズは音楽以外のことを実行するには、その才能と経験に乏しく、リーダーが不在。ポールがリーダーのように振る舞っても、誰もそれを認めていない空気が痛い。
スタッフは「ビートルズならどんなに突飛なことでもやってのけるに違いない」という魔法を信じている。どうやら、映画の “A Hard Day’s Night” で、ジョンとポールが驚異のスピードで曲を仕上げていったことの、再現をしてくれると思っているようだ。しかし、ビートルズは変容し、そのようなバンドではなくなっている。理想と現実が乖離し、何も生み出せない、不毛な状態に陥っている。辞めたくもなるだろう。
それを思うと、「コンサート・フォー・バングラデシュ」を、2週間の準備期間でやりとげたジョージは凄かった。具体的な目標、現実的なプラン、誰もが認めるリーダーがいたからこそ、実現できたのだ。
めったに発揮はしないが、やるとなったらリーダーを買って出て、やり遂げてしまう(ウィルベリーズなどもそうだ)ジョージの才能だ。
ともあれ、グダグダするセッション、明らかにジョンとポールに魔法を期待しているスタッフ、さらにジョンとポールの曲に集中して始めると、ジョージのフラストレーションがたまり、ついに「辞める」と言い出す。ニール・アスピノールや、ジョージ・マーティは、ジョージの立場のつらさを分かってくれている様子。
かわりにクラプトンを入れろと言うジョン。そりゃ、ジョージがあれだけ推していたんだから、あり得る話だ。
ジョージが抜けるなり、いままで一生懸命視界に入らないように細心の注意を払っていた、「音楽的ではない人物」が奇声を発して、まったく音楽的ではないカオスになって、最悪だった。
こうして、パート1終了。
最後にジョージの言いようのない、悲しくて美しい “Isnt’ it a pity” が流れるのが上手い演出だ。ジョージは、やめどきなのだ。この収拾の付かなくなったバンドから離れて、彼自身の豊かな音楽世界を表現するべきなのだ。
パート1を見る限り、確かに仲良くやっている表情もあるし、協力もちゃんとしていることもあるが、やっぱり私が最初にこのセッションに持っている嫌な印象を拭い去ることは出来なかった。
さて、パート2,パート3はどう展開するのか?ちょっと時間をかけてみる必要がある。ディズニープラスにお金を払うのが1ヶ月で済めば良いのだが。
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