ユリシーズ・グラント「中将」登場 ― 2011/02/20 21:18
東部戦線では、1863年夏、ゲティスバーグの戦いは北軍の勝利に終わったが、リー率いる南軍を追撃して決定的な打撃を与えることはできなかった。10月から11月にかけて、北軍ポトマック軍を率いるミードは、ワシントンの南東90kmほどに陣取っている南軍に対し、攻撃をしかけた。あわよくばリーを南においやり、南部連合首都リッチモンドをも脅すことも意図していたであろう。
チカマウガやチャタヌーガにその名が登場したことでも分かる通り、南軍からは西部戦線援護のために、ロングストリートの軍が離れていたのである。戦力的には、ミードにとってチャンスだった。
慢性的な物資不足にあえぐ南軍では、いつもスチュアートの騎兵隊が、その調達(北軍からの強奪とも言う)に駆け回っているのだが、ミードは、この突出した騎兵から攻撃し、その敗れ目から一気にリーの本体へ襲いかかろうとした。
しかし、北軍にとって期待外れだったのは、スチュアートの騎兵が簡単に崩れなかったため、なかなか戦力を集中しての一気呵成の攻撃ができなかったことだ。守勢から攻勢に転じたときのリーの強さへの恐れからか、ミードはそれ以上の思い切った行動に出ることはできなかった。
結局、南軍を駆逐することなく、両者がラピダン川(チャンセラーズビルの戦いのあった樹海の西側)で冬営することになった。
その間、西部戦線ではブラッグの南軍はテネシー州からジョージア州へ押し戻され、ミシシッピー川はすでに北軍が制圧していた。リンカーンは西部戦線の趨勢は北軍が握っていると判断したのだろう。西部戦線司令官のユリシーズ・グラントをワシントンに呼び出した。彼を中将にして、北軍総司令官の任を与えたのだ。
北軍では中将は例外的な階級で、普段は存在しない(南軍にはあった)。その中将にグラントをしたというその事が、リンカーンの決意を物語っている。これまで、マクレラン、ポープ、バーンサイド、フッカー、ミードと、満足な戦績をあげられない将軍にいらだち続けたリンカーンにとって、西部戦線では莫大な犠牲を出しつつも、粘り強く、そして最終的には確実な勝利をつかむグラントが、最後の望みだっただろう。
年が明け、1864年3月。グラントはワシントンでリンカーンと面会し、その任に就いた。
西部戦線は、グラントに忠実で、しかも確実に任務を遂行することにかけては実勢のあるシャーマンを残し、アトランタ方面を攻めさせた。西部戦線は将官の質において南軍は劣っており、最大の都市であるアトランタを落とせば、あとは一気呵成であろう。ただし、西部戦線は広大な地域に展開する。時間はかかる。
一方、東部戦線は、グラント自らリーと対決する決心だった。リーを避けて戦は出来ないのだ。いなすことも、はぐらかすこともできない。南北戦争の西部戦線、その南軍そのものがリーであり、グラントはひたすら、リーを追いつめることに集中した。
リー相手に決定的で華やかな勝利は望めない。それでも、南軍には物資と人員の補充が困難という大きな弱点がある。勝てなくても、負けないことで南軍の体力を減じ、ジリジリとリッチモンドへ迫る。グラントはそれを実行するために犠牲となる兵士の数に動じないほどの、度胸を持っていた。
とりあえず、1864年春。1年前に北軍が大敗を喫したチャンセラーズビルがあるのと同じ樹海(ワイルダネス)で、グラントはリーとの直接対決を迎えることとなる。
無論、兵力的に余裕のある北軍は、協調作戦として、ほかに2か所の戦闘をほぼ同時に計画し、樹海での本体決戦の助けとなるように計画した。しかしこれらはグラントの望むような成果は上げられなかった。やはり南北戦争は、優秀な将官の駒不足が最後まで尾を引くことになった。
チカマウガやチャタヌーガにその名が登場したことでも分かる通り、南軍からは西部戦線援護のために、ロングストリートの軍が離れていたのである。戦力的には、ミードにとってチャンスだった。
慢性的な物資不足にあえぐ南軍では、いつもスチュアートの騎兵隊が、その調達(北軍からの強奪とも言う)に駆け回っているのだが、ミードは、この突出した騎兵から攻撃し、その敗れ目から一気にリーの本体へ襲いかかろうとした。
しかし、北軍にとって期待外れだったのは、スチュアートの騎兵が簡単に崩れなかったため、なかなか戦力を集中しての一気呵成の攻撃ができなかったことだ。守勢から攻勢に転じたときのリーの強さへの恐れからか、ミードはそれ以上の思い切った行動に出ることはできなかった。
結局、南軍を駆逐することなく、両者がラピダン川(チャンセラーズビルの戦いのあった樹海の西側)で冬営することになった。
その間、西部戦線ではブラッグの南軍はテネシー州からジョージア州へ押し戻され、ミシシッピー川はすでに北軍が制圧していた。リンカーンは西部戦線の趨勢は北軍が握っていると判断したのだろう。西部戦線司令官のユリシーズ・グラントをワシントンに呼び出した。彼を中将にして、北軍総司令官の任を与えたのだ。
北軍では中将は例外的な階級で、普段は存在しない(南軍にはあった)。その中将にグラントをしたというその事が、リンカーンの決意を物語っている。これまで、マクレラン、ポープ、バーンサイド、フッカー、ミードと、満足な戦績をあげられない将軍にいらだち続けたリンカーンにとって、西部戦線では莫大な犠牲を出しつつも、粘り強く、そして最終的には確実な勝利をつかむグラントが、最後の望みだっただろう。
年が明け、1864年3月。グラントはワシントンでリンカーンと面会し、その任に就いた。
西部戦線は、グラントに忠実で、しかも確実に任務を遂行することにかけては実勢のあるシャーマンを残し、アトランタ方面を攻めさせた。西部戦線は将官の質において南軍は劣っており、最大の都市であるアトランタを落とせば、あとは一気呵成であろう。ただし、西部戦線は広大な地域に展開する。時間はかかる。
一方、東部戦線は、グラント自らリーと対決する決心だった。リーを避けて戦は出来ないのだ。いなすことも、はぐらかすこともできない。南北戦争の西部戦線、その南軍そのものがリーであり、グラントはひたすら、リーを追いつめることに集中した。
リー相手に決定的で華やかな勝利は望めない。それでも、南軍には物資と人員の補充が困難という大きな弱点がある。勝てなくても、負けないことで南軍の体力を減じ、ジリジリとリッチモンドへ迫る。グラントはそれを実行するために犠牲となる兵士の数に動じないほどの、度胸を持っていた。
とりあえず、1864年春。1年前に北軍が大敗を喫したチャンセラーズビルがあるのと同じ樹海(ワイルダネス)で、グラントはリーとの直接対決を迎えることとなる。
無論、兵力的に余裕のある北軍は、協調作戦として、ほかに2か所の戦闘をほぼ同時に計画し、樹海での本体決戦の助けとなるように計画した。しかしこれらはグラントの望むような成果は上げられなかった。やはり南北戦争は、優秀な将官の駒不足が最後まで尾を引くことになった。
コメント
_ dema ― 2011/02/21 22:21
_ NI ぶち ― 2011/02/22 22:09
>demaさん
アメリカではあまり上級階級を作りたがらなかったようですね。「市民に階級の差なんてない!」という建前(実際にはあるのだろうが)のためにも、意地でも階級を作らないぞ!…ってな感じで。あのペリーですら、大佐ですって。有名な海軍戦術家のマハンも大佐で予備役だったそうです。
それにひきかえ…皇帝!さっすが皇帝ッ!元帥26人?!それはすごい!元帥なんて、ボナパルト本人一人でよさそうだけどなぁ。1812年には元帥がゾロゾロ出かけて、のきなみシモヤケになって帰ってきたのか…。
アメリカではあまり上級階級を作りたがらなかったようですね。「市民に階級の差なんてない!」という建前(実際にはあるのだろうが)のためにも、意地でも階級を作らないぞ!…ってな感じで。あのペリーですら、大佐ですって。有名な海軍戦術家のマハンも大佐で予備役だったそうです。
それにひきかえ…皇帝!さっすが皇帝ッ!元帥26人?!それはすごい!元帥なんて、ボナパルト本人一人でよさそうだけどなぁ。1812年には元帥がゾロゾロ出かけて、のきなみシモヤケになって帰ってきたのか…。
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ちなみにナポレオンは皇帝になってから没落するまでに、全部で26人の元帥を任命しています。モスクワ遠征の大陸軍では、軍団長はすべて元帥です。
南北戦争とはえらい差ですね。