南北戦争その後 / テンチ家の兄弟(その12 最終回) ― 2015/05/24 16:11
まる4年間の戦闘期間を経て、南北戦争は終わった。
国を二分した、長い戦争は、敗者となった南部の産業に打撃を与え、回復は長く困難な道のりとなった。
奴隷制は廃止されたが、本当の意味での解放にはほど遠く、課題は20世紀、そして今日にも持ち越されている。
エイブラハム・リンカーンは、戦争の完全な終結を待つことなく、1865年4月14年、ワシントンのフォード劇場で銃撃され、翌日死亡した。
アメリカ史上、もっとも偉大な大統領の一人とされるリンカーンだが、この任期はまるまる戦時であり、平時の大統領としての手腕は未知のままとなった。
戦勝将軍となったユリシーズ・グラントは、リンカーンからフォード劇場に招待されていたが、それを断り、リンカーン遭難の現場にはいなかった。
その後政治家に転身し、1869年から2期8年間アメリカ合衆国大統領をつとめた。栄光の将軍だったグラントも、汚職やスキャンダルのため、大統領として芳しい評判を得ることはなかった。
明治5年、日本から来た岩倉使節団を迎えた合衆国大統領がグラントである。大統領退任後、来日もしている。南北戦争終結から20年後の1885年に亡くなり、現在では50ドル紙幣にその姿を見ることが出来る。
ウィリアム・テクムセ・シャーマンは戦争終結後も陸軍に残り、1869年にはグラントの後任として大将に昇進し、陸軍総司令官をつとめた。陸軍を退いてから8年後1891年に亡くなっている。
ジョーゼフ・ジョンストンは降伏後、鉄道,保険,運送など実業界に身を置いて活躍した。シャーマンに対しては友情と尊敬の思いを持ち続け、シャーマンの葬儀ではその棺を担いだ。ジョンストンが亡くなったのはその数週間後、84歳。南北戦争終結から26年が経過していた。
ロバート・E・リーは、戦争終結後、拘束されることはなかったが、市民権は剥奪された。彼は軍を退き、農場へ引退したいと考えていたが、彼のカリスマ性,影響力がそれを許さなかった。
アポマトックスでの降伏から半年後、ヴァージニア州のワシントン大学の学長に就任した。ザ・バンドの曲 "The Night They Drove Old Divie Down" に登場する、ロバート・E・リーはこの時期の姿だろうか。
後にワシントン・アンド・リー大学と改めるこの学校構内には、リーの要望で作られた小さなチャペルがあるが、1870年にリーが亡くなったあと、彼はここに葬られることになった。
テンチ家の兄弟 ― ジョン・ウォルター・テンチ少佐と、弟のルーベン・モンモランシー・テンチは、生まれ故郷ジョージア州ニューナンに戻り、次なる人生へと踏み出した。
弟のルーベンは医者になり、1910年に亡くなっている。
一方、兄のジョン・W・テンチ少佐は結婚後妻の伯父が住んでいた、フロリダ州ゲインズヴィルに移住した。同地で教育者,新聞発行者,文筆家として尊敬をあつめ、1926年に亡くなった。息子のベンジャミン・モンモランシー・テンチ ― 通称「ベンモント」以降の子孫達もゲインズヴィルに生まれ育っている。
少佐の軍服姿の肖像画がいつ描かれたかは分からないが、少佐の孫,ベンモント・テンチ Jr.の家の居間には、これが飾られていた。1974年のある日、少佐のひ孫にあたるベンモント・テンチⅢと、そのバンド仲間が、少佐の肖像の前で録音を行った。彼らはそのテープを携えてLAへと旅立った。
南北戦争終結から、約110年が経っていた。
奴隷制は廃止されたが、本当の意味での解放にはほど遠く、課題は20世紀、そして今日にも持ち越されている。
エイブラハム・リンカーンは、戦争の完全な終結を待つことなく、1865年4月14年、ワシントンのフォード劇場で銃撃され、翌日死亡した。
アメリカ史上、もっとも偉大な大統領の一人とされるリンカーンだが、この任期はまるまる戦時であり、平時の大統領としての手腕は未知のままとなった。
戦勝将軍となったユリシーズ・グラントは、リンカーンからフォード劇場に招待されていたが、それを断り、リンカーン遭難の現場にはいなかった。
その後政治家に転身し、1869年から2期8年間アメリカ合衆国大統領をつとめた。栄光の将軍だったグラントも、汚職やスキャンダルのため、大統領として芳しい評判を得ることはなかった。
明治5年、日本から来た岩倉使節団を迎えた合衆国大統領がグラントである。大統領退任後、来日もしている。南北戦争終結から20年後の1885年に亡くなり、現在では50ドル紙幣にその姿を見ることが出来る。
ウィリアム・テクムセ・シャーマンは戦争終結後も陸軍に残り、1869年にはグラントの後任として大将に昇進し、陸軍総司令官をつとめた。陸軍を退いてから8年後1891年に亡くなっている。
ジョーゼフ・ジョンストンは降伏後、鉄道,保険,運送など実業界に身を置いて活躍した。シャーマンに対しては友情と尊敬の思いを持ち続け、シャーマンの葬儀ではその棺を担いだ。ジョンストンが亡くなったのはその数週間後、84歳。南北戦争終結から26年が経過していた。
ロバート・E・リーは、戦争終結後、拘束されることはなかったが、市民権は剥奪された。彼は軍を退き、農場へ引退したいと考えていたが、彼のカリスマ性,影響力がそれを許さなかった。
アポマトックスでの降伏から半年後、ヴァージニア州のワシントン大学の学長に就任した。ザ・バンドの曲 "The Night They Drove Old Divie Down" に登場する、ロバート・E・リーはこの時期の姿だろうか。
後にワシントン・アンド・リー大学と改めるこの学校構内には、リーの要望で作られた小さなチャペルがあるが、1870年にリーが亡くなったあと、彼はここに葬られることになった。
テンチ家の兄弟 ― ジョン・ウォルター・テンチ少佐と、弟のルーベン・モンモランシー・テンチは、生まれ故郷ジョージア州ニューナンに戻り、次なる人生へと踏み出した。
弟のルーベンは医者になり、1910年に亡くなっている。
一方、兄のジョン・W・テンチ少佐は結婚後妻の伯父が住んでいた、フロリダ州ゲインズヴィルに移住した。同地で教育者,新聞発行者,文筆家として尊敬をあつめ、1926年に亡くなった。息子のベンジャミン・モンモランシー・テンチ ― 通称「ベンモント」以降の子孫達もゲインズヴィルに生まれ育っている。
少佐の軍服姿の肖像画がいつ描かれたかは分からないが、少佐の孫,ベンモント・テンチ Jr.の家の居間には、これが飾られていた。1974年のある日、少佐のひ孫にあたるベンモント・テンチⅢと、そのバンド仲間が、少佐の肖像の前で録音を行った。彼らはそのテープを携えてLAへと旅立った。
南北戦争終結から、約110年が経っていた。
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