アポマトックス2015/04/09 20:50

 日本経済新聞の夕刊に、月曜日からピーター・バラカンさんのコラムが連載されている。昨日は、「売れなかった好きな音楽」として、トム・ペティに言及している。
 しかもTP&HBのハイレゾが発売になっている。
 しかし、今日は4月9日 ― 150年後の4月9日なので、どうしても南北戦争の記事を書かなければならない。

 1865年3月末から4月初頭にかけて、南軍のロバート・E・リーはピーターズバーグの持久戦から脱すべく行動を起こしたが、北軍の大軍になすすべも無かった。
 4月3日、南部連合軍はアポマトックス川に沿って西へ移動しはじめた。シェナンドア渓谷の地の利を生かして北軍の攻撃をかわし、ジョージア州にいるジョンストンの軍と合流することを意図していた。
 しかし、北軍のグラントはそれを許さなかった。北軍は10倍近い兵力をもって、リーを追撃した。グラントはオードとともに南回りで、ミードは北回りで、リーとの小さな戦闘を繰り返しながら、徐々にリーの進む道を狭めつつあった。
 4月6日にはリッチモンドからのなけなしの物資が破壊され、リーはさらに追い詰められた。そして、ピーターズバーグから西へ約120km、アポマトックス・コートハウス付近で、シェリダン率いる北軍の騎兵がリーを待ち受けるに至った。
 リーは降伏を決断し、それをグラントへ伝えた。
 南軍の将校の多くはリーの降伏の決断を指示していた。しかし、一部にはゲリラ戦をすすめる意見もあったという。それに対する、リーの言葉は有名だ。軍人としての自負、自覚、責任感が滲み出ている。

 I suppose there is nothing for me to do but go and see General Grant. And I would rather die a thousand deaths.
 グラント将軍に会いにいくほかない。1000回死ぬ方がましだが。


 アポマトックス・コートハウスというのは、巡回裁判所の名前であり、その周辺地域を指す名前でもある。その地域にある、マクリーン氏の自宅が、リーとグラントの会見会場となった。
 このマクリーン氏、開戦から間もない頃の戦場だったマナサス(ブルラン)に住んでいたが、戦闘を避けてアポマトックスに引っ越していたのだという。運が悪いと言うべきだが、その悪運のせいで米国史にその名をとどめることになった。

 1865年4月9日午後、リーはマクリーン邸に礼装で到着した。グラントも到着し、降伏文書の取り交わしが行われた。南軍兵士は武器を引き渡し、もはや戦闘に加わらないことを宣誓する。捕虜ではあるが仮釈放という身分になり、身柄は拘束されない。
 南軍の兵士達は故郷から自前で馬をつれてきていたが、馬も武器の一部である。携行は許されていなかったが、リーはこの点について譲歩を希望した。グラントは便宜を図ることを約束した。南軍の兵士達は、馬を連れて故郷へ帰ることができる。

 アポマトックスにおけるリーの降伏によって、南北戦争は終わった。― 厳密にはそうではないのだが、多くの南北戦争の本は、この気高く物静かな老将のアポマトックスでの降伏シーンをもって終わっている。
 グラントもこれで終わったと思った。リンカーンもまた同じ気持ちだっただろう。リンカーンは戦争に勝利し、これから新しい国を指導する気持ちを新たにしたに違いない。
 しかし、それは5日間しか続かなかった。リンカーンがワシントンの劇場で銃撃されたのは、アポマトックスから5日後の4月14日だった。翌4月15日、リンカーンは死んだ。