ノースアンナ2011/09/02 22:48

 1864年春の時点から考えても、南北戦争は北部連邦優位で展開していた。人口は最初から北部が圧倒的だったので兵力の分母が違うし、ヨーロッパからの移民がいきなり兵士にされるような強引な手段が取られた。
 さらに産業面でも北部は南部を圧倒していたし、海上封鎖のため貿易行為を妨げられレしまうと、南部は干上がるしかない。
 しかし、なんと言っても政治という高次元で北部連邦は南部を圧倒していた。
 南部は何も北部に打ち勝たずとも、その独立性を認められれば良いわけで、ヨーロッパの大国による仲裁でそれを達成しようと目論んでいたはずだった。しかし、南部にはそれを行うほどの経綸の才に恵まれた政治家は居なかった。そして、相手が圧倒的に政治能力に長けたリンカーンだったことは、南部の不利を決定的にしていた。
 リンカーンは常にタイミングを見計らい、良い時期に良い政治声明を上手く繰り出すことにより、事態を優位に進めていた。特に、アンティータムの戦いの直後、奴隷解放宣言を行った事は、彼の政治的勝利を決定付けた。奴隷制度については、北部でも意見が分かれており、はっきりと明言することは ― 彼の個人的信条はともかくとして ― 避けるべきだった。
 しかし、ヨーロッパ諸国にとって、この奴隷解放宣言は北部支持の決定打だった。リンカーンはその大きな果実を取った。
 リンカーンは決して、誠実で正直なだけの人物ではなかった。したたかな彼には政略があり、それを実行するためには妥協を許さず、戦時ならではの強権を振るった。彼は頑固で、辛抱強く、徹底的で、目的のためには細心で、抜け目が無かった。だからこそ、南部に対して懐柔作戦はとらず、あくまでも戦争での勝利で ― しかも早く事を進めたかった。
 時あたかも、大統領選の年である。リンカーンは、しつこく北軍の攻撃を退け続けるリーを、一刻も早く撃退してしまいたかった。

 中将に任じられた北軍司令官グラントは、リンカーンの意図を当然理解しつつ、一方で迷惑がっていただろう。リンカーンは比類無き政治家だが、戦闘に関しては素人だ。
 ともあれ、グラントはリー率いる南軍を撃滅する方法を考えた。まともに攻撃したところで、地勢と塹壕を熟知したリーの守備に、決定的な敗北を味あわせるのは難しい。それはウィルダネスと、スポットシルヴァニアで証明済みだ。
 騎兵の機動性を用いて、目標をリッチモンドと見せかけておびき出そうとしても、それに対応したのもまた南部の騎兵だけで、スチュアートを仕留めはしたものの、リーはあいかわらず動かない。

 グラントは5月20日、もう一度リーを誘い出す作戦に出た。北軍にとって忌まわしき樹海を出て、南東方向 ― つまりリッチモンド方向へと動かし、南軍を開けた場所に誘い出した上で、右側から会戦を挑もうとしたのだ。そうなれば、リーお得意の少数奇襲も、強固な陣地からの猛烈な応射もできない。
 しかし、スチュアートを失ったとは言え、南軍の騎兵はまだその特性を活かし続けていた。スチュアートの後任となったウェイド・ハンプトンと、リーの甥フィッツヒュー・リーの騎兵は、北軍の動きをいち早く察知し、リーは北軍に先んじて南軍を移動させたのである。
 5月22日、リーはノース・アンナ側南岸に強固な防衛線を築いた。しかも、南軍にしては珍しく、9000の援軍も加わっていた。バミューダ・ハンドレッドでバトラーの北軍が動けなくなっていたため、P.G.T.ボーレガードはピケットの師団を送ることが出来たし、ニューマーケットでの勝利により、シェナンドー渓谷からも、ブレッキンリッジの部隊が到着していたからである。

 リーは南北に蛇行するノースアンナ川に対し、V字型の陣形を敷いた。翌23日、グラントの北軍はノースアンナを渡ってこの南軍陣地に、左右から攻撃を仕掛けたが、先に布陣していた南軍の守りには敵わない。しかも背後はさっき渡ったばかりノースアンナ川。加えて、南軍の陣地の凸部分と川に阻まれて、左右双方の北軍は連絡が取れず、結局押し戻されてしまった。
 ここで、戦闘に関して勘の良い指揮官だったら、退却する北軍を勢いよく追って、大打撃を加えるところだろう。しかし、南北戦争中にそれが出来た将官は驚くほど少なく、その一人が前年に死んだトーマス・"ストーンウォール"・ジャクソンだった。
 そのジャクソンの後任にあたるA.P.ヒルは、左翼から攻撃してきた北軍を首尾良く撃退したが、その機に乗じて大攻勢に転じるチャンスは逸してしまった。リーはこのことにひどく落胆したようだ。
 その頃にはグラントもこノースアンナ川渡河作戦の不利を悟り、攻撃を控えるようになった。このことによって、南軍は逆攻勢のチャンスを失った。

 リーにとって悪いことに、南軍は優秀な現場指揮官不足に悩まされていた。信頼するロングストリートはウィルダネスで負傷したため、この時点では指揮不能だったし、A.P.ヒルはウィルダネス以来体調が優れず、万全の指揮ができない。その上、もう一つの大隊指揮官であるユーエルまで体調不良で(これはかなり以前からそうなのだが)、切れが無い。あとは軍団指揮官としては経験の足りない少将たちがいるだけで、これではさすがのリーもどうしようもなかった。
 その上、ここにきてリー自身が倒れてしまったのだ。腸痙攣ということになっている。三日ほど、彼はベッドを離れることが出来なかった。こうなるともう、ストレス性ではないかと疑わざるを得ない。
 この間、グラントの慎重傾向も相まって、双方の戦闘が停止した。逆にグラントがリーの病を知り、それに乗じて大攻勢をかけていたら、南北戦争はもっと早く終結していたかも知れない。

 歴史はそうならず、ノースアンナの戦いは双方決定打を出し切らずに終了した。グラントはノースアンナ北岸に戻った後、もっと思い切って南東へ移動し、当初の思惑通りの会戦に持ち込もうと考えた。しかし、それは南北戦争の中でも最も凄惨な結果を生むことになった。

Photograph2011/09/05 21:57

 Rolling Stone誌の最新号(#. 1139)の表紙はジョージ。特集記事もジョージだ。週末にこの情報を得てからもう2回書店に足を運んでいるが、まだ手に入らない。そもそも、Rolling Stoneが日本で何日発売なのかを、把握していない。10日くらいだったろうか…?

 無論、この特集はジョージが亡くなって10年、そしていよいよドキュメンタリー映画 が公開になるのに合わせてる。
 何件かの映画祭ではすでに上映されており、いくつかのエピソードがネット上でも紹介されていた。ジョージは女性にもてたし、ジョージも大歓迎だったとか。クラプトンとの関係がどうだとか。
 しかし、一番印象的なのは、リンゴのこの話。

 Beatle Ringo Starr is brought to tears by the memory of his final conversation with Harrison, who managed a joke as he lay dying in Switzerland. Starr had to leave because his daughter was undergoing emergency brain surgery in Los Angeles: “George said: ‘Do you want me to come with you?’ They were the last words I heard him say.”
 ビートルズのリンゴ・スターは、ハリスンと最後に交わした会話を思い出しながら、涙を見せている。ハリスンはスイスで死の床につきつつも、ジョークを言っていた。スターの娘がロサンゼルスで脳の緊急手術を受けるため、彼(リンゴ)は出発しなければならなかった。
「ジョージは言ったんだ。『一緒に行ってあげようか?』それが彼の言葉を聞いた最後だった。」
(出典 Opposing Views


 これは泣く。リンゴじゃなくても泣く…。
 リンゴの娘というのは、モーリーンとの娘,リー・スターキーのこと。彼女は今でも闘病中だ。
 ジョージがリンゴに言った最後の言葉は、直訳すれば「ぼくに一緒に来て欲しい?」だが、日本語のニュアンスとしてふさわしいのは「一緒に行ってあげようか?」だと思う。
 たしか、スイスでリンゴやポールが最後にジョージ会った時はもう、ジョージに死が間近に迫っていたはず。二人とも大泣きだったと聞いている。そんな時でも、こんな強烈な ― あるいみ凄みのあるジョークを言うジョージ。そして限りなく優しくて、リンゴを愛してるジョージ。
 人は生涯に一人でも、こんな親友を持てれば十分幸せなのはないだろうか。ジョージの場合、ひどく大勢の連中が「一番の親友はジョージ」と言うだけに、この手の幸せをたくさん、たくさんもたらした人と言える。ディランの言う、ジョージは「太陽だった」という表現は、その点を表しているのかも知れない。

 ジョージとリンゴと言えば、やはり "Photograph"。オリジナル録音も、ジョージの声がしっかり聞こえて好きだが、ここはCFGの映像で。
 どういう訳だが、舞台上の人々が一斉に大笑いし始めるのがおかしい。ずっとむっつり気味だったジェフ・リンも、リンゴには敵わないのか、テヘっと笑ってしまっている。 この映像ではカットになっているが、「今となっては歌詞の意味も変わってしまったけどね」と、サラリと言ってのけるリンゴの悲しみと、ジョージに会えた幸せが胸に迫る。何度見てもグッと来る演奏だ。

Rolling Stone #. 11392011/09/09 21:56

 Rolling Stone誌の日本での発売は毎月10日ぐらいだったとのおぼろげな記憶はあったものの、やっぱり早く欲しくて、洋書のある本屋に通うこと六日目。とうとう現物を手に入れた。ネタバレされたくない方は読み飛ばしていただきたい。



 まずは目を惹くのが、見たことがあるもの、ないものを含めた、ジョージの素敵な写真の数々。
 一番イカしていたのは、やはり1969年、ワイト島でテニスをするジョージとディラン様!…ディ、ディラン様が…アクテブ!二人ともとてもテニスをするような服装じゃ無いんだけど、なんだか力が入っている。この写真撮った人、偉いなぁ。
 オリヴィアによれば、この二人には「魂の結びつき」があるとのこと。確かに、ジョージとディランの友情には、リンゴやクラプトン、トムさんなどとはまた少し違ったものが有るような気がする。

 ジョージのミュージシャンとしてのキャリアや、プレイベート・ライフなどが記事になっている中で、初めて知ったのは、ウィルベリーズの[Vol.3] 録音時の話。いや、ウィルベリー兄弟の話ではなく、その息子たち ― ウィルベリー従兄弟の話。ダーニによると、下でウィルベリーたちが録音している最中、ダーニは階上でジェイコブ・ディランと、ニンテンドー(要するにファミコン)の、「ダックハント」をして遊んでいたそうだ。
 たしかこの時、ダーニは12か13歳。ジェイコブは9歳上の21か22だろう。かかかか可愛いじゃ無いか、ウィルベリー従兄弟…。いや、そうじゃない。下で凄いことになっているのに、それで良いのか、ウィルベリー従兄弟?!

 そんな訳で、ジェイコブ・ディラン featuring ダーニ・ハリスンで、"Gimme some truth" 私はこの曲のオリジナルも好きだし、このカバーもまた大好きだ。



 私はこれまで、この録音はジェイコブの録音をダーニに送って、彼は後でかぶせただけ ― つまりスタジオで顔を合わせたわけでは無いと勝手に解釈していたのだが、一緒にファミコンした仲ということで、一緒にスタジオ入りしていても良いような気がしてきた。

 さて、ジョージの記事だが、やたらとトム・ペティ氏が出てきて笑ってしまった。オリヴィアより多いんじゃないだろうか…。ジョージの「ディランストーキング」をまたばらしている。
 ジョージが亡くなったとき、RS誌にはトムさんのかなり長いインタビューが掲載されたので(Cool Dry Placeに翻訳あり)、その引用もあるのだが、今回初めて見るコメントもある。
 ジョージが亡くなったことに関して、ジョージがつねにトムさんに言っていたこと、「肉体ばかりにこだわってはいけない、魂のあるべき場所が重要なんだ…」という教え。ちょっと黙ってから、笑いながらコメントするトムさんの表情が目に浮かぶようだ。

 ジョージの記事をひとしきり読んだ後、他の記事もパラパラみていたら、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのニュースが載っていてびっくりした。
 なんでも、TP&HBはスタジオ入りして、もう4曲ほど録音したというのだ。まだ他にもやる予定とのこと。ただ、あまり色々急いでやる気はないようで、アルバムと仕上がるのはまだまだ先のことになりそうだ。
 今年のハートブレイカーズは完全休養して、トムさんとマイクは曲のストックにいそしむのかと思いきや、これは意外。そして嬉しい。マイクがスティーヴィー・ニックスと楽しそうにしているのを見てたら、トムさんもウズウズしてしまったのかもね。

十牛図 / 秋庭歌2011/09/11 20:43

 9月10日土曜日、国立劇場に「声明 十牛図 / 雅楽 秋庭歌一具」を聴きに行った。

 国立劇場に行くのは久しぶりだ。
 国立劇場と言うと、思い出す。学生の頃、一般教養科目として「法学」を取ったことがあった。法学の専門家である先生が、法学とは縁遠い我々学生に、法学の基礎の基礎を教える授業だった。その先生は、毎年「みなさん、日本の最高裁判所はどこにありますか?」と尋ね、何人かの生徒を指すことにしていたらしい。
 私が講義に出たときも、同じ事が行われた。何人かの生徒が分からないと答えたあと、私が指された。私はとっさに、「国立劇場の」と答えた。すると、先生は暫し押し黙り、そして言ったのだ。
 「私はこの学校で長く教えていますが、最高裁判所の場所を答えた人は、あなたがはじめてです。」

 私はこのことを名誉とするべきなのだろが、何年にもわたって、一人も分からなかったという事実は、音大の浮き世離れした雰囲気を如実に表しており、そっちの方が問題だ。
 そもそも、「国立劇場の」という表現は、正しくない。本来なら、「隣り」と言うべきだろう。しかし、私は地下鉄半蔵門駅から国立劇場に向かう道すがら、最高裁判所への順路を目にしており、それがなんとなく「裏」に思えたので、そう答えたのだった。



 さて今回の演奏会は、国立劇場会場45周年特別企画公演である。「新たなる伝統の創造」という副題がつき、一曲目が菅野由弘の声明,新曲初演「十牛図 鎮魂と再生への祈り ― 心の四十五声―」。
 声明(しょうみょう)とは、仏教の僧が歌う宗教歌とでも言うべきだろうか。お経をさらに音楽的,ダイナミックにしたものと考えて良い。雅楽が伴奏につくこともあるし、お寺でよく目にするような打ち物(打楽器)も加わるが、メインは僧たちによる歌唱だ。
 今回の新曲は、浄土宗,真言宗,日蓮宗の三宗派からそれぞれ十五人ずつ、総計四十五人の大迫力声明が聞き所。さすがに、ボーズ四十五人大合唱は凄い。楽曲の題材は禅の修行と悟りの道筋を表す絵なのだが、それもスクリーンに映し出したり、照明、舞台装置など、総合的によく出来ていた。
 私が菅野由弘の存在を初めて知ったのは、テレビ音楽においてだが、声明や雅楽楽器など、伝統楽器を用いた作曲でも、お馴染みになっている。

 休憩をはさんで後半には、おなじみ伶楽舎による、武満徹の「秋庭歌一具」。そもそも伶楽舎結成のきっかけが、この曲だったのだから、十八番と言うべきだろう。
 私の判断基準では、雅楽の現代曲というものは大抵イマイチな作品が多い中、さすがに武満の「秋庭歌」はしっかりしている。人によっては「大名曲」という最高評価がなされるのだが、ただ私の好みではそこまでは行かない。所詮、私は「雅楽は古典にかぎる」という考えにとらわれている人なので、仕方が無い。

 伶楽舎の演奏と曲そのものは良いのだが、今回の場合舞台演出がいただけなかった。まず、舞台が真っ白なのだ。しかも、天井から白い糸が滝のように垂れ下がっている。これは良くない。この曲は「秋」の曲なのだ。白は冬の色だし、滝だと夏になってしまう。どこにも秋らしさがない。邦楽はこの季節感を非常に重要視するのだから、国立劇場でこのミスマッチは減点だ。
 さらに、どういう演出意図なのか、客席の灯りが、かなり明るいままの演奏だった。「十牛図」の時は普通に暗くしていたのだが。明るいとどうしても観客は気が散り、身動きをしがちで、物音はするし、集中力はなくなるし、さらに途中退席する人が多すぎる。正直言って雅楽はよほどでないと眠くなるのだから、観客の集中力を切らさないような努力はするべきだろう。

 今回の演奏会も、本番少し前に伶楽舎の友人に頼んで、チケットを受付に置いておいてもらおうと、のんびり構えていたのだが、大間違いだった。今回は伶楽舎の主催ではなく、国立劇場の主催。ちゃんと国立劇場からチケットを取らなければいけない。
 慌てて取ってみると、ソールドアウト直前だった。もちろん、行ってみると客席は満席。やはり国立劇場の集客力は違うなと、感心した。
 もっとも、曲目ジャンルに馴染みの薄い人も多かったようだ。私の背後ではしきりに「がらく楽器、がらく楽器」と連呼するお姉さんが居て、閉口した。さらに彼女、「秋庭歌」の幕が下がるやいなや、
「よくわかんなかった~」とでかい声で一言。周囲が苦笑していた。お姉さんにとって「がらく」は退屈だっただろう。
 そこで思ったのだが、今回のプログラムは配置ミスだったような気がする。どちらかというと静謐な「秋庭歌」を先に演奏して、迫力のある「十牛図」を後にするべきだったのではないだろうか。

ゆけ、我が想いよ、黄金の翼に乗って2011/09/13 21:17

 イタリアを代表する作曲家,ヴェルディのオペラ作品「ナブッコ」は、古代バビロニアの王ネブカドネザル(=ナブッコ)の物語だが、オペラそのものよりも、第3幕の第2場で、囚われたヘブライ人たちが、祖国への想いを歌う、「ゆけ、我が想いよ、黄金の翼に乗って」が、圧倒的に有名だ。

 この曲は、イタリアの第二の国歌として愛されているし、むしろ正式な国歌よりもよほど有名だ。故郷の山河を思うのは、どの民族にも共通した感情だが、その思いを「ゆけ、我が想いよ、黄金の翼に乗って」と表現したのは、いかにも秀逸だ。
 イタリア、今の形での統一は意外と最近という、この南欧の歴史と伝統の国。美しい言語と、美味しい食べ物と、深い宗教心と、美術に溢れた国。音楽を磨き上げ、その偉大さを知らしめるに計り知れない功績を持つ人々。その思いは、まさに黄金の翼に乗って舞いあがる。

 ロックとコメディの国ばかり行っていた私が、そのイタリアに出かけることになった。友人の強いすすめによる。



 …などと言いつつ、実はドロボー対策で頭がいっぱいだ。誰も彼も、とにかくドロボーに気をつけろと言う。特に小柄な女性は狙われやすいとまで言われたのだが。ドロボーが勝つか、黄金の翼に乗った素晴らしきイタリアが勝つか。さて、いかに。

Come Stai / Vasco Rossi2011/09/20 22:27

 イタリアから無事帰国。
 ローマもフィレンツェも気温30度以上、強烈な日差しで真夏そのものだった。
 地域で一番良かったのは、正味四時間ほどしか滞在しなかったフィレンツェであり、スポットでは、フィレンツェのサン・マルコ美術館(サン・マルコ修道院。フラ・アンジェリコの宝庫)がダントツだった。ローマでは、午前中のフォロ・ロマーノおよびパラティーノの丘(古代遺跡),国立絵画館(バルベリーニ宮殿),あとは教会のサン・ジョヴァンニ・ラテラーノと、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ。これらの共通点は、観光客が少なくて静かだったということ。
 そう、ローマは特に、見たのは観光客の群れ(地元民は観光客相手の商売か、聖職者などしか見なかった)と、溢れる車ばかり。ちょっとうんざり。私もそのうんざりの構成物なのだが。

 海外旅行に行くと、夜は早く宿に帰ってテレビを見る。イタリアでは、バラエティ番組や、歌番組に人気があるらしく、かなり時間を使って派手にやっている。特に、土曜日の夜に三時間に渡って放映された、お子様(8~12歳程度)歌謡合戦が凄かった。イタリア人はみんな歌がうまそうだが(刑事コロンボが「イタリア系で音痴ってのはあたしだけ」と言っていた)、それにしてもお子様たちの凄まじい歌唱力に圧倒された。
 そして、MTVのようなミュージック・ビデオ・チャンネルが面白かった。ヒップホップ、ソウル系、テクノ、バラードあり、シンガーソングライター系、そしてロックポップス系など、色々と面白い。
 ロック系では特に良い曲もたくさんあったが、メモをしていなかったので、覚えていない。唯一覚えているのが、ヴァスコ・ロッシの "Come stai"。「よう、元気?」という意味。(「ご機嫌いかがですか?」は "Come sta?")



 このヴァスコ・ロッシというおじさんは1952年生まれ、1977年にデビューして以来、現役のポップ・ロック・シンガーソングライターとして有名らしい。なるほど、これだけのスタジアムがこれだけ一杯になって、盛り上がっているのだから、納得できる。
 誰かに似ているような気がするのだが…誰だろう。ビデオではほかにも、ウォールフラワーズっぽいバンドとか、ビリー・ジョエルっぽい人とか、フィル・コリンズもどきとか、はたまたイタリアの佐野元春か?浜省とか…?だんだん「誰に似ているかを言ってみる大会」になってきて、楽しかった。
 女性はとりあえず大人の女っぽさをアッピール。おじさんはおじさんのまま頑張っている。さすがに、歌手と名乗るのに問題があるような若い子のグループはなかった。

 私はもともとショッピング欲が少ないので、ブランド店はもちろん、買い物そのものをあまりしなかった。数少ないCDショップも覗いたが、意外にもTP&HBのアルバムも数点揃っており、なかなか優秀だった。
 テレビで音楽以外に面白かったのは、ドラマ。日本の2時間ドラマのような、[Don Matteo] が面白かった。「刑事コロンボ」や、「ジェシカおばさんの事件簿」も吹き替えで放映されており、人気らしい。

Punchdrunk / Rubyhorse2011/09/24 21:42

 REMが解散すると聞いて、少し驚いた。このバンドについては別に詳しくはないが、長いキャリアを誇る実力バンドなだけに、このタイミングでの解散は意外だ。ファンの方々にはショックなニュースだったのではないだろうか。

 一方、映画[George Harrison: Living in the Material World]の、日本での劇場公開が決定した。スクリーン上映に関しては楽観していなかったので、この意外なニュースは嬉しい。
 公開は英米よりも遅いが、11月19日から2週間、5大都市の複数スクリーンでの上映。さて、何回見るだろうか?何度でも見る。日本の映画公式サイトは、こちら
 ところで…この上映時期がどうにも気になる。エリック・クラプトンとスティーヴ・ウィンウッドの来日時期と完全に重なるのだが。これは…わざとではないだろうか。例によって、あのお二人「ご臨席」イベントがありそう。この二人の来日に関してはやや引き気味に見ているので…さぁ、どうかな。もしかしたらオリヴィア来日もあるかも?ダーニは…ダーニは?

 ジョージの良さを語れば切りがないが、彼のセッション・ワークの素晴らしさも見逃せない。特に私が好きなジョージのセッション・ワークは、アイルランド出身バンド,ルビーホース(幼稚園の同級生仲間だそうだ)の、"Punchdrunk"。



 とにかくこの曲の出来の良さは、いつも胸に迫る。今日などは、「坂の上の雲」の第五巻(旅順陥落)を読みながら聴いたため、目頭にジワジワ来る。
 歌詞もとても良い(アイリッシュの面目躍如?)。
 Inside here is an answer / I'm punchdrunk but I'm free
 Inside here is a spirit / Don't you see? Don't you see?


 ジョージの「セッション・ワーク」と書いたが、実際にジョージがルビーホースのスタジオセッションに参加したのではない。曲作りの過程において、バンドメンバーが「この曲には、ジョージ・ハリスンのギターが必要だ!」と思ったことがきっかけだそうだが、実際にフィーチャリングされるに至るには、二つの説がある。
 ひとつは、バンドがダメ元でいきなりジョージにテープを送りつけたところ、ジョージがギターソロを入れて送り返してくれたという説。
 もう一つは、バンドのマネージャーがジョージとコネがあり、その伝でギターソロを入れてもらったという説。
 後者の方が現実味がありそうだが、前者もジョージ・ハリスンらしい話だ。仰々しくはないけれど、優しくて素敵なことを、さりげなくやってのけるジョージ。やっぱり格好良い。

 この曲を収録したルビーホースのアルバム [Rise] は、他にも秀作揃いの名アルバムなので、おすすめ。

愉快な Free Fallin'2011/09/28 21:22

 英会話を習っているが、初めて会うアメリカ人講師に自己紹介をするときは、きまってトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズが好きだと言う。クイズにすることもある。

「私が好きなアメリカ人ロッカー、あててごらん。」
「ヒントちょうだい。」
「アメリカの超大物バンド。」
「ふむふむ」
「フロントマンが金髪。」
「Guns N' Roses!」
「ちがぁう!!」


 …と、言うのもよくある会話だ。

 [Playback] のライナーによると、トムさんのところにアクセル・ローズが電話してきて、"Free Fallin'" のあの吸血鬼の歌詞はどうやって思いついたのかと訊かれたとのこと。要するに、アクセルも "Free Fallin'" が大好きということらしい。
 その後どういう巡り合わせになったのか知らないが、1989年のMTV Video Music Award 授賞式で、TP&HBとアクセルが "Free Fallin'" で共演…したのだが…



 初めて見たときは大爆笑した。どこからどう突っ込むべきやら、いや、突っ込まない方が良いのやら。とにかく、ジェフ・リンが見て卒倒したんじゃないかと心配になる。
 なにが凄いって、あまりのキャラの違い。同じなのは金髪だけ。やっぱりトムさんはイン・ドア派のおとなしいアート男子なのだ。自分でも認めているとおり…。
 そもそも、何もトムさんが歌わなくても良いような気がする。ハウイのコーラスとか、異常に無駄じゃないだろうか。さらに言えば、なにもハートブレイカーズじゃなくても…。こころなしか、ハートブレイカーズが「固まっている」ような印象。そうかと思えば、マイクが魂が抜けるのを防ぐために変に動いているようにも見えるし。雪山で凍死するのを防ぐために動き続ける…みたいな。

 でも、要するにアクセルはこの曲が好きなのだろう。好きである以上、TP&HBとの共演は嬉しかっただろう。そして、いつもの自分と同じような(多分。私はGNRには詳しくない)パフォーマンスをしたところも、おそらくアクセルの良いところなのだろうな。