右腕の喪失2009/12/02 23:55

 1863年5月2日の夕刻、ストーンウォール・ジャクソン中将に率いられた南部連合の第二軍は、樹海の中、チャンセラーズビル付近で、大迂回の末の、奇襲攻撃に成功した。北軍は一気に崩れ、北東方面に退却した。

 ジャクソンは勢いがあるうちに、追い打ちをかけ、勝利を確固たるものにすることの重要性を知っていた(実際、南北ともに、何度も勝利を決定づけるチャンスを逸しては、戦争の長期化を招いていたのだ)。
 ジャクソンは自ら、夜襲のための偵察に出た。5月とはいえ、日没後の樹海の中である。ジャクソンの年若い親友であるジェブ・スチュアートは、友人が将軍らしく見えるようにと美しい軍服を進呈し、ジャクソンはそれを着用していたのだが、この状況では視覚的な役には立たなかった。
 偵察から戻ってきたジャクソンの一行を、ノースカロライナ騎兵連隊は見分けることができず、さらに戦闘のせいで気が昂ぶっていた彼らは、自軍の将であるジャクソンを、銃撃してしまったのである。

 ジャクソンは右腕に1発、左腕に2発被弾した。状況がやや混乱し、彼の護送と手当は速やかには行われなかった。ともあれジャクソンは担架で、チャンドラーという農夫の家に担ぎ込まれた。チャンドラーは自宅の提供を申し出たが、自分の怪我をあまり重大なものだとは思っていなかったジャクソンはそれを断わり、農場事務所に滞在した。
 従軍医師のハンター・マクガイアが執刀して、銃弾の摘出手術が行われ、スチュアートからのプレゼントは切り裂かれることになった。さらに、ジャクソンは左腕を切断されたのである。
 経過は一時安定したかにみえたが、間もなく感染症から肺炎を併発した。高熱によって意識が混濁し、そこから回復することなく、5月10日、トーマス・“ストーンウォール”・ジャクソンは絶命した。39歳だった。
 最後の言葉は、マクガイア医師が記録している。

 「川を渡って、木陰で休もう…」 

 ジャクソンの遺体は、リッチモンドに運ばれたのち、ヴァージニア州レキシントンに埋葬された。今日では、「ザ・ストーンウォール・ジャクソン・メモリアル・セメタリー」となっている墓地である。
 彼の切断された左腕は別に、従軍牧師の手によって最後の戦場となった樹海の中、エルウッドというところに埋葬された。

 南北戦争においては、戦闘における戦死者もさることながら、ジャクソンのように負傷後に経過が悪化して亡くなる確率が、非常に高かった。19世紀後半とはいえ、まだまだ衛生観念の足りない時期で、しかも野戦病院ともなると、感染症による死亡の危険が避けられなかったのである。
 ジェイムズ・テンチ(ベンモント・テンチの曾祖父の弟)の、ウェスト・ヴァージニア戦役における死も、負傷した後の経過の悪化によるものだろう。

 ジャクソンの死は、ロバート・E・リー個人にとっては親しい友人の死であり、南部連合軍を率いる将軍としては、もっとも優秀な現場指揮官の喪失だった。ジャクソンの死に対するリーのコメントが、それをよくあらわしている。
 「彼は左腕を失ったが、私は右腕を失った。」
 この「右腕の喪失」は、さらに2ヶ月後、痛い実感としてリーを襲うことになる。
 ジェブ・スチュアートは、ジャクソンの死を「国家の災厄」と表現した。

 ジャクソンの未亡人メアリー・アンナ・ジャクソンは、後年「南部連合国の未亡人」と呼ばれた。それほどに、ジャクソンは南部にとって伝説的な人物になっていたのである。

CSS ストーンウォール2009/12/04 23:57

 [ The Live Anthology] デラックス・ボックスが届かない。
 日本国内のCDショップや、通販サイトからの購入は、端から混乱するだろうと見ていたから別に良い。だから複数の入手経路を確保し、到着を待っているのだが、一番当てにしていた経路からさえも届かない。
 あまりジリジリしすぎて発狂しそうなので、気を紛らす必要がある。だから、もはや音楽とは何の関係もない記事を書く。

 南北戦争となると、圧倒的に陸戦の話題になるが、以前デイヴィッド・ファラガットのエピソードを紹介したように、一応海軍も活動していた。
 南部連合の海軍は圧倒的に設備不足であったため、これを補うために当時最新鋭の装備を持った軍艦を、フランスの造船会社に発注した。1863年起工。造船中の船名は「スフィンクス」。南軍はこれCSS Stonewall と命名した。CSSとは、Confederate States Shipの略。Stonewallは、言うまでもなくストーンウォール・ジャクソンから来ている。
 前項で述べたとおり、ジャクソンは1863年5月に亡くなったのだが、それからほぼ時を置かずして、すでに伝説的だった将軍の名を軍艦名としたのだ。
 しかし、南北戦争の情勢は変化しつつあった。ストーンウォール建造中の1863年半ばから、北軍が優位に戦況をすすめるようになり、フランスに対して、ストーンウォールの引き渡しについて差し止めを申し出るにいたった。そこでストーンウォールはいったんデンマークに売却され、それから南部連合国が改めて購入するという手はずになった。
 ストーンウォールは1864年進水。その威力は北軍に恐怖を与えるのに十分であったが、彼女がアメリカに到着するころには戦争そのものが終わり、結局「アメリカ合衆国」が所有することになった。(司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」には、「北軍の注文で建造された」とあるが、これは誤りだろう。)

 内戦が終わると、アメリカはストーンウォールを売りに出した。世界でも最新鋭の艦船である。誰が買うのかと思ったら、意外にもとんでもなく遠方からオファーが来た。日本である。徳川幕府が購入した。
 ちょうど、幕末の動乱期である。薩長よりも余程早く海軍に関しては近代的な装備しつつあった幕府だが、ストーンウォールがゆるゆると日本にやってきた1868年には、旧幕府軍と、新政府軍との内乱に突入していた。
 アメリカ人にしてみれば、数年前の自分たちを見る思いだったかもしれない。ともあれ、アメリカはストーンウォールの幕府への引き渡しを見合わせ、日本がどちらの政府に落ち着くかを見極めた。翌1869年、明治政府が新たな政府と認められ、晴れてストーンウォールは引き渡された。
 ここで彼女は改名するのだが、その名前が何やら凄い。甲鉄艦 ― 木造の船体に金属の鉄板を打ち付けたその重厚な構造に由来するのだろう。「ストーンウォール」を訳して「甲鉄艦」とされたかのような誤解もあるようだが、もちろん違う。

 明治政府は成立したものの、旧幕府軍の一部は北へと移動しながら抵抗を続けていた。その最後が、榎本武揚率いる箱館政権である。これは旧幕府の海軍が母体になっていたため、かなりの海軍装備を持っていたが、1869年には旗艦の「開陽」を海難で失っていた。一方、明治政府には最新鋭の甲鉄艦。箱館は戦力的にも圧倒的不利にあった。
 その甲鉄艦が、箱館政権討伐のために北上し、宮城県宮古湾に停泊した。
 そこで箱館側が発案したのが、大胆にも「奇襲で甲鉄艦を強奪してしまおう」という作戦である。自軍の船を相手に接舷させて兵士を送り込み、船ごと分捕ろうという、カリブの海賊ばりのとんでもない話なのだが、19世紀後半にもなって、これを本気でやった。1869年5月6日、宮古湾海戦である。
 箱館側も「開陽」ほどではないものの、そこそこの船「回天」などがあったが、どうもこの作戦はヤケクソにか思えない。ともあれ、フランス人顧問のアドバイスもあり、箱館政権の海軍奉行(大臣にあたる)荒井郁之助と、「回天」艦長・甲賀源吾は、この「甲鉄艦強奪作戦」を実行に移した。

 箱館側の兵士の多くは無論海軍だが、一部陸軍も参加しており、「回天」には、陸軍奉行の土方歳三が乗船、兵士としては陸軍所属の新選組や彰義隊などが加わった。
 作戦決行の朝、政府軍の艦船のほとんどは奇襲など想像だにしておらず、回天は簡単に甲鉄に接近した。しかし、回天は小回りが利かず、接舷どころか、ほぼ頭から突っ込んでしまった。このため回天から甲鉄へ一気に兵士がなだれ込むことができなかった。要するにマゴマゴしているうちに、甲鉄の方の戦闘態勢が整ってしまい、箱館側は一斉射撃を食らうことになった。
 さらに、宮古湾に停泊していた別の新政府軍艦の中では、薩摩の春日がいち早く応戦を開始。短時間で回天は作戦の失敗を悟ることになった。ちなみに、この時の春日には23歳の東郷平八郎(後の連合艦隊司令長官)が乗船していた。
 回天は甲鉄の奪取を諦め、宮古湾を離れ、箱館に戻った。実のところ、トンデモない作戦の割に、回天はよくやった方で、艦長・甲賀の姿は語り草になった。もっとも、彼は回天を箱館まで運ぶことができなかった。戦闘の最中、舵を取りながら複数の銃弾を受けて、死亡したのだ。帰路は海軍奉行の荒井自ら舵を取ったというのだから、その壮絶さが想像される。

 その後、甲鉄艦は箱館戦争に加わり、その終結を見ることになった。1871年には「東(あずま)艦」と名をあらためたが、その後は大きな戦跡を残すことなく1888年に除籍となった。

 南部連合軍の伝説的な将軍の名を与えられ、南北戦争を戦うはずだったストーンウォール。彼女は、はるか極東の島国の小さな湾で、よもやサムライの接舷奪取作戦にさらされようとは、思いもしなかっただろう。しかも、新選組なんてものまで乗り込んでくるのだから、いささかチャンバラ講談じみている。
 
 ところで、回天に乗船した土方歳三は、宮古湾海戦の戦闘の最中は、何をしていたのだろう。彼は陸軍奉行であって、まさか新選組の一員として加わったわけでもあるまい。
 小説、ドラマ的には抜刀して(甲鉄にはガドリング砲が装備されていたらしいのだが…)乗り込みそうだが、事実やいかに。
 しかるべき所で調べれば分かるのだろうが、今はやっぱりTP&HBで頭がいっぱいなので、調べないでいる。

LA-Deluxeがやってきた ヤァ!ヤァ!ヤァ!2009/12/09 00:35

 TP&HBの [The Live Anthology] Deluxe が、やっと到着した。

 そもそも、私は三つの入手経路を確保していた。

 もっとも当てになり、11月28日ごろには入手見込だった、北米ルート
 バックアップとして確実な、太平洋ルート
 混乱必至でかなり待つであろう、南米ルート

 いったい何が起こったのか、北米ルートが未だ届かず、太平洋ルートが先に到着したというわけ。
 今日までどれほどの物狂いで過ごしたことか。毎日帰宅しては未着のために「トムさんのバカ!」と八つ当たり。気を落ちつけるために「カントム」の翻訳をしようとしても、トムさんがノロケているため、更に「トムさんのバカ!トムさんのバカ!トムさんのバカバカ!」…。

 ともあれ、私はLA-Dを入手した。憑きものが落ちたような気分。ジョン・レノンの呪いなんて怖くない。

 今日は帰宅が遅かったため、詳細は明日以降にするが…そうだ、DVDはめでたくリージョン・フリーだったのでご安心を(NTSCなんだけど、UKとか大丈夫なのか?)。
 映像はね…映像はね…ぐふふふふふ…若マイクがなんか悩ましい感じのセクシー大魔王で、トムさんがモノにされるんじゃないかとヒヤヒヤした。
 ちょっと表現がおかしいが、疲労困憊のため修正能力無し。

LAD解体2009/12/11 23:55

 最初に到着した [The Live Anthology] デラックスボックスは、当初バックアップだった太平洋ルートだが、ようやく本命の北米ルートも到着した。
 北米ルートは、まさにアメリカ東海岸から発送され、普通なら5日くらいで到着するのだが、今回はなんと11日もかかって届いた。パッケージの外側には、オリジナルの送り状のほかに、ドイツの郵便マーク(ホルンのマーク。おそらく、昔郵便馬車が使っていたホルンだろう)がついている。発送者は間違いなく "JAPAN" と表示したのに、何を思ったかドイツ行きの飛行機に乗せられたらしい。大西洋を渡り、さらにユーラシア大陸を飛び越えてきたのだから、トムさんたちもご苦労なことだ。
 一方、三つ目のルートは南米ルート。この南米というのは、アマゾンのことで、要するにAmazon.jp への、もっとも普通の方法で注文のこと。ところが今日になって、私が大きな勘違いをしていたことに気付いた。手配私がLA-Dを注文していた日本のショッピングサイトはアマゾンではなく、HMVだった。南米じゃないよ、オックスフォード・ストリートだよ。
 そのHMVも今日発送したとのこと。これでLA-D入手に関する混乱も、収束するのだろうか。

 TP&HBほどのビッグなアーチストの作品のこと、もっとすんなりと行かないものだろうかと思う一方、入手するために色々と手を尽くし、連絡を取り、仲間の首尾を確認しつつ、毎日待ち焦がれるという、この煩わしさが、奇妙に心地良いということも事実だ。 無論、販売担当部署がこんなマゾっぽい極東の変なファン一名のことを、頭に入れているはずが無いのだが。
 Best Buyという流通形態に関しては、賛否が分かれるのだろう。ただ、安く上がるのだということは察しがつく。このことは、[Runnin' Down A Dream] の時に、特に強く感じた。アメリカとメキシコ以外にはメリット皆無どころか、入手不能の事態を招くとは言え、メイン市場であるアメリカにおいて、流通コストを最低限に抑え、価格を下げる努力が求められる販売側としては、悪くない選択肢なのだろう。
 ただし、安かろう悪かろうは回避できないらしい。私が手配した北米ルートでは、店頭でLA-Dを買おうとしても「そんな物はありません」だったり、やっと商品を取り出してきても、セール価格99.99ドルを提示されなかったりで、けっこう際どい状況だったらしい。
 そういう事に敏感な販売スタッフが居るかどうかは知らないが、ハートブレイカーズの面々にどうこう出来る話でもないだろう。せいぜいプチマゾ気を発揮して、困難をも楽しむことにする。

 肝心のボックスの中身について。
 やはり、Disc-5 は不可欠だと思った。アルバム [echo] や、[The last DJ] の曲が無いのは、寂しすぎるので。全体的には、初期からハウイが在籍していたころまでの演奏が印象深い。21世紀に入ってからの演奏は、実際に見たり、オフィシャルソフトも多いので、耳が慣れているせいだろうか。
 CDに関しては、また追々コメントするだろう。とにかく最高の一言に尽きる。

 DVDに関しては、だんぜん1978年が良い。若くてはじけ飛んでしまっているようなTP&HB、最高。カメラが多くはないので、ベンモントやロンがあまりよく見えないのは残念だが、トムさんとマイクで、もうおなかいっぱい。それにしても…スタンのあのシャツは一体…スタンとマイクの開襟合戦。何を競っているんだ?
 一方、400Days。ソースはもの凄く良い。大好き。特に異常に早い"American Girl"なんて、血が沸騰するがごとき狂乱。呆然としてしまった。ところが、私はこの監督Martyn Atkins が大の苦手…いや…嫌いなのだ。
 画面をバラバラに切り刻んでベタベタと貼り付け、画面が一時たりとも落ち着かない。しかも演奏そのものまで切断しまくる。どうもこれがアトキンズの芸術らしいのだが、私の価値観とは全く相いれず、苦痛ですらある。そんな訳で、同じくアトキンズが監督したフィルモアや、the last DJのライブ映像も、あまり見ないのだ。
 それを思うと、RDADの映画は、よく出来ていると改めて思った(いや、もともと大好きなのだが)。監督ピーター・ボグダノビッチ。「あんな変態の前にトムさんを長時間座らせるなんて!」と、鼻息荒く憤慨したものだが、やはりアトキンズのバラバラ変死体のような作品を思えば、素晴らしい仕事をしてくれた。

 BluRayは機械を持っていないので、いつの日かの鑑賞になる。
 困っているのは、アナログのオフィシャルブート。再生出来ない…。困ったな。どうしよう。一応、世の中にはアナログを mp3 にする機械があるらしいが、いったいどうアクセスすれば良いやら(「買えば」と言われても困る。私にはアナログを持つという思想が無い)。いっそのこと、ハートブレイカーズロゴ型のUSBメモリーで出してくれれば、大喜びで買うのだが。

 オマケもある。フィルモアのポスターは…しばらく、それがフィルモアのポスターであることに気付かなかった。まぁ、いいや。ポイ。
 バックステージ・パスのステッカー。うふふ、可愛いけど使えないじゃん。私が好きなのは、ハートブレイカーズのツアー・バス・デザインのやつ。
 メモ帳。…これまでの生涯で見た中で、最もどうしょうもないメモ帳。現物を見るまでは「もったいなくて使えない!」と思っていたが、現物を見ると、「ショボ過ぎて使えない」。よくもまぁ、こんな凄まじい物を作れるなと、変に関心してしまった。
 どうも私は、この手のグッズに対する関心が薄い。良品でも粗悪品でもあまり気にしないし、特に欲しいとも思っていないらしい。「物欲が無い」と言われたことがあるがそうではなく、音楽に関しては徹底的に音楽本位主義なのだ。結局、このせいでオマケがまずかろうが、販売方法に問題があろうが、あまり気にしない性質になっている。

 最後に、ブックレット。これはさすがに立派なボリュームがあるので、気合を入れて読まねば。そして筆者は、例のウォーレン・ナントカこと、Warren Zanes。そろそろ、彼の著作も読んでみようかと、思い始めている。

ピアノ名曲名盤10532009/12/14 22:40

 クラシック音楽のCDを購入する時、どの盤を買えば良いか迷うことはないだろうか。

 基本的にクラシックに興味がないくせに、必要に迫られて(自分で弾くにあたり、参考になる手本が欲しい)ピアノのCDを買わねばならない私は、毎回困っている。
 無論、買うべき曲目は決まっているが…誰が、いつ演奏したどの盤が良いのか?特にお気に入りのピアニストの盤があればそれで良いが、なかなかそうも行かない。録音が古すぎると音質に難があるし。一緒に収録されている曲にもお得感があった方が良い。でも結局、わからなくてジャケ買いだったり、ひどい時になると一番安価なものを買ったりする。
 そうこうしながらCDショップのクラシックコーナーで、蟻が這うがごとき微細なタイトル文字を見つめていると、頭が痛くなる(渋谷のHMV クラシック・コーナーの棚の脇には、虫眼鏡がぶら下がっている)。

 そんな私にちょうど良いムック本を発見した。音楽之友社から出ている、「ピアノ名曲名盤1053」である。バロックから現代までのメジャーな(いや、かなりマニアな曲も含む)ピアノ楽曲の、お勧めCDを紹介した本である。  選者は、日本人の音楽学者や評論家だろう。彼らの趣味でCDが選択されているのだが、突拍子もないチョイスは避けて(もし、少しクセがある場合は、その旨を断わってある)、いわゆる「定番」「鉄板」、そして安心できる名盤をずらっとそろえてくれている。
 これがあれば、私も選択に迷った時に参考にできるだろう。クラシックにそれなりのこだわりのある人には許容できない面もあるだろうが、そもそも私程度の「楽して名盤をゲット」を狙う人向けの本だと思われる。
 惜しむらくは、ピアニスト索引がないこと。作曲者だけじゃなくて、演奏家でも探したいのだが。



現代的な選択?
 全体的には、あまりにも古典過ぎる録音は、選ばれていない。たとえばルビンシュタインや、ホロビッツ、などは皆無ではないものの、名声のわりに少ない。それから、個性的過ぎるという意味なのか、ミケランジェリがほとんど見られなかった。

ベートーヴェンの定番
 「定番とは何か?」を考える上で、ベートーヴェンのチョイスが面白かった。ポリーニ、ブレンデル、リヒテルのオンパレード!時々グルダ、バックハウス、アルゲリッチ…。やっぱりポリーニ、ブレンデル、リヒテルは鉄板なんだな…。
 一方、モーツァルトの場合はラローチャや、へブラーなど、女性率が少し上がるのが興味深い。

日本が誇る大ピアニスト
 ズバリ、内田光子。彼女のCDがかなり多く選ばれている。無論、日本人としての身贔屓も皆無ではないのだろうが、やはり彼女こそ、ポリーニやアルゲリッチのような、現役,一流のピアニストとして目される、ほぼ唯一の日本人ピアニストだろう。これはさすがに納得。

ゴルドベルグはグールドで決まりだが…
 彼がどんなに異端であろうと、変態であろうと、バッハの「ゴルドベルグ組曲」だけは、絶対にグレン・グールド。これも異論はなかろう。しかし、グールドの初期録音か、晩年録音かで意見は分かれる。この本では、晩年版を選んでいる。
 私は絶対に初期だけどな…。私は若さのみが持ち得る、一種の狂気みたいなものに惹かれる。

 私自身のピアノの発表会曲は、シューマンのピアノソナタ2番,g-moll (第一楽章のみ!)。この曲は、マルタ・アルゲリッチが選択されていた。YouTubeで彼女の演奏を探してみると…

→ YouTubeでアルゲリッチ / g-moll mov.1

 むりーッ!!!金輪際ムリッ!!!!なんぢゃぁこの速さは!まるでTP&HB 1994年の "American Girl" だ!(←不適切な比喩)
 まったく、世の中には恐ろしい人間が居たものである(いや、人間じゃないかも)。

Change of Heart2009/12/17 23:23

 Cool Dry Placeに、カントムをアップした。
 今回の箇所は、時代的にはほぼ [Echo] のころの話なのだが、冒頭に先ずトムの再婚相手の話が出てくる。しかも、その話が長い。要するにノロケ話が長い。

 …バカー!バカー!トムさんのバカー!

 女子ファンなので、こればっかりは仕方がない。男子ファンとしては、どうなのだろう?インタビュアーのポール・ゾロはこの話題を引き延ばすし。(バカー!バカー!ポールのバカー!)結局、この章の半分以上がトムさんのノロケ話になってしまい、翻訳しながら発狂寸前にまで追い込まれた。そんなわけで、推敲はかなりいい加減。
 やっとゾロが「Echoの話に戻りましょう」と言うので(もっとも、端から [Echo] の話になっていないのだが)、やっと安心したかと思ったら、また再婚の相手の話に!キィーッ!!
 やがてマイクの話になってくれて、本当に良かった。あれ以上続いていたら、ポメラを粉砕しているところだ。
 スコット・サーストンについてのコメントが面白い。器用で、どんな楽器でもできるという意味だと思うが、「スイス・アーミー・ナイフ」とは…十徳ナイフか!それで良いのかトムさん?!(マイクに関しては「同一人格」とまで言ってるのに)。そのあとの、「大好き、愛してる!」発言がなきゃ、大問題だったぞ。

 ともあれ、私の好きなアルバムの箇所で、半分以上ノロケられて、すっかり白けてしまったので、自分を勇気づけるために、お気に入りの映像を見ることにする。
 1983年のSLN にて、"Change of Heart" のライブシーン。これは、まだ私が日本でTP&HBファンは自分一人しかいないと思っていた頃に、NHKで放映され、録画していたもの。みんな格好良くて楽しそうで、とてもお気に入り。


 トムさん、エルヴィス・Tシャツに、革ジャンで決めている。ハウイが、ぴょこぴょこリズムを取る姿が可愛い。


おじさーん、かき氷ちょうだい!イチゴ味!


 「マイク=パジャマ」という図式が、最初に私の頭に浮かんだきっかけ。たぶん、おしゃれなシャツなんだろうけど…何がいけないんだろう。襟がないから?色かな?マイクが青二才風過ぎるのだろうか。


 演奏が終わってみると、みんなニコニコしていて、雰囲気が良い。このあと、珍しくトムさんとマイクがハグしていたのが、印象的だった。…これ以降は、あまり見ていないような気もするけど。

真白き富士の嶺2009/12/20 00:00

 母や伯母の記憶によると、私の祖父は「真白き富士の嶺」という曲が好きで、よく歌っていたと言う。

 1910(明治43)年1月23日、神奈川県,逗子開成中学の生徒12人が、ボートの転覆事故で亡くなった。来年は、この事故からちょうど100年目にあたる。
 「真白き富士の嶺」は、「帰らぬ十二の雄々しきみたまに」とか、「ボートは沈みぬ 千尋の海原」などという歌詞でも分かるとおり、この事故で犠牲になった生徒たちへの鎮魂歌で、曲はアメリカかイギリスの歌謡を拝借しているらしい。
 「真白き富士の嶺」は大正年間にレコード化で広く知られるようになり、さらに昭和初期には映画が作られたため、人気歌謡となった。祖父がこの曲を知っていたのは、このような事情によるらしい。



 祖父は、1歳の時に父親 ― 私の曽祖父,山川有典(ありつね。「ゆうてんさん」とも呼ばれる)―を亡くした。明治期の海軍士官だった有典の早い死については、まず松島という軍艦の説明から始めなければならない。

 幕末の動乱期を経て成立した明治政府は、日本の近代化を進める中で、海軍軍備の充実を急務の一つと位置付けていた。そんな中、1890年進水となったのが、松島・橋立・厳島のいわゆる「三景艦」である。排水量4217トン、最大速力16ノットという巡洋艦だが、その砲は不釣合いなほど大掛かりだったらしい。
 松島は、1894年の日清戦争において伊東祐亨が乗船し、初代連合艦隊旗艦を務めた。黄海海戦(9月17日)では華々しく活躍 ― と言いたいところだが、日本連合艦隊は勝ちこそしたものの、状況はかなりの大混乱で、旗艦松島は前方左舷への砲弾直撃のため大穴を空けて、呉港に戻ってきている。
 日露戦争のころには、早くも松島型は旧式になっていた。1905年5月27日の日本海海戦では、第三艦隊に所属し、ロシア・バルチック艦隊を日本連合艦隊の主力の方へ誘導する役割を担った。司馬遼太郎曰く「老いぼれの送り狼」。

 日露戦争終戦後、松島は姉妹艦の橋立,厳島などと共に一線から退き、練習艦などの役割を得た。
 1908(明治41)年、松島は海軍兵学校第35期卒業の少尉候補生を含めた乗員370名で、香港,シンガポール,マニラ方面への遠洋航海に出た。4月27日、台湾澎湖諸島・馬公に寄港。そして4月30日の午前4時8分、彼女は突如、大爆発を起こして沈没した。
 僚艦から救助が向かったものの、結局乗員370名中、207名(内35名少尉候補生)が死亡した。当時、海軍少佐として松島に乗船していた曽祖父・山川有典は、この死者207名の一人だった。遺体はあがらなかったらしい。
 松島爆沈は火薬庫での爆発が原因となっているが、そもそもなぜ爆発したのかはよく分かっていない。旧日本海軍の軍艦では、このような謎の爆沈事故が数件発生しており、これらについては、吉村昭著の「陸奥爆沈」に詳しい。

 馬公では遺体の収容と共に、船体の一部引き揚げも行われた。松島に使われていた木材で作った花台が、祖父の家にもあったらしい。他にも砲身やスクリュー、ボートなどが引き揚げられた。砲身はその後、松島の慰霊碑になっている。
 一方、ボートは逗子開成中学へ無償で払い下げられた。1910年、12名の生徒が死んだボート事故は、この松島から引き揚げられたボートで起こった。

 「真白き富士の嶺」を愛唱していた祖父は、歌われている中学生たちを真冬の海へと引き込んだボートが、自分の父親とともに馬公の海に眠る松島のものだった事を、知っていたのだろうか。今となっては分からない。

ディランが町にやってくる2009/12/23 22:24

 いよいよ来年春、ディラン様が9年ぶりに来日公演を行う。なんと、めでたいことか。
 今回は、すべてライブハウスとのこと。私はチケット取りに関しては並みの素人よりも要領が悪く、さらに極端な短躯ときている。今から、ジャンプと、遠望訓練のためにアフリカに渡るべきだろうか。
 時期的には、日本で言う「期末」という3月。多くの社会人にとっては、最悪のタイミングではないだろうか。幸い私の職場は今月が本締めなのだが、取引先動向によってはかなりの障害になる。

 前回の来日は2001年で、ジョージがまだ生きていた。その後、あまりにも長期にわたって来日しないため、何度か噂だけが流れた。
 2年前くらいにも、ファンの間では「いよいよ来日する!どうやら、某日がチケット発売日だ!」という情報が流れ、掲示板には「その日、自分は出張なんだ!代わりに取ってくれ!」とか、「任せろ、ばっちり確保しておく!」…などという書き込みが現れた。結局、泰山鳴動してネズミ一匹でず。
 でも、今回は本当。楽しみ、楽しみ!…ディラン様、ついでにマとか、ベのつく人を連れてきても構いませんよ。トのつく人が許さないか?いいじゃん、奥さんと楽しくしてれば?(←ノロケを根に持っている)

 ディラン様来日決定記念。笑えるディラン様特集!



 変な替え歌に乗って、プリティでファニーなディラン様の大特集!とりわけ、「ボブ!ボブ!あんたにそのコは、ちょっと若過ぎだよ…!」のところがおかしい。舞台上の部外者がどんどん増殖しているじゃないか。
 変な踊り特集の中には、背後で笑いまくっているマイク先生発見。サングラスにパーカー被りは、たぶんトムさんと一緒のインタビュー映像だろう。

 私が彼のファンになって間もなく目にした笑えるディラン様は、ジョン・ハモンド(プロデューサー。父の方)と一緒だった。ハモンドの業績を紹介するドキュメンタリー映像が大学図書館にあったのだが、インタビューに答えるハモンドの隣に、南極越冬隊のようなすさまじい防寒装備のディラン様が仏頂面で座っており、始終鼻をグスグス言わせていた。なんだ、ありゃ?
 あの映像、ネットで探しても見つからない。DVDになっていたら欲しいな。

眩しいリンクと、暗澹たる話2009/12/27 23:38

 リンクに、いつも素敵なコメントを下さる、Scottieさんのブログ、トムさんに恋してを追加しました。
 タイトルでも分かる通り、TP&HBへの愛にあふれた、眩しい記事のオンパレード。拝見していてうれしくなってしまいます。これからもよろしくお願いします。

 年末である。友達と会う機会も多いし、見たいテレビ番組も多い。小さいが、様々な音楽に関する話題がチョロチョロと徘徊している。

 フィギュアスケートで気になる音楽。一番趣味が悪いと思うのは、安藤美姫のショート,「レクイエム」(モーツァルト)。あそこまで変な編曲をすると、さすがのモーツァルトも形無しである。
 アイリッシュ・ダンス・ショー,「リバーダンス」を使っている人が複数。日本人の趣味に合う音楽だと思われる。
 小塚崇彦はショート、フリーともにエレキ・ギターの曲。ショートは、ジミ・ヘンドリックス。長さはともかく、音はオリジナルを使っている。フリーは、「布袋の」と紹介されるギター・コンチェルトだが、実はこの曲、マイケル・ケイマンの曲なのだ。ケイマンと言えば、CFGでのストリングス・コンダクターだし、トムさんも [Wildflowers] で非常にお世話になった、名作曲家,アレンジャー,プロデューサーである(合掌)。
 たしか、フランスの選手に、ストーンズ・メドレーを使っている選手が居たような気がする。面白いプログラムだったので、オリンピックでも見てみたい。
 五輪選手ではないが、日本の男子で、フリーの曲が「ゲティスバーグ」の人が居た。おそらく、映画のサントラだろう。衣装も肋骨服っぽい。色はシルバーなので…南軍なのかな?。

 新宿タカシマヤタイムズスクェアの、HMVが来年1月6日をもって閉店する。閉店前に一度行ってみた。
 小規模のHMVに行くと、ほとんど私が買うようなものは無いに等しい。その点、新宿はまだ使える大規模ショップだったし、アクセス,買い物などの面などでも便利だったので、閉店は残念だ。
 昨日行ってみると、そこは空襲に遭った町の焼け野原のようだった。商品は売れるに任せて、棚に黒い空白が多数みられる。ブラインド・ボーイ・フラーのCDが欲しかったのだが、ブルースの棚はほぼ空だった。ジョージのところにもベストが1枚ある切り。
 ザ・バーズのところには、1973年の再結成アルバム [Byrds] がポツンと残っていたので、私が引き取ることにした。



 このアルバム、厳密にはザ・バーズというバンドのアルバムではなく、G.クラーク,ヒルマン,クロスビー,マッグイン,M.クラークによる、[Byrds] というタイトルのアルバムだそうだ。まだ聞き込んでいないが、1曲目だけでもコーラスワークの美しさにうれしくなってしまう。

 先週のピアノの発表会。いつも、本番は練習の70%が出れば良いと思っているのだが、今回は40%程度の悲惨な結果だった。本番に弱いにもほどがある。ピアノは練習がほぼ全てだとは言え、いい加減この勝負弱さをどうにかせねば。

 ピアノを習うことについて、暗澹たる気持ちになる話を聞いた。
 とある、男子高校生の話である。彼は、小学生まで私の知人にピアノを習っていた。中学3年間は休み、高校生になってレッスンを再開することにした。そこで、彼は某大手音楽教室の門を叩いた。この音楽教室でついた先生は、発表会向けとして、彼にショパンのエチュード3曲を課した。
 まず、これが仰天すべきことだった。この高校生のレベルはせいぜい小学校卒業程度であり、バッハの複旋律や、ソナタの類、ましてやショパンの初歩であるワルツさえ弾いたことがない。一方、課されたショパンのエチュードと言えば、音大生レベルの曲だ。しかも3曲というのは、やや狂気じみている。
 無理だと判断した高校生は、かつて師事していた私の知人に助けを求め、そのレッスンで補うことにした。そこで、知人は高校生が音楽教室に払っているレッスン料を聞いて、また驚いた。1回30分のレッスンが月に3回、月謝が16000円と言うのだ。まず、高い。1時間換算にすると、10000円強。これは音楽大学受験の面倒を見てくれる偉い先生なら相場だ。しかし、その場合は課題が重いので、絶対に30分では無理で、普通1時間かける。
 私はこの話を聞いて、何かの間違いじゃないかと思った。しかし、理由はすぐにわかった。この音楽教室のシステムだと、生徒が弾く曲のレベルが上がると、レッスン料も上がるのだと言う。つまり、音楽教室としては難しいレベル設定の曲をやらせて、高額の報酬を得たいがために、彼の実力に不相応な曲をむりやり弾かせているのだ。
 私はこの話を、音大仲間にもしたのだが、全員が憤慨の大合唱だった。
 そもそも、曲のレベルによってレッスン料が違うというところが気に入らない。生徒が4歳の初心者だろうが、18歳の音大ピアノ科受験生だろうが、教師は同レベルの技術と情熱を傾けて指導するべきであり、その内容のレッスン・クォリティに差などあってはならない。実際、私は7歳から18歳まで同じ先生についていたのだが、指一本の下し方から教わり直した7歳の時と、大学受験のために泣きながらベートーヴェンのソナタを弾いていた18歳の時で、師のレッスンには何の差もなく、同じレッスン料を払って当然だった。
 実力が伴っていないのに、高い料金を取りたいがために無理やりショパンをやらせるなどという詐欺じみたことを、大手の音楽教室がやっていることに、私は絶望してしまった。おそらく、その無茶な曲を課した先生も(某一流音大ピアノ科出身だそうだ)、間違っていると分かっているが、音楽教室組織からの圧力があるのだろう。

 こんな事が、長くまかり通るはずがない。某音楽教室は、いずれその報いを受けるだろう。大手でもあるので、早く過ちに気付いて、高い志を取り戻してほしい。

オードリー2009/12/31 21:23

 私はどうやら、オードリーが好きらしい。
 基本的にブリティッシュ・コメディ好きなので、日本のお笑い芸人に入れ込むことはないのだが、去年2008年M1でのオードリーのネタ1本目「引っ越し」にノックアウトされてしまった。
 そうは言ってもいわゆるバラエティ,お笑い番組でオードリーだけ見るのは困難で、結局時間がもったいないので、好きと言う割に全然見ていない。休みだしということで、U様で見ているうちに、バカバカしすぎて頭からウエストポイントが吹っ飛んでしまった。

引っ越し(M1の時の方が面白かったけど、アドリブがなかなか良い)
親孝行
万引き
嫁募集

オードリーになってみよう! (無論、一方はピンクのベスト着用)

その1
「どうも~、オードリーです。今日も元気にハリスンと、クラプトンで漫才しようと思いますが…」
「みなさん、ご安心ください。今日のクラプトンはラリってませんよ」
「信用できねぇなぁ、おめぇよ…。いやぁ、ぼくらいつも忙しくしていて、なかなか休みも取れないのですが…」
「超暇だろっ!」
「暇じゃねぇよ、ビートルズなんだから!」
「クラプトンは暇だぞ。」
「お前がバンドをぶち壊しにするからじゃねぇか。でまぁ、たまの休みなんかには、カミさんを連れて旅行でも行きたいんですよね」
「俺も一緒に行きたいぞ!」
「なんでだよ!」
「お前のカミさんが、超おれのタイプだからだよッ!」
「笑えねぇな!」

その2
「どうも~、オードリーです。今日も健やかに、ハリスンとリンで漫才していきたいと思い…」
「みなさん、お待たせしました。本物の大林宣彦ですよ」
「ちげーよ、失礼だろ。大監督によぉ。それで、ぼくらちょっと遊びで友達バンドでも作ろうかと思いましてね。みなさんも、たくさん友達がいると思いますが…」
「どうみても居ないだろ!
「そんなことないでしょ、謝りなさい。」
「ごめんね。」
「謝ったので許してやってくださいね。」
「でも、お前だけは村八…!」
「指差すんじゃねーよ、聞こえたぞ村八分って!お前のバンドこそロックの殿堂から村八じゃねぇか。でも、やっぱりどうせバンドを組むなら、良いメンバーを揃えたいじゃないですか。お前、なんかバンドメンバーに希望ある?」
「ギターのチューニングができる奴だよ!」
「基本的過ぎるだろ、お前ジョン・レノンか!」
「おい、俺ってジョン・レノンだったのか」
「ちげーよ、ジェフ・リンだろうが!お前みたいなスタジオ引きこもりオタクといっしょにすんなよ」
「フィル・スペクターも同じだろ!」
「もっとヤベェじゃねーか!」
「ごめんなさい、殺さないでください!」
「なんだよ、俺がお屋敷の奥で酷い目にあわせるみたじゃねーか」
「あれだけは勘弁してください、アフロヘアーだけは…!」
「自分でしてんじゃねーか、いまどきお前だけだぞ、アフロヘアーに執着してんのは!ええ、それで友達をバンドに誘っているんですけどね…」
「おい昔、村八分ってバンドがあったよな」
「ここで蒸し返すな!ネタがすすまねぇじゃねーか!」

その3
「どうも~、オードリーです。今日も張り切って、ぺティとディランで漫才しようと…」
「みなさん、今日のディランは、シャワーを12回浴びてますよ」
「ええ、言ってる意味がよくわからないんですけどね。ぼくも久しぶりにツアーでもしようとおもうんですけどね…」
「この万年ツアー中毒野郎!」
「おめぇだろ!年がら年中、渡り鳥みたいに…」
「ははは、まったくだな、鳥みたいだな、はははは…」
「なぁ、寅さんか、ってんだよな…」
「………」
「寅さん、受けなかったみたいですね。なんででしょうね。でも、ツアーしてると疲れちゃって、声がつぶれちゃうんですよね」
「このダミ声野郎!」
「おめーだよ、ダミ声は!おめーだろうが!だからツアー中は部屋の湿度とか気をつけるんですよ。おまえ、ホテルの部屋に何か備え付けてもらったりする?」
「うーるせぇ。」
「あ、だめだこいつ会話できねぇ。ぼくはね、あとマッサージとか呼んで…」
「ジョージを呼んでもらうんだよ!」
「なんでだよ!ジョージも迷惑だろうが!」
「いろいろ慰めてもらうんだよ!」
「生々しいな!そんなことしてねぇで、さっさと寝た方が…」
「おい、さっきの寅さんだが、お前寅年だよな…」
「ここで思い出すな!どうでも良いよ、おれの干支なんか!」

その4
「どうも~、オードリーです。今日も朗らかに、キャンベルとぺティで漫才しようと思いますがね…」
「みなさん、どんなに羨んでもぺティみたいなゴージャス金髪にはなれませんよ」
「いきなり自慢でブチ切れそうなんですけどね。最近、携帯のカメラなんかで、隠し撮りとか問題になってますよね…」
「みなさん、こいつはボ・ディドリーを盗撮してたんですよ!」
「ファンだから撮らせてもらっただけじゃねーか、そんなヤラシぃ言い方すんな!」
「俺は人の脚線美を写すのが好きだぞ」
「シャレにならねーな、捕まるぞおめぇよ!」
「俺は、お前の脚はきれいだと思うぞ」
「気持ちわりーな!いつ見たんだよ!」
「初めて会った時だよ!」
「貧乏時代の話持ち出すな、馬鹿!グラビアカメラマンにでもなっちまえ!」
「おい、お前それ本気で言ってんのか?!」
「本気だったら、お前と30年以上も一緒にバンドやらねぇよ」
「でへへへへへへ…バァイ!」

 ま、大晦日だから良いじゃないですか。無礼講ってことで。けっこう楽しかった。ウエストポイントは改めて思い出すことにする。良いお年を。バァイ。