かえらざる感性2009/07/02 23:45

 昨日7月1日付けで、またも Cool Dry Place に「カントム」の一部をアップした。トムさん、どんだけマイク(と、ついでにベンモント)をベタベタに誉めれば気が済むんだ。ちゃんと、当人にも直接言った?(親心)

 ちょっと迷ったのは、"God bless him" の訳語。ディランの自伝に登場する、ベンモントがディランにライブでやる曲をあれこれ提案するシーンについて、トムさんが "God bless him" と付け加えるのだが、この場合の him は、ディラン様だろう。
 直訳すれば、「神のご加護が彼にありますように」なのだが・・・さすがにしっくりこない。最初は最大限に砕いて「いやはや」としたのだが、その時のベンモントとディランの様子を思い浮かべて、トムさんが思い出し笑いをしているのだとすれば、「ボブも大変だよね。ご苦労様」に近い。
 結局、「お気の毒に」にした。

 アヤシゲ翻訳は、直訳寄りにするか、大胆に意訳して雰囲気を取るかで、迷うことが多い。趣味でやっているので、最近は後者に傾きつつある。

 「カントム」でもトムさんが、「ベストアルバムにはあまり意義を感じなかった」と、言っていた。映画 [Runnin' down a dream] でも、「グレイテスト・ヒッツの制作には、あまり気持ちが乗らなかった」とコメントしている。
 確かに、アーチスト本人 ― 特にTP&HBのようなタイプの ― や、全アルバムを揃えている熱心なファンにとっては、ベスト・アルバムはどうでも良い存在に近いだろう。

 では、ベスト版とはレコード会社の金儲けのためだけの意義しか無いのか?
 もっとも、私は20世紀におけるポピュラー音楽の爆発的な発展と伝播には、「金儲け=経済」が不可欠だったと思っている。従って、それをさほど憎悪していない。憎悪したとしても、それを声高に喚くより他に、やるべき事があるだろう。

 ・・・話が脇道に逸れた。
 私は、金儲けのためだけではない、そしてアーチスト本人や、熱心なファンたちには、もはやその恩恵に預かることの出来ない価値が、ベスト版にはあると思っている。

 私のお気に入りの、そして思い出深いベスト版とは何か。
 数作品あるが、やはりジョージの [Best of Dark Horse] と、TP&HBの[Greatest Hits] が突出している。いずれも学生時代に入手した。
 たしか、前者は国立劇場に併設されている国立演芸場での三味線会で、受付アルバイトをした帰りにその報酬で購入した。後者は、誕生日プレゼントとして、友人にリクエストした。
 とにかく聴き倒した。貧乏ではないが、おいそれとはCDを買うこともできない、学生だったこともある。来る日も、来る日も聴き続けた。
 触りすぎてケースは傷だらけ、日本語解説は手垢で一部変色し、ヨレヨレになっている。カラーのスリーブも端が白い。
 カセットテープに落として聴き倒し、スリーブを持ち歩き、いつもジョージやTP&HBの事ばかり語っていた。ベスト版しか持っていないのに、何をそれほど語ることが出来るのか不思議だが、当時の私には十分だった。雅楽の授業中さえ、笛譜の隣にジョージやTP&HB。演奏の間もそのことばかり。
   全ての曲がキラキラしていて、骨髄を直接振動させるような凄まじい感動が詰まっていた。どの曲を聴いても、素敵だ、好きだという感情しかわかない。



 ベスト版を聴いて得た、あの特別な感情と愛着は、その時にしか備わっていない「うぶな」感性によるものだ。
 きっと、ジョージやTP&HBのアルバムを全て揃えてしまった今、初めてあれらのベスト版を聴いても、同じような感動は得ることが出来ないだろう。

 好きになりたての頃。情報も知識も少なく、同時に偏見も主張もない。アーチストに対する決まった見方も存在していない ― あの刹那にしか、私たちはベスト版特有の感動を味わうことが出来ない。
 あの「うぶな」感性にとっては、ベスト版収録の他にどんな名曲があろうが、まったく関係の無い話だし、曲順さえも大した問題ではない。だって、「知らない」という最高の状況こそが、その感性を生み出したのだから。

 その感性が、「好きだ」と判断すると、ベスト版を水先案内人として、オリジナルアルバムへの旅へと出発する。
 それは、さらなる豊かな音楽世界への旅立ちであると同時に、希有な感性との決別を意味している。

 人が老いて、二度と取り戻すことの出来ない「若さ」が、ベスト版に感動する感性と似ている。
 経験を積んだ今から思えば、愚かで無知かもしれない。時として、馬鹿にしたくもなるかもしれない。
 しかし、あの感性のみずみずしさは、確かな輝きだったと、懐かしく、そして愛おしく思い出す。
 実年齢は、関係ないだろう。その音楽に対する経験が浅ければ、その感性は「若い」のであって、今の私にはそんな「初心者」がうらやましく、まぶしい存在だ。

 だから、すでにアルバムも知識も豊富に持ち合わせた「ファン」が、ベスト版をあれやこれやと批評するのは、野暮だと思っている。
 確かに、文句もあるだろう。自分の知識と好みに照らせば許せないこともあるだろう。
 しかし、所詮「ファン」は、ベスト版に最適な感性を失っている。悲しいことに。

 だからベスト版は、レコード会社は潤せば良い。そして新たなファンの、良き案内役になれば良い。
 その後、その新たなファンは情報とアルバムを集め、自分にとっての本当のベスト版を、自分で作ればそれで良い。
 ファンであるが故に、色々と躍起にはなっているが、せめてベスト版だけは「あのときのうぶな感性」を回想しつつ、のんびり眺めたいと思う。
 
 ・・・と、ここまで書いて、私はとんでもない矛盾にぶちあたってしまった。
 私は今回のジョージ・ベスト [Let it roll] に関しては、述べた如く、のんびり眺めていようと思ったのだが、それどころではなくなった。
 つまり、このベスト・アルバムが非常に気に入ってしまったのだ。知っている音ばかりだし、私にとってのベストも入っていないのだが、毎日ヘビー・ローテーションで聴き倒している。
 もうダウンロードや輸入版で、3枚分は購入している。きっと、語り出したら止まらない。
 さぁ、困った。野暮ったいことになってきた。助けて神様、仏様、ディラン様!

伶倫楽遊@紀尾井ホール2009/07/05 23:01

 紀尾井ホールでの、伶楽舎の雅楽演奏会に行った。第25回「東京の夏」音楽祭2009参加公演,伶倫楽遊。
 今回のプログラムは、前半が舞楽を含む古典作品,後半は池辺晋一郎作品の初演という構成だった。

 クラシックの演奏会には、すっかり縁遠い生活になってしまったが、伶楽舎の演奏会だけは、極力行くようにしている。
 伶楽舎は1985年に音楽監督・芝祐靖先生を中心に結成された、雅楽合奏団体。古典や、復曲もの、そして現代音楽の演奏などで、国内外広く活躍している。
 芝祐靖先生をはじめ、学生時代や、その後もお世話になった先生がたが、揃って活躍している。さらに、学生時代からの友人の一人も所属している。
 この友人というのが、実は私と一緒に卒業旅行でロンドンに行った人物で、私につきあってアビーロード(2回)はもちろん、遠くリヴァプールや、ふつう行かないヘンリー・オン・テムズまでつき合わされ、「変わったところに行けて面白かった」とコメントしたツワモノである。

 雅楽演奏会の宿命だが、客席の至るとことに撃沈(熟睡)している姿がみられた。
 私のように雅楽の演奏経験者でも眠いし、演奏している本人も眠いのだから、仕方がない。
学生時代だが、笙を演奏中の同級生が半分寝ていて、よだれを垂らしながら吹いていたということもある。

 舞台にはあらかじめ、打楽器が置いてある。やがて開演直前、調弦した琵琶と箏(「琴」。雅楽では「箏」を用いる)が持ち込まれるのだが、その作業の最中に「ガツン!」という音がホールに響いた。なんと、長い箏の一方を舞台背後の壁にぶち当てたらしい。思わず笑ってしまったが、ぶつけた本人は青くなっただろう。
 トラブルはここまで。古典曲ではいつものとおり、手堅い演奏を聞かせてくれていた。ただ一つだけ惜しいことに、舞楽の退場曲で、篳篥が音を止めるをタイミングを逃してしまった。

 後半は、池辺晋一郎作曲の現代曲。
 いつも思うのだが、雅楽の現代曲は、古典の引き立て役になってしまう。どれほど世界的名声を得ている現代作曲家の大作でも、結局はいつも「古典って良いな」で、私の感想は落ち着いてしまう。
 学生時代、「陪臚(ばいろ)」という曲が好きだった。吹きやすいので好きなのだと思っていたのだ。
 後年、伶楽舎の演奏会で「陪臚」と現代曲を聞く機会があった。そのとき、私は「陪臚」が好きなのは、名曲だからだということを思い知った。現代曲との差は、それほど大きかった。

 今回の池辺晋一郎作品も、残念ながら私の現代雅楽曲に対する評価を、大きく覆すことにはならなかった。
 多くの雅楽現代曲は、妙な衣装や、珍しすぎて使いづらい楽器などを入れることが多い。そして、ほぼすべての曲が静謐で幻想的な笙を静かに挿入するところから始まる。別に悪くはないが、どれも同じような作りで、どれ一つとして印象的に「良かった」と思わせる曲がないのだ。

   その点、今回の池辺作品は、衣装も普通どおり、楽器もおなじみで、しかも幻想的な笙で入らなかった所までは良かった。いきなり打・弦楽器で始まったときは少し期待したが、その後はピンとこない展開だった。
 会場もすこし集中力を欠いたようで、物音も多く、音楽がしっかり聴衆の心をつかんでいるとは言い難かった。
 演奏終了後、作曲者,池辺晋一郎が舞台に登場。さすがにこの曲では消化不良なので、また何か作って欲しい。

 いかにもという感じの、ありきたりな雅楽現代曲ではなく、「こうくるか!」と驚かすような名曲の登場はあるのだろうか。
 もしくは、古典雅楽の良さ ― たとえば、楽器ごとにはユニゾンで、ばく進する傍若無人なノリとか、笙の幻想性に依存しない、芯の強い作品などが、聞いてみたい。

 最後に、会場の事を。
 その名の通り、紀尾井町にある、紀尾井ホール。新日鐵が創立20周年のメセナ事業の一つとして作った。収容人数は中ホールで800人程度。少人数編成のコンサートに最適。
 伶楽舎のような雅楽にもぴったり来る。以前、伶楽舎がサントリー・ホールで演奏したことがあったが、若干大きすぎるような気がした。

 これは、開演前に二階席から撮った写真。携帯カメラのシャッター音が凄まじく良く響いて焦った。



 シャンデリアが美しい。これを見て、「ザ・ラスト・ワルツ」を思い出す私は、結局ロック・ファン。
 紀尾井ホール程度の規模の、美しくて雰囲気のある会場が好きだ。ごくたまにだが、少しだけドレスアップして、すてきなコンサート・ホールに行くのも悪くない。あとは、眠気を払うだけ。

スターたちが集う日2009/07/07 22:53

 明日は、ジョージのベスト [Let It Roll] の日本版発売日。…と、言うわけで今日、仕事ディナーの後で、渋谷のHMVに突進して、無事にゲットした。これで都合、4枚目購入。任務完了。満足、満足!
 さらに、ストーンズの映画 [Shine a Light] のDVDをゲット。おまけのポスターと、くじ引きの結果「B賞」として、パンフレットみたいな物をもらった。ありがたいのかどうかは、分からない。
 さらに、リンディスファーンのアルバム2枚。[Nicely Out Of Tune],[Fog On The Tyne]

 月初なのに、なぜか現金が無い。おかしいなぁ。どうしてだろう?

 7月8日の一日前にジョージをゲットしたわけだが、つまるところ、7月7日という日は覚えやすい。否応なしにリンゴの誕生日であることを思い知る。ちなみに、星を見る日でもあるが、今夜は月が明るくて、別の意味で星が美しく、ある意味で星の鑑賞には向いていなかった。

 ジョージとリンゴ。ジョージとリンゴと言えば…[I Won't Back Down] しかない!(何か、おかしいですか?)

 名曲につけられたこのビデオ。まぁ~ったくお金はかかっていないが、そういう問題ではない次元のお話。



 きらきらトムさん、とてもお美しいです。
 マイクは勝負服でキメキメである。ジョージとプレイする勝負日には、このジャケットと決めているのだろうか。そして、あの有名なギター,ロッキー。私が持っているソフトの中では、ロッキーを一番アップで見られるのが、このビデオである。
 どうしようもなくお金はかかっていないし、リンゴの活躍も意味不明で、どうでも良いのだが、ロッキーをはじめとして、所々に「目印」をちりばめている遊びが、ウィルベリーズっぽい。

 マイクが弾いているグレッチは、ジョージへのオマージュだと思う。
 全員があのカートゥーンのTシャツを着るのは、"Handle With Care" を示唆しているのだろう。さらに、あのハデハデピカピカのジャケット!(マイクまで着る羽目に!)あれは、モンティ・パイソンに登場する「ブラック・メイルの司会者」だと思っているのは、私だけだろうか。
 リンゴが着ていたジャケットの一つが星柄なのは、"Star(r)" を示唆しているのだろう。ああいう服は、どこで売っているのだろうか?

 何と言っても、私が一番好きなのは、曲の最初の方。トムさんの後方で、突っ立っていたジョージが突然、カラクリ人形のように、ガタっ!…と(変な動きで)踊り出す。それを、首を廻らして見やるマイクが好きだ。
 その視線は、飽くまで愛である。この視線は別角度でも一瞬とらえられるが、やはりそこにあるのは愛だ…。

フレデリックスバーグ2009/07/11 00:32

 リーの率いる、南軍による北部侵攻作戦,メリーランド作戦が、アンティータムの戦いで挫折した後、逆に北軍が南部連合への侵攻作戦を実行に移し、バーンサイド率いるポトマック軍が南下した。
 最初の大規模な戦闘は、ヴァージニア州フレデリックスバーグで行われたのだが、その地理的理由は、地図を見れば一目瞭然だ。



 北部連邦首都ワシントンと、南部連合首都リッチモンドを結ぶ最短経路の、ほぼ中間にフレデリックスバーグは位置するのである。さらに、南北に流れるラパハノック川の西岸に町があり、背後にはメアリー高地という丘が控えていた。

 1862年11月17日、12万の北軍が川の対岸に到着した直後に、バーンサイドが何らかの無理な手を使ってでも、軍を渡河させて、フレデリックスバーグに突入してしまえば、この町の名が歴史に残ることもなかったかもしれない。
 この時、フレデリックスバーグの南軍は、せいぜい500ほどしか居なかったのだから、占領は造作もなかっただろう。
 しかし、バーンサイドは渡河のため橋の構築に手間取り、その完成を悠長に待った。橋の遅れ自体は後方支援の責任だったが、現場責任者のバーンサイドはグズグズするべきではなかった。

 北軍が川を渡りあぐねている間に、リー以下、ロングストリート,ストーンウォール・ジャクソン,スチュアートなど、歴戦の名将たちが70000の兵を率いてフレデリクスバーグに集結してしまった(それでも、数の上で南軍は北軍の6割にも満たないのだが)。

 12月13日の明け方、バーンサイドは苦心惨澹の末、いよいよ渡河と総攻撃を命じた。

 戦場は大雑把に言って南北に分かれていた。
 フレデリックスバーグの市街地から南に5キロほど下流の西岸には、スローンウォール・ジャクソンと、ジェブ・スチュアートの騎兵が配された。数の上では北軍が圧倒していたが、北軍フランクリンの進軍は勢いを欠いていた。たちまち、スチュアートにやられてしまい、退却を余儀なくされた。
 特に、スチュアートの部下で、わずか24歳の若い少佐ジョン・ペラムの砲撃は目覚ましい成果を上げ、リーの印象にも残った。このペラムというのは、3月9日の、スチュアートの記事に登場した、ペラムである。

 一方、フレデリックスバーグ市街背後のメアリー高地では、まさにどうしようもない戦闘が展開されていた。渡河した北軍はせっせとメアリー高地に向かって進撃し、ばたばたと丘からの砲撃に倒された。
 正規の軍隊による戦闘などと呼べる代物ではなかった。自殺行為だの、虐殺だの屠殺だのと記述されるほど、北軍の進軍は馬鹿げていた。そのことにバーンサイドが気付いて退却するにも、驚異的な時間がかかった。

 指令部のリーは、名言を吐いた。
 「戦争がかようにむごたらしいのは、いいことだ。そうでないと、我々は戦争が好きになり過ぎるかもしれない。」
 これは、この状況で、しかも高潔な人格で知られたリーが言ったからこそ、意味がある。リーは余りにも愚かなこの状況を、当事者でありながら正確に把握していた。

 日暮れになって、やっとバーンサイドは戦闘停止と撤退を決めた。それに際して、バーンサイドはリーに死傷者の回収を願い出た。「リーは寛大に受け入れた」と表現されるのだが、リーにしてみればこの状況で寛大も何もあったものではないだろう。
 死傷者、北軍は12000(死傷率1割!)、南軍は5000だった。

「威風堂々」もしくは「希望と栄光の国」2009/07/13 22:30

 昨晩のN響アワーは、エドワード・エルガーの交響曲を丸一曲放映して終った。もちろん、力作だし良い演奏だと思うが、私の感想はただ一言、「長い!」…だった。
 よっぽど自分は、クラシックに向いていないのだろう…

 エルガーと言えば、「威風堂々」しかも第一番。この曲ひとつで十分だと思う。これしか知らない。…と、言うよりこれだけ有名で、素晴らしい楽曲を一つでも作り、名を残せる音楽家が、世の中にどれほど居るだろうか?この曲の愛されぶりと、その素晴らしさを思うと、代表曲って一曲で十分なんだなと思う。
 音大時代に、知った風にこの曲をけなす上級生が居たが、私とはまったく相容れない価値観と言う事で、気にもならなかった。

 「威風堂々 第一番」をさらなる名曲たらしめているのが、歌曲バージョンである、「希望と栄光の国」。
 プロムスのラスト・ナイトの映像を見るたびに、いつかあの場所に行ってみたいと思わずにはいられない。ロイヤル・アルバート・ホールがダメなら(だめだろう!)、せめてハイドパークだけでも!



 ちなみに、あのアビー・ロード・スタジオの開設記念録音は、エルガー自ら指揮棒を振った、「威風堂々 第一番」だった(当時はもちろん、EMIスタジオ)。



 私がこのことを知ったのは、1997年にNHKで放映された、海外ドキュメンタリーを見たとき。
 このドキュメンタリーでは、ポールや、クリフ・リチャード、ホリーズの面々が日本語を話していたが(吹き替え)、やっぱり一番印象的だったのは、ジェフ・リンかな?(笑)

 アビー・ロード・スタジオに、ビートルズのレコーディングを見に行ったときの事を語っているのだが…
 「結局、10分くらいでつまみ出されちまったけどね。」
 私だったら、「出されちゃったけどね。」にするけどなぁ…バーミンガム風なのか?

本を読む順番の重要さ2009/07/16 23:58

 昨日7月15日付けで、[Cool Dry Place] に、「カントム」のチャプター8をアップした。
 今回は、TP&HBがディランとツアーをする、86年から87年の下り。訳しながら、色々な事を思った章だった。

私には、あまりライブ・エイドに関する記憶と知識、感想がない。チャリティという存在意義はともかく、音楽クオリティ的には、あまりそそられないからだろう。
 トムさん自身の感想は、ライブ・エイドの自分はいまいち。ディランもいまいち。ジミー・ペイジがトムさんの腕をとって、ステージ脇に連れていってくれた話が可愛い(ちなみに、私はレッド・ッペリンと発音する)。

 挿話的に語られた「終演後の過ごし方」も、興味深かった。
 ショーの前のトムがナーバスであることはけっこう知られているが、終演後もリラックスしているとは言い難いようだ。タフに見えて、やっぱり繊細なトムさん。かわいい。

 ディランのTP&HBとのコラボに対する、入れ込みようが好きだ。
 私たちが鑑賞できる音や映像の様子からは、文学作品である、ディランの自伝よりも、「カントム」のほうが実況的で分かりやすい。
 ロジャー・マッグインも加わって、「お菓子屋さんの子供状態」になるハートブレイカーズ。トムさんの言う、「疲れたけど満ち足りていた」というのは、まさにその通りの表現だろう。
 ディランとの2年にもわたる深い交流と、その間に培われた友情は、ウィルベリーズへと連なる重要なファクターであることが良く分かる。

 これからのスタイルを模索して、ディランが苦しんでいたことは、彼の自伝を読めば分かるが、それを見いだすために彼がとった手段 ー ハートブレイカーズとの2年間が、いかに充実した物だったかは、「カントム」と、映像・音声作品から伝わる。
 しかも、ディランにとっても居心地の良い時間でもあったようだ。
 無論、「お菓子屋の子供」にとっても同様で、ー 特にトムは普段のフロントマンとしての重責から解放され、敬愛するミュージシャンと楽しく共演し、しかも友情も得る日々は、とても快適だっただろう。

 そんな時に、突然の悲劇。未明の火事。放火だった。
 翻訳するのが辛かった。訳しているうちに、どんどん気持ちが落ち込んでいってしまう。「カントム」を購入したときに、通して読んであったのだが、詳細に翻訳するとなると、鬱な気持ちになってきた。
 章の前半が、ディランとの充実した活動で、その反動もある。
 もちろん、知識では火事の事は知っていたが、改めてトム本人がまとまって話すと、改めてその不幸がズシンと伝わってくる。
 トム・ペティは基本的に話すのが上手な人で、私にも理解がしやすい。しかし、この火事の下りは、トム自身が語りにくそうで、翻訳するのも少し苦労したところが多い。
話すのも辛いほど、トムが受けた衝撃は強く、負った傷は深かった。

 普段は姫っぽいキャラのトムさんの(と、私は思っている)、火災発生時の活躍は、さすがに格好良い。
 しかし、惚れ直している場合ではなく、その後に来る恐怖と怒り、喪失感は、たとえようもなく深かった。マイクやベンモントなどが、この火災についてはあまり多くをコメントしていない理由が分かるような気がする。
 その一方で、火災直後に会いに来たデイヴ・スチュワートの台詞が、おかしいのやら、とぼけているのやら・・・一応、彼なりに友人を励ましていたつもりらしい。
元相方のアニー・レノックスの方が、よほど実務的にお役に立っているのだが。

 「誰かが自分と家族を殺そうとした」という厳然たる事実を、目の前にする ー そういう体験を持ったトムが、1999年にジョージが自宅で侵入者に刺されたという報に接したときにの事に、ふと思いが至った。
 「きみが死んでしまったみたいのを、とりあえず体験したけど。お願いだから、あんな風には死なないでくれ。ぼくには到底耐えられないから。」 ー このジョージへの言葉には、同様の悲劇を体験した者ならではの、重みがあったのかもしれない。
 ジョージがそれを考慮したかどうかは知る由もないが、彼は「そうはならない」と、約束してくれた。

 読む方にもショックと悲しみを与える事件の後、TP&HBはすぐにディランとのツアーに戻る。このツアーのおかげで、ギターの数々だけは助かったわけで、その恩恵には預かるべきだったのだろう。
 セラピーとしての、ディランとのツアーに感謝しつつ、トムはこの素晴らしきコラボレーションを、2年間で終わらせる。
ハートブレイカーズも、その後はオフになってしまうので、やはり「自分の現実の生活に戻らなければ」という自覚が強かったようだ。

夢の生活は続かない。事実、思いも寄らない悲劇が、夢の生活を破壊した。
 現実に戻ろうとする、トムの生真面目さは、頼もしいと同時に、ひどく痛々しい。ー だからそこそ必然的に、そして運命的に次の「章」が控えているのだ。

 ここで私は、翻訳する順番を間違えたと実感した。

 夢とその破壊、それに悲劇に打ち勝とうとする痛々しいトムの目の前に、新しい世界とそれをもたらす、運命の人が現れる ー それが、次の章,チャプター9なのだ。
 ジョージと、ジェフ・リン。この二人の登場から、新たな人生の展開を予感し、しかも自ら「人生最良の時期だった」というほどの季節を迎える。
 トムが実感した幸福感と、充実感は、チャプター8の後に読むからこそ、その実感が伝わるのだ。
 私はジョージを優先して、チャプター9を先に翻訳してしまっていた。人生最良の時期を先に読んで、人生最悪の章に戻ったら、落込んむのでしまうのも当たり前だ。

 想像を絶する災厄を被り、精神的な強烈な打撃を受けたトムさんが、ウィルベリーズに強い愛情を持ち、いつもジョージの話をしたがるのも、無理からぬ事だと、今更ながらに実感した。

 ついでではあるが、ディランがウィルベリーズで楽しんでいた理由も、「カントム」から良く分かったような気がした。
 ディランはハートブレイカーズとの共演を続けるつもりだった。だから、トムに終わりにしようと言われて、悲しそうだったとある。
 それでも、ディランは前に進み続け、88年の春からのツアーを計画していたのだが、そこにジョージが仲間を引き連れて飛び込んできた。
 ここでもやはり、トムのケースと同じく、痛々しい努力を続ける友人の前に現れるジョージ。彼がもたらしたウィルベリーズは、「もっと楽で、しかも幸福な時間を過ごしても良いんだよ」と、大きくて優しい手をさしのべているようだ。
 ジョージが意図的だとはとても思えないが、多くの「親友」たちがジョージを愛した理由が、この辺りにもありそうだ。

Inkspots, Cugat, Charo2009/07/18 23:33

 先日Cool Dry Placeにアップした、「カントム」のチャプター8に登場したアーチストを、確認することにした。

 まず、ディランとベンモントだけが知っていて、セッションを楽しんだ、"Inkspots" から。
 「カントム」では Inkspots になっているが、本当は The Ink Spots らしい。1930年代から40年代にかけて活躍した、黒人ヴォーカルグルー プで、結成はインディアナポリス。オリジナル・メンバーは既に全員故人だ。
 美しいハーモニーに乗せた、テノールの優しげなメイン・ヴォーカルが印象的。いかにも、ディランが好きそうな感じがする。ベンモントはど うして知っていたのだろう?育ちが違うから、家にレコードがあったとか?
 ビデオを見ると、昔風の素朴さと、小芝居が笑える。



 次に、トムさん一家が火事の後に仮住まいした所の関連。Xavier Cugat の奥さんの家だったところに、越したとのことだが…

 Xavier Cugat という名前は、どう発音すれば良いのやら。私は日本人なのであのファースト・ネームを見ると、どうしても「ザビエル」と読ん でしまう。1900年生まれのスペイン出身エンターテイナーで、もとはヴァイオリニストだった。キューバに住んでいた時期が長く、そのためアメ リカに渡ったあと、アメリカにおけるラテン音楽の発展に多大なる貢献をした。
 トムさんは「ラス・ベガスで活躍した」と言っているが、実際はニューヨークや、西海岸の映画制作にもかかわった、マルチ・タレント。バンド ・マスターであり、シンガー、ソングライターに、俳優、脚本家もこなした。ビートルズがカバーしたことでも有名な、"Besame Mucho" の、最 初期録音も手掛けている。

 このご機嫌なラテン音楽。さらに楽しいおしゃべりに、魅力的な女性ヴォーカリスト。まさに、古き良きアメリカのエンターテインメント



 Cugatの4人目の妻が、家の前の持ち主、チャロである。1951年生まれ、スペイン出身。本名はものすごく長い。
 アメリカでパワフルなシンガーとして活躍したのだが、66歳のCugatと結婚したのは、15歳の時…と、言うことになっている。…え?本当? !
 びっくりしたところで、彼女のビデオを見ると、さらにびっくりす。なんだかすごいぞ、チャロ!



 すさまじいパワー!圧倒される。家を下見するためにチャイムを押して、彼女が玄関に出てきたら、トムさんなんか頭から丸飲みにされち ゃいそうだ。
 アメリカでは、歌手のみならず、女優としても活躍している。しかも侮るなかれ、スパニッシュ・ギターの名手でもある。日本でも放映された ドラマ、「ラブ・ボート」のテーマ曲を歌い、ゲスト出演もしていた…と言えば、ピンと来る人も居るだろう。
 要するに凄い有名人なのだが、トムさんによれば「Xavier Cugatの奥さんだった」…ということになる。自分より1歳下なのに、16歳で66歳 のラテンミュージックの重鎮と結婚したことが、よっぽど印象的なんだろう…。

Happy Birthday to Howie !2009/07/21 00:00

 7月21日は、ハウイ・エプスタインの誕生日。1955年生まれ。生きていれば、54歳…はぁ、そうか。ハウイって永遠の少年っぽい感じがしたので、…感慨深いです。

 さて、1986年7月21日。ボブ・ディラン with トム・ペティ&ザ・ハートレブイカーズは、ニュージャージーでライブ。
 ディランは、バンド・メンバー紹介を、「お誕生日タイムだ!」というセリフで始める。タバコをばくばくふかしているのだが…それ、タバコだよね?ウハウハ笑い過ぎですよ、ディラン様…。

 ベンモントの次は、「マイケル・キャンベル、世界最高のギタリストだぞ!」後ろでニコニコウロウロしてるマイク、可愛い、可愛い!スタンは「アメリカ最後のドラマー!」…「みんな、アメリカ生まれだろ?誰か違う人、居る?うはうはうはうは…」…ディラン様、笑えませんよ。いまどきは海を渡って見に来る人も居ますので。
 さて、メインイベント。「ハウイ・エプスタイン、お誕生日おめでとう。ハウイの誕生日だら、自分でキー決めて。」ハウイがキーを示すと、ベンモントがイントロを弾き…



ファッピぶぁ~スデぇ~…トゥ~ユ~…

 ぎょえー!ごめんなさーい!シンガー!シンガー!頼むから歌ってくれ!…あー、びっくりした(焦)。
 とにかく、ハウイ、おめでとう!この時、31歳か…若い…。
 最後に、シンガーズを紹介して…もしかして、トムさんの紹介を忘れてる?最後にしたのか?最初にしてあったのか?やっぱり忘れてたのか?!

ロゴ大捜索2009/07/25 23:12

 ストーンズの映画、[Shine a light] をDVDで再見した。
 ライブ撮影の準備段階で、チャーリーがうんざりしながらジム・ケルトナーに「映画は作るより見る方が好きだ」、などとこぼしている。

 ジム・ケルトナー。おなじみ、ジョージの親友の一人であり、世界最高のドラマー。TP&HBも駆け出しの頃に親切にアドバイスなどしてもらっているし、ウィルベリーズや、そのほかの録音でも一緒に仕事をしている。
 何の気無しに、ウィキペディアでジム・ケルトナーの記事を確認した。すると、気になる一文があった。

 Keltner played in Concert For George, a tribute to Harrison a year following his death. Wearing the sweatshirt with Bob Dylan logo, he reprised his role as the Wilburys' drummer, joining Tom Petty and Jeff Lynne for "Handle with Care."

 ボブ・ディランのロゴつきスウェットシャツ?…なんだ、それは?!CFGマニアを自認する私なのに、今まで一度も気づかなかった。もう何十回も鑑賞しているのに!
 さっそく、大捜索開始。[Concert for George] DVDを再生速度を少し早めつつも、ジム・ケルトナーが映りこむたびに一時停止して確認するのだが、良く分からない。黒いトップスの左胸には、確かにロゴらしきものがあるのだが、それのどこがどうディラン様なのか。捜索一日目は成果なし。
 捜索二日目。さらに眼を皿のようにするのだが、まだ分からない。
 いや、待てよ。探し求めるべき、「ボブ・ディランのロゴ」がどんなものであるかが、分かっていないではないか。それを先に確認するべきではないかと、捜査方針変更。
 "bob dylan logo" でググってみると、その「ボブ・ディランのロゴ」なるものが上がって来た。
 …しまった、初めて見た。例えばTP&HBのロゴほどには、知られていないのでは?オフィシャルストアにはこのロゴをあしらった、アイテムがたくさん。マニキュア・セット?ギターを弾く人用とか?

 ディランのロゴがどんなものなのかが分かれば、ジム・ケルトナーの服にあるロゴも、確認できた。この映像は、リンゴの "Honey Don't" のシーン。なるほど、確かにディランのロゴだ。



 ウィキペディアの記事が言いたいのは、ウィルベリーズの曲で、「トムとロイの真似をするジェフ、ジョージの息子、そしてディラン・ロゴを着たオリジバル・ドラマ―が揃った」ということだろう。
 このシャツ、もしやジョージからのプレゼント?別にジョージからもらわなくても、いくらでも持っていそうなケルトナーだが、そこは、「友達に会うたびに、プレゼントを持ってくるジョージ」のこと。話としては、普通にあり得そうだ。

 ところで、あまりにもジム・ケルトナーを見過ぎたせいで、CFGに新たな発見をした。  ポールの "For you blue" の途中で、ケルトナーは右手のスティックを落として、拾い上げていた。そう言うこともあるのかと、変に感心してしまった。

マッドマーチ2009/07/28 23:14

 マッドクラッチ MUDCRUTCH ― 「泥の松葉杖」というのは変なバンド名だが、「泥の行進 MUD MARCH 」というのも、変な言葉だと思う。でも、双方とも実際にあったのだから、仕方がない。

 1862年12月、バーンサイド率いる北軍がフレデリックスバーグで悲惨な目に遭った後、南北両軍はラパハノック川を挟んで対峙した。
 バーサイドは余りにも酷過ぎた結果を挽回しようと、あまり時間をおかずに行動に出た。1863年1月、バーンサイドは軍勢をラパハノック川沿いに上流へと向かわせた。そのうえでラパハノック川を渡り、フレデリックスバーグに布陣する南軍に、側面攻撃を仕掛けるのが、その意図だった。要するに奇襲なのだから、これは素早く行われなければならない。

 時は冬のさなか。南部連合の地とは言え、ヴァージニア州北部で降るとしたら雪のはずだった。ところが、バーンサイドの作戦開始日である1月20日は温かく、雨が多いに降り始めた。車やら、大砲やら、とにかくズルズルと引きずって行く軍勢の移動に、雨は悪条件であることは言うまでもない。地面がひどくぬかるみ、兵士たちは前進どころではなくなった。
 北軍は泥の中で悪戦苦闘、なぜか飲酒も許可されたが、あまり効果があるとは思えない。南軍の斥候が、この泥の中で苦しむ北軍の兵士たちに出くわしたというのだから、すでに奇襲もなにもあったものではない。
 結局、この作戦行動は単に「泥の行進」という、どうしようもない名前を奉られたのみの、無駄骨に終わった。バーンサイドは、全軍をもと居た場所 ― フレデックスバーグのほぼ対岸,ファルマスに戻した。

 戦下手が明白である上に、天にまで見放される。よほどバーンサイドはラパハノック軍のような大軍の司令官には、向いていなかったのだろう。しかもやることの結果がいちいち悲惨なのだから、士気に影響するのは当然だった。
 さらに悪いことに、部下の将官たちもバーンサイドを非難して憚らず、抗命行動まで起こったのだから、軍隊としては「終わっている」。そのバーンサイド攻撃の急先鋒が、ポトマック・第一軍の将官ジョゼフ・フッカーである。彼はかなり強烈な表現で、いかに上司バーンサイドが司令官として不適格かを、リンカーンに訴えた。むろん、バーンサイドも黙ってはおらず、リンカーンへフッカーに関する低評価を書き送った。

 結局、リンカーンはどうしたか。バーンサイドをポトマック軍司令官から解任し、東部戦線へと転じさせた。フレデリックスバーグの敗戦や泥の行進だけならまだしも、軍という組織の大事な指揮系統が崩壊しつつあったのでは、もうバーンサイドに挽回の余地はなかった。
 後釜には、フッカーが据えられた。席次順のせいかもしれない。しかし、軍隊おいて上官の命令に抗する ― 組織にとっての致命傷になるようなタイプの男が、上に行けるとは意外な思いがする。この場合のリンカーンは、「文句を言うのなら、お前やってみろ」という気分だったのかも知れない。

 ポトマック軍司令官に就任したフッカーがまず取りかかったのが、軍組織の立て直しである。その崩壊に一役買ったのだから、当然だろう。さらに、士気の鼓舞にもつとめた。あだ名が「ファイティング・ジョー」だったぐらいだから、フッカー本人の士気も大したものだった。彼は名言を吐いている。

 God have mercy on General Lee, for I will have none.
 神のご加護がリー将軍にあらんことを。私はそのようなものは持ち合わせていないので。


 ところで。
 バーンサイドとフッカーは、性格的には対照的だったが、妙な共通点がある。その名前が、一般名詞化したことだ。
 バーンサイドは、彼の頬髭の形に名を残したのに対し、フッカーはある職業の女性を表す俗語 hooker の語源になったというのである(辞書を見てね)。これは、彼がファルマスの野営地で彼女たちに営業することを許可したことに由来するという。
 この話は広く信じられているようだが、実は hooker の俗語的な用法は、フッカーの名が知られるようになる前から存在していたらしい。フッカーにしてみれば迷惑な話だ。しかし、この伝説が信じられるという事実が、彼の業績に対する冷徹な評価になっているのかも知れない。

 私はhookerという言葉が現在でも俗語的な意味で用いられているのかどうか、皆目見当がつかなかった。おいそれと英会話の先生に訊くわけにもいかない。
 しかしある日、某スーパースターの元妻に関するゴシップ(もしくは、根拠のない中傷)に、この意味でのhookerが使われているのを目にして、大いに驚いた。