テンチ家の兄弟(その4) ― 2008/09/11 22:30
アル・フランクリンさんは、ジェイムズ・アンドリュー・テンチ ― ベンモント・テンチの曽祖父ジョンの、すぐ下の弟 ― の死に関して、1861年6月26日にヴァージニア州モントレーで亡くなったとしている。どうやら、ニューナン(テンチ家の故郷)にある、テンチ家の墓所(Tench family cemetery)の記録に基づいているらしい(アル・フランクリンさんについては、8月4日の記事「テンチ家の人々(その2)」を参照)。
一方、ニューナンの地元新聞,ニューナン・ヘラルドが戦後1866年1月13日に掲載した、「ニューナン・ガーズ・戦死者名簿」では、ジェイムズは1866年7月にヴァージニア州モントレーで亡くなったことになっている。
モントレーは、ヴァージニアを東西に分断するアパラチア山脈の東に位置する、高原の町だ。標高はおよそ880m。今では高地農業が盛んで、毎年メイプル祭りがひらかれる。「アメリカのスイス・アルプス」という売り文句で観光にも力を入れる、風光明媚なところでもある(ジャズ・フェスティバルで有名なカリフォルニア州モントレーとは、もちろん別の町)。
この情報を頭に留め置き、ウェスト・ヴァージニア作戦の前半を追ってみたい。
南部連合は、北部連邦に属するオハイオと、ワシントンの補給地となるメリーランド州ボルチモアを結ぶ鉄道機能を止めるため、ポーターフィールド大佐以下800の軍勢を、ウェスト・ヴァージニア北部(もちろん、アパラチア山脈の西側)から出発させ、グラフトンのやや南に進軍した。
一方、北部連邦に属するオハイオ軍を率いるのは、34歳の若きジョージ・マクレラン少将。一度退役したのち、内戦勃発に伴って軍に復帰したマクレランは、オハイオ州西部シンシナティで軍を整備し、ウェスト・ヴァージニアに向けてモリス准将以下3000の軍勢を出発させた。
南北がまみえたあたりは、ウェスト・ヴァージニアでありながら南部連合に同調する住民が多かった。アパラチア山脈西側の裾にあたり、タイガード川(Tygard)が流れ、グラフトンの南にフィリッピという場所に橋があった。南軍のポーターフィールドはここに布陣した。
5月末、モリス配下の北軍は二手にわかれて、ウェスト・ヴァージニアの北方から町を占領しながら南下し、それぞれ南軍に悟られないようにフィリッピに向かった。6月3日の早朝、ピストルの発砲音を合図に、二方向からフィリッピに布陣する南軍に攻撃を仕掛ける作戦である。
3日の夜明け前、フィリッピの付近に住んでいた南部連合支持者であるハンフリーズ夫人は、北軍の進軍を目撃した。そこで息子に馬で南軍へ知らせるように、指示した。しかし息子は北軍兵士に確保されてしまう。それを目撃したハンフリーズ夫人は、果敢にも北軍兵士たちにピストルを発砲した。彼女の発砲は目標を外れたが、これがなんと、二手にわかれて隠密行動をしていた北軍の一斉攻撃合図になってしまった。
北軍兵士たちにとって意外なタイミングでの一斉攻撃となったが、まだ就寝中だった南軍にとってはさらに意外な敵の襲来で、- 兵士がまだ訓練されていなかったという不幸も重なって -大混乱となった。寝込みを襲われた兵士たちは身支度もろくにできないまま、南にむかって敗走した。
ろくな発砲もないまま終わったこの戦闘は、単に「フィリッピの戦い」(古代ローマにも同名の戦いがある)か、もしくは「フィリッピ・レーシズ(競走)の戦い」と呼ばれる。死傷者は北軍4名,南軍26名。いかに、北軍にとっても予想外の出来事だったかがわかる数だ。富士川の水鳥を彷彿とさせる出来事でもあろう。
フィリッピでの敗走を経て、南軍はベヴァリーに拠点を移した。指揮官はロバート・ガーネット准将に交替し(南北戦争ではかなり頻繁に指揮官が交代する。北軍においては、総司令官もその例外ではなかった)、地元ヴァージニアの歩兵連隊を加えて組織の建て直しを図り、更にジョージア州や、テネシー州からの騎馬隊も加わった。
こうして、6月半ばには再布陣が完了する。南軍の指揮官ガーネットは、ベヴァリーの北に位置するローレル・ヒルを最重要防衛ラインと考えた。南下する北軍のマクレランはグラフトンからフィリッピを経て、正面攻撃すると予想したのである。
そこで、ガーネットは自身以下大部分の部隊をローレル・ヒルに配置。ベヴァリー南西のリッチ・マウンテンの砦には、ペグラム大佐以下少人数を配置した。
一方、北軍を率いるマクレランは、7月7日から配下のモリス准将(「フィリッピの戦い」での指揮官)に一部の部隊を率いてローレル・ヒルに向かわせ、自分はローズクランツ准将を先鋒として大部分を迂回させ、手薄なリッチ・マウンテンに向かった。
南軍はマクレランに裏をかかれた。
7月11日、リッチ・マウンテンのペグラム以下南軍は北軍本体の一斉攻撃に耐えられず半数が降伏し、一部はベヴァリーに向かって敗走した。
この知らせに対し、ガーネットは13日にローレル・ヒルを放棄。リッチ・マウンテンから逃げてくる味方を吸収することなく、北東方面の川沿い(Corricks Ford)に向かって、敗走した。この間、南西からマクレラン-ローズクランツの主力と、北からモリスの軍勢に悪天候の中追い回される事になる。
結局ガーネット自身は、山を越えて東側のヴァージニアへ逃げ込む事が出来なかった。彼はこの戦争を通じて、戦死した最初の指揮官になってしまったのだ。逃げ延びた南軍は、山を東側に越えて、モントレーにたどりついた。
緒戦の地名を取って、この一連の戦いは「リッチ・マウンテンの戦い」と呼ばれる。
これによって、ウェスト・ヴァージニア北部に布陣していた南軍は、アパラチア山脈の東に駆逐され、これを指揮したオハイオ軍司令官マクレランは、「ウェスト・ヴァージニアを解放した英雄」として、名を馳せる事になった。
一連のウェスト・ヴァージニア作戦前半の経過を見ると、フランクリンさんが採用している、ジェイムズ・テンチの死亡日時6月26日には、疑問符がつく。
テンチ兄弟が入隊したニューナン・ガーズを含んでいたであろう、ジョージア州の騎兵がアパラチア山脈西側の戦闘に加わったのは、フィリッピの戦いの後、ベヴァリー周辺での布陣した7月からだ。そしてニューナン・ヘラルドも記しているように、ジェイムズが死んだのはモントレーで間違いなさそうなので、ジェイムズはリッチ・マウンテンから始まる敗走軍の中に居たとするのが、妥当ではないだろうか。
テンチ・セメタリーの記録,もしくはフランクリンさんの記述は、7月を6月と誤っているのかもしれない。
ニューナン・ヘラルドには、1861年の7月にモントレーで死んだニューナン・ガーズのメンバーを、ジェイムズ以外にも一名報告している。彼らはCorricks Fordでの北軍の攻撃中に負傷,モントレーまでたどりつきはしたものの、この地で死んだと思われる。当時の戦地における医療,衛生状態からして、重傷者が死亡する確率は高かった。
ジェイムズ・テンチの墓は、故郷ニューナンのテンチ・ファミリー・セメタリーにある。彼の遺体が、故郷の土にかえったかどうか、そして兄のジョン,弟のルービンがその悲しい瞬間に居合わせたのかどうかは、分からない。
故郷から遠く離れたヴァージニアの高原でジェイムズが死んだとき、彼は19歳になったばかりだった。
(つづく)
一方、ニューナンの地元新聞,ニューナン・ヘラルドが戦後1866年1月13日に掲載した、「ニューナン・ガーズ・戦死者名簿」では、ジェイムズは1866年7月にヴァージニア州モントレーで亡くなったことになっている。
モントレーは、ヴァージニアを東西に分断するアパラチア山脈の東に位置する、高原の町だ。標高はおよそ880m。今では高地農業が盛んで、毎年メイプル祭りがひらかれる。「アメリカのスイス・アルプス」という売り文句で観光にも力を入れる、風光明媚なところでもある(ジャズ・フェスティバルで有名なカリフォルニア州モントレーとは、もちろん別の町)。
この情報を頭に留め置き、ウェスト・ヴァージニア作戦の前半を追ってみたい。
南部連合は、北部連邦に属するオハイオと、ワシントンの補給地となるメリーランド州ボルチモアを結ぶ鉄道機能を止めるため、ポーターフィールド大佐以下800の軍勢を、ウェスト・ヴァージニア北部(もちろん、アパラチア山脈の西側)から出発させ、グラフトンのやや南に進軍した。
一方、北部連邦に属するオハイオ軍を率いるのは、34歳の若きジョージ・マクレラン少将。一度退役したのち、内戦勃発に伴って軍に復帰したマクレランは、オハイオ州西部シンシナティで軍を整備し、ウェスト・ヴァージニアに向けてモリス准将以下3000の軍勢を出発させた。
南北がまみえたあたりは、ウェスト・ヴァージニアでありながら南部連合に同調する住民が多かった。アパラチア山脈西側の裾にあたり、タイガード川(Tygard)が流れ、グラフトンの南にフィリッピという場所に橋があった。南軍のポーターフィールドはここに布陣した。
5月末、モリス配下の北軍は二手にわかれて、ウェスト・ヴァージニアの北方から町を占領しながら南下し、それぞれ南軍に悟られないようにフィリッピに向かった。6月3日の早朝、ピストルの発砲音を合図に、二方向からフィリッピに布陣する南軍に攻撃を仕掛ける作戦である。
3日の夜明け前、フィリッピの付近に住んでいた南部連合支持者であるハンフリーズ夫人は、北軍の進軍を目撃した。そこで息子に馬で南軍へ知らせるように、指示した。しかし息子は北軍兵士に確保されてしまう。それを目撃したハンフリーズ夫人は、果敢にも北軍兵士たちにピストルを発砲した。彼女の発砲は目標を外れたが、これがなんと、二手にわかれて隠密行動をしていた北軍の一斉攻撃合図になってしまった。
北軍兵士たちにとって意外なタイミングでの一斉攻撃となったが、まだ就寝中だった南軍にとってはさらに意外な敵の襲来で、- 兵士がまだ訓練されていなかったという不幸も重なって -大混乱となった。寝込みを襲われた兵士たちは身支度もろくにできないまま、南にむかって敗走した。
ろくな発砲もないまま終わったこの戦闘は、単に「フィリッピの戦い」(古代ローマにも同名の戦いがある)か、もしくは「フィリッピ・レーシズ(競走)の戦い」と呼ばれる。死傷者は北軍4名,南軍26名。いかに、北軍にとっても予想外の出来事だったかがわかる数だ。富士川の水鳥を彷彿とさせる出来事でもあろう。
フィリッピでの敗走を経て、南軍はベヴァリーに拠点を移した。指揮官はロバート・ガーネット准将に交替し(南北戦争ではかなり頻繁に指揮官が交代する。北軍においては、総司令官もその例外ではなかった)、地元ヴァージニアの歩兵連隊を加えて組織の建て直しを図り、更にジョージア州や、テネシー州からの騎馬隊も加わった。
こうして、6月半ばには再布陣が完了する。南軍の指揮官ガーネットは、ベヴァリーの北に位置するローレル・ヒルを最重要防衛ラインと考えた。南下する北軍のマクレランはグラフトンからフィリッピを経て、正面攻撃すると予想したのである。
そこで、ガーネットは自身以下大部分の部隊をローレル・ヒルに配置。ベヴァリー南西のリッチ・マウンテンの砦には、ペグラム大佐以下少人数を配置した。
一方、北軍を率いるマクレランは、7月7日から配下のモリス准将(「フィリッピの戦い」での指揮官)に一部の部隊を率いてローレル・ヒルに向かわせ、自分はローズクランツ准将を先鋒として大部分を迂回させ、手薄なリッチ・マウンテンに向かった。
南軍はマクレランに裏をかかれた。
7月11日、リッチ・マウンテンのペグラム以下南軍は北軍本体の一斉攻撃に耐えられず半数が降伏し、一部はベヴァリーに向かって敗走した。
この知らせに対し、ガーネットは13日にローレル・ヒルを放棄。リッチ・マウンテンから逃げてくる味方を吸収することなく、北東方面の川沿い(Corricks Ford)に向かって、敗走した。この間、南西からマクレラン-ローズクランツの主力と、北からモリスの軍勢に悪天候の中追い回される事になる。
結局ガーネット自身は、山を越えて東側のヴァージニアへ逃げ込む事が出来なかった。彼はこの戦争を通じて、戦死した最初の指揮官になってしまったのだ。逃げ延びた南軍は、山を東側に越えて、モントレーにたどりついた。
緒戦の地名を取って、この一連の戦いは「リッチ・マウンテンの戦い」と呼ばれる。
これによって、ウェスト・ヴァージニア北部に布陣していた南軍は、アパラチア山脈の東に駆逐され、これを指揮したオハイオ軍司令官マクレランは、「ウェスト・ヴァージニアを解放した英雄」として、名を馳せる事になった。
一連のウェスト・ヴァージニア作戦前半の経過を見ると、フランクリンさんが採用している、ジェイムズ・テンチの死亡日時6月26日には、疑問符がつく。
テンチ兄弟が入隊したニューナン・ガーズを含んでいたであろう、ジョージア州の騎兵がアパラチア山脈西側の戦闘に加わったのは、フィリッピの戦いの後、ベヴァリー周辺での布陣した7月からだ。そしてニューナン・ヘラルドも記しているように、ジェイムズが死んだのはモントレーで間違いなさそうなので、ジェイムズはリッチ・マウンテンから始まる敗走軍の中に居たとするのが、妥当ではないだろうか。
テンチ・セメタリーの記録,もしくはフランクリンさんの記述は、7月を6月と誤っているのかもしれない。
ニューナン・ヘラルドには、1861年の7月にモントレーで死んだニューナン・ガーズのメンバーを、ジェイムズ以外にも一名報告している。彼らはCorricks Fordでの北軍の攻撃中に負傷,モントレーまでたどりつきはしたものの、この地で死んだと思われる。当時の戦地における医療,衛生状態からして、重傷者が死亡する確率は高かった。
ジェイムズ・テンチの墓は、故郷ニューナンのテンチ・ファミリー・セメタリーにある。彼の遺体が、故郷の土にかえったかどうか、そして兄のジョン,弟のルービンがその悲しい瞬間に居合わせたのかどうかは、分からない。
故郷から遠く離れたヴァージニアの高原でジェイムズが死んだとき、彼は19歳になったばかりだった。
(つづく)
最近のコメント